「フクシマの正義」

少し前のこと、知人との間で原発住民投票のことが話題になった。彼女は「もし原発が止まれば電気代があがって、払えない人も出てくるかもしれない。今住民投票をやれば、感情的な脱原発の人が多いから、原発はゼロになってしまうだろう。原発なんてないほうがいいにきまってるけど、いきなりゼロはどうかと思う」と言った。原発には複雑な問題がからんでいるのだから、短絡的に一時の「感情」で行動するのはよくない、というわけだ。何人かで昼食のテーブルを囲んでいる場だったので、突き詰めた話はできなかった。私は、確かに100をいきなり0にするには無理がある、立地自治体の人たちの生活も考えなくちゃね、と応じたのみだった。

この数ヶ月のあいだに、何度もこの会話を思い出した。ひっかかっているのだ。
彼女の意見が、彼女なりに考えた誠実なものであることは分かっている。「脱原発=電気代高騰」を鵜呑みにするのも短絡的なことではあるが、マスコミ報道にしか接していない人の、標準的な意見だろう。

ただ、「脱原発=感情論」という図式をあたりまえのように受け入れていることには、大きな違和感を持った。自分の頭でしっかりと考えることのできるいい大人が、「感情的だ、ヒステリーだ」と、鈍感なことしか言えない政治家と同じ言葉を口にしたことに。

私にはなかなかデモに参加する機会がなかった。ようやくの7/29日、国会包囲抗議行動に出かけて行ったのは、一度自分の目で、長く見かけることのなかった、「もの言う普通の人たち」の姿を、見ておきたかったからでもあった。それからまた、デモに対するこれまでのマイナスイメージ、すなわち、ヒステリックであるとか、イデオロギーを標榜した政治運動であるとか、一部の騒ぎたがりのやの鬱憤晴らしであるとかを、翻してくれるのを期待してもいた。これらが皆無であるとは、思わない。けれども、大多数の人たちの普通さに、私は本物を見て帰ってきた。

けれども、「デモで原発は止まるのか(それだけでは止まらない)」というのもまた、確かにあると思う。ここでは、脱原発に潜むエゴイズムを、原発を「抱きしめて」生きてきた(これからも生きていかなければならない)福島の人々の視点から問うている社会学者、開沼博の意見を聞いてみよう。
・福島に届かぬ”原発反対”の声

かなり挑発的な言い方をしているので(たぶん意識的に)、コメントもたくさん入っていて、なかなか興味深い。ただその言い方ゆえに、実は開沼さんは、脱原発を全否定しているわけではない、そうではなくて、たとえそれがフクシマを思う善意であっても、そこに福島の現実を無視したずれがあれば、善意も伝わらないと言っているのだ、ということが、すんなりと理解されていないように思う。

コメントのなかに、脱原発は福島だけの問題ではない、自分は福島のためではなく自分のために声をあげている、という趣旨のものがあった。もっともである。誰も自分のこととしてしか、脱原発を語れないと、私も思う。このような人たちに、開沼さんは、だったら「福島をかえせ」などとシュプレヒコールするな、と言っているのだ。そして、無自覚に押し付けてきたものを、今度はまた無自覚に捨てさせようとするエゴイズムを自覚しろ、と言っているのだ。その自覚の無い脱原発の意識構造は、原発推進と同じものなのだと、言いたいのだ。ただ、この最後の点を上記のインタビュー記事から読みとるのはなかなか難しい。私がこう書けるのは、彼の「フクシマの正義」を読んだからだ。

◆フクシマの正義 ーー「日本の変わらなさ」との闘い 開沼博/幻冬舎

開沼博が3.11前に書いた修士論文「フクシマ論」は、原発事故直後から注目されるようになり、加筆されて出版もされた。私はビデオニュース・ドットコムのトークセッションで、彼の論旨の概要に触れていた。「フクシマの正義」も、同内容の主張を、論文ではなく評論やエッセイとして展開したものだと思う。重複があったり、ちょっと散漫だったりするのは、ばらばらに発表されたものなので仕方がない。巻末の対談は、それぞれの対談者の発言も面白く、人選もなかなか良かった。

開沼さんは、「原発村」を、中央の原発推進利権団体である「村」と、地方の原発立地自治体の「ムラ」とに分け、特に原発を「抱きしめて」生きてこざるを得なかった「ムラ」からの視点で、原発政策の、引いては沖縄やダム建設などにも共通する、日本という国の構造をあぶりだそうとする。その構造を一言で言えば、戦前の対外的植民地政策(コロナイゼーション)を、中央と地方という対内的植民地政策に振り替えたもの、ということだ。「資源の獲得と経済格差の利用」は、対外的には第二次世界大戦で打ち砕かれたけれど、対内的には成功モデルとなった。

「内なる植民地」、まさにその通りだと思う。けれども、過疎からの脱却を目指して自ら進んで「殖民地」化を選んだ地域の人々はまだしも、「殖民地」で生産されたものを中央で消費する都市住民は、開沼さんの指摘がなければ、なかなかこの構造を理解できない。いや、指摘されても、その批判の矛先が自分に向けられていることは、わからないかもしれない。彼の怒りだけは感じ取れる「善意」の人は、だから、反発するのだろう。
(しかしさすがに、フェミニズムという周縁から、差別の社会学に切り込んだ上野千鶴子の門下生らしい視点だ。切り込み方にも影響を感じる)

開沼さんは「植民地」と刺激的な言葉で定義したが、原発が、過疎の村の足元を見るようなやりかたで立地されてきたのは、周知の事実だ。交付金づけは麻薬患者にもたとえられる。だが開沼さんの本を読むと、実際に原発を受け入れた立地自治体の人々を麻薬づけと呼ぶのは、ちょっと違うんじゃないかと思えてくる。そんなにことは単純ではないし、そんなに卑小なわけでもない。彼がまず訴えたいのは、フクシマの人々にとって原発は善でもあったということだ。そしてそこで、事故の前も、悪があらわになった事故の後も、目の前の現実を生きていかなけれならないのだ、ということ。そのことを彼は、「(福島の人たちは)原発を抱きしめて生きてきた」と言う。

いわき市の出身で、2006年から修士論文のために福島でフィールドワークを行ってきた彼は、だから無邪気に「脱原発」などと言うことが許せない。そして、これまで何の疑問も抱かずに電気を消費してきた都市住民が、被害が自分たちに及ぶかもしれないとなったとたん、無自覚に「原発反対」を叫ぶことを糾弾する。

彼は言う。何も変わっていない。事故があっても何も変わらない。事故後の選挙でも押しなべて推進派が勝ったではないか、と。脱原発デモでも、何も変わらないだろう。何故なら「内なる植民地」構造はそのままだし、脱原発を叫ぶおまえの「支配する眼差し」も、事故の前のままなんだから、と。

原発は確かに、社会運動のひとつの「燃料」として消費されてきた。成田も、ベトナム戦争も。そして日本の社会運動の多くが、目的を果たせないまま消えてしまったことも事実だ。

かつての反原発がなぜ収束してしまったのか、なぜドイツではそれを政策決定までつなげることができたのか、イタリアでは国民投票が実現したのに、なぜ日本では、政治的な拘束力の無い住民投票ですら実現できないのか、何が違うのか、それを考えなければいけないと思う。
そして、開沼さんが必要性を強く訴える「地に足の着いた現状認識」、すなわち、フクシマを生きてきた、今も生きている人たちの姿を見ること、見ようとすること。彼は、「(運動を継続して)ぜひ5年後に福島に来てください」と、ここでも上野千鶴子ゆずりの挑発をぶちかます。高橋源一郎は対談で、「ムカつかせるところがいい」と、けんかを売る若者の気概を笑った。

ところで私は、「何も変わっていない」とは思わない。いや、こう言いなおした方がいいだろう。フクシマの前と後で、世界は変わってしまった。変わってしまっているのに、旧来の「植民地」構造にしがみつく人たちが、少しも変わらずにいるのだと。
日本に放射能は出てしまったのだ、それは30年、60年、90年と、少しずつしか消えないのだ。あるいは、何百年、何万年と言う単位でしか。そして今も出続けている。このあとフクシマの収束過程で何かあれば、もっとひどいことになる。加えて、すでに満杯になりつつある核廃棄物。それらとずっとつきあっていかなければいけないのだ。これまで見ないふりをしていたけれど、もう当事者であるいうことから逃れられない。これまでのデモと大きく違うのは、参加者がこの「当事者性」をしっかりと持っている、ということではないか。

もちろんこの「当時者性」とは、誰もが皆「フクシマ」の「当事者」であるという意味ではない。
高橋源一郎は「恋する原発」について、9.11のときは書こうとして書けなかったものが、3.11では書けた、それは自分が当事者だったからだ、と述べた後、でも良く考えたら自分は当事者ではない、と「当事者性」を否定する。そして『今回のことについては、「僕は当事者じゃない」と言うほうがいいと思う。そう言いきった上で、何かにかかわるほうがいいと思う』と続けている。

開沼さんのデモに関するインタビューに関して、「私は福島のためにやっているんじゃない。自分のためにやっているんだ」というコメントを紹介したが、これを開沼さんはどう受け取るだろうか。
原発に関して、この狭い日本に、当事者でない人間などいないと、私は思っている。ただその「当事者性」は、それぞれ異なるのだ。私ならば、今は停止しているけれど、予想される震源域の上に建っている原発から45キロ離れた地に住む者の、「当事者性」である。あるいは、福島からこれだけ離れているのに、農産物にセシウムが検出される地域の「当事者性」である。また、福島第一の緊急時避難区域の、すぐ外側に住む人たちの「当事者性」は、同じ福島に住む人でも、立地自治体の人たちとはまた違うだろう。この異なった立ち位置からフクシマを見る者の、「当事者性」ということである。

「2030年代までに原発ゼロ」発表と、それがアメリカの「懸念」によって閣議設定されなかったのは、この本が出てからのことだ。だから開沼さんは言及していないのもかもしれないけれど、日本は内なるコロナイゼーションだけでなく、まだ外からのコロナイゼーションの下にもある、ということも確認しておくべきだろう。これが「何も変わらない」ことの、少なくともひとつの原因であることは間違いない。いや、もしかしたら一番大きな原因なのかもしれない。

外に責任を転嫁するのは自戒しなければいけないけれど、原発がアメリカの利益のためにも推進されてきたということは、押さえておくべきだ。自国内では、米原子力規制委員会(NRC)が、8月7日に、核廃棄物の最終処分の問題が解決されるまでは、新たな原発の建設や原発稼働の期間延長をいったん停止することを決めた。「(最終処分問題を)もう後回しには出来ない」のは日本も同じだ。いやもっと逼迫している。アメリカは、自国に考慮していることを、フクシマを抱えた地震列島日本には考慮していないと、思わざるを得ない。考慮しているのはアメリカの利益だけのように見える。

第二次世界大戦後に独立した多くの国と、旧宗主国との関係で共通なのも、この「内なるコロナイゼーション」と、見えざる「外からのコロナイゼーション」だろう。日本もエジプトも、違いは程度の差でしかない。幸福なことに日本は、「宗主国」と豊かな利権を分け合うことができた。おこぼれは都市住民をも潤したので、私たちは原発のことも、沖縄のことも、他人事として生きてこれたのだ。

このこともまた、変わってしまったことだと思う。いや、ずっと変わらず、同じではある。けれでも繁栄のとき、このことは覆い隠されてあった。あるいは、隠すのが上手な政権の下では、たとえうっすらと気づいていても、気づかぬふりを通すこともできた。けれども、原発の当事者となってから、目を凝らしてフクシマ後の行方を追ってきた人に、このことは見えてしまったということ。

増大するデモ、デモ主催者と野田首相との会見、意見聴取会、パブリックコメント、それらの積み重ねの帰結として、あいまいで矛盾だらけではあっても、原発ゼロという数字が、もう少しで閣議決定されるところまできたのだ。それがあっさりと翻されてしまった。アメリカの利益と、経済界の利益と、そして原発立地自治地体の利益の総和は、大きかった。

冒頭の疑問に戻ろう。脱原発は感情的なものなのかどうか。実際にデモに参加してみたが、一時の感情という感触はほとんど持たなかった。もちろんなかには、プリミティブな拒否感だけの人もいるだろうし、ガス抜きに来ている人もいるだろう。行動を自己目的化する旧来の傾向は常にあるだろう。けれども私には、それだけとは思えない。

開沼さんや知人が見落としているのは、脱原発に向かう人たちの倫理感のようなものではないかと、私は捉えている。あくまで当事者としての自分から始まってはいても、自分を超えた、共同体や未来に対する思い。知ってしまった以上、見てしまった以上、これまでと同じように黙していることを、自分の中の良心が許さない。それともこれは、単なる私の願望だろうか。

社会運動は、不利益を拒否し、権利や利益の獲得を目指す。また、そのような社会システムや構造の改変を求める。だが、革命でも起きない限りは、状況が一気に反転することはない。日本では、何よりも、「原子力村」と「原子力ムラ」が自分たちの共通の利益を手放さなければ、事態は動かないだろう。加えてアメリカの利益も、見事に二つの「村」・「ムラ」と一致している。強固な構造である。原発の即事ゼロなど、知人が心配するほど甘いものではないのだ。

道はどこにあるのだろうか。
道は、ひとつには、自分がいる場所での「当事者性」を見つめ続けることだろうと思う。そこから「フクシマ」を見続けていくこと。とにかく持続すること。開沼さんの強烈なメッセージ、半年や一年で「フクシマ」を忘れるなよ! を、忘れないようにすること。

それから、なんとかして、私たちの現在・未来にかかる利益と、福島だけではない、全国の「原子力ムラ」の人たちの利益を、少しでも一致させていくことではないか、そんな気がしている。

そのためにも、開沼さんが、怒りや使命感、あるいは社会学者として示してくれた問題提起を、私たちは本当に大事に考えなければいけないと思う。自らの「支配する眼差し」を自覚する者こそ、「感情的」から最も遠いところにいる。そしてこの内なる「植民地」では、私たちもまた「支配する(見えざる)眼差し」にさらされているということも。その先に、利益の一致を越えた倫理の一致が見えればいいと思う。

【参考】
・松岡正剛 夜千冊番外編 1447夜「フクシマ論」ほか
・原発推進も米の圧力
・米原子力規制委 原発の延長と新設の凍結問題

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