『中東民族革命の真実』『中東政治学』 

『中東民族革命の真実』
—エジプト革命の真実 田原牧 集英社新書(2011.7)

著者は東京新聞特報部デスク。Videonews.com で神保さんとの対談で存在を知った。性同一障害をカミングアウトしている、なかなかカッコいい人である。
番組のテーマは何故東京新聞は脱原発を貫いてあれだけの記事を書けるのか、というものだった。答えは、忘れてしまうくらいあっさりしていた。地方新聞であることなど、他社大手とは違う社内風土に触れつつも、ごく普通の「ブンヤ」の目で事象を追うと、ごく自然にこうなるのだ、というような言いかただった。

田原さんはエジプト駐在、留学経験があり、シリアだかレバノンだかでスパイ容疑で逮捕されたこともあるという。神保さんでなくても、専門である中東の話を聞きたいと思うのは当然だろう。

この本は、エジプトがデモから革命を果たしたその最中の現場から始まり、民主革命に至るエジプトの背景などに迫るもの。まだ選挙は実施されておらず、したがって大統領も選出されていない段階で書かれた。

 

『中東政治学』 酒井啓子編 有斐閣(2012.9)

こちらは、中東諸国のそれぞれの政治形態や歴史を、若手研究者が中心となる書き手でまとめたもの。つまり論文で、読者には学生や研究者を想定しているようだ。各章のタイトルやテーマはまことに興味深いものの、したがって、読み物としては面白くない。

エジプト・シリアはなんとか読めても、イエメンなどはなかなか追えない。読んでもするすると文字が頭上を通り過ぎるばかりなので、途中からあきらめてしまった。自分にとってのとっかかり、ひっかかりがないと、まさに義務的に読まされる教科書となってしまうのである。

ということで、拾い読みのような状態で終わっているけれど、教科書として、手元に置いておき、新聞ニュースなどと併読するのがよさそう。でも図書館の本で、あらためて買うってのもなあと、足が止まっている。

しかし、この二冊の本で、一歩下がって中東を見るときと、一歩踏み込んで中東を見るときの視点が、少しだけ強化されたような気はしている。
これまで読んだものは、歴史から壮大に始まるんだけれど、途中でなんとなく視点がばらばらになってしまって、すっきりしない思いが残る、そんなものが多かった。
ひとつには近・現代の中東が、実際は非常に複雑で、かつ多様なあり方をしているのに、背景となる、共通の、被植民地化と独立という軸と、アラブ世界、イスラム教世界という別の軸が、あるからかもしれない。つまり、固定すべき視点の位置どりが、一冊の本のなかでは、なかなか難しいということだろう。

これまでで私がつかみとったものは、別段目新しいものではない。
即ち、現中東各国の成り立ちが暴力的であったこと、その暴力がいまだに尾を引いていること、その暴力は、欧米の中東に対する関わり方の、二重基準と欺瞞の上に相変わらず乗っていること、などだ。

中東やアフリカを地図で見るとき、これらの地域の国境がなべてまっすぐなことの意味を、絶えず突きつけられているような気になる。この地図上の直線ほど、暴力的な線はない。

だが、いったん引かれた線は、かくもと驚くほど強力に、その後の国の成り立ちを決定してしまっている。歴史も、民族や部族や宗教宗派をも無視して引かれた線に沿って、分断は引き続き遂行され、その不安定さゆえに必要となる強権によって、統治されてきた。それは、社会主義一党独裁でも王政でも同じことで、欧米にとっても、体制の違いなどどうでも良かった。

この線が、かつての複雑な線に戻ることは、大筋ではもう考えにくい。ありうるかもしれない希望的・平和的な未来は、EUのような統合しかないのではないかと、ふと思う。
けれども、イスラエルがある。
これもまた、ふたたび建国の前の線に戻ることなど、考えられなくなっている。

流血のシリアはどういう着地点を迎えるのか。リビアのような介入というシナリオが登場するのか、それとも、内線状態のなかから、国のかたちが再び立ち現れるのを長い時間をかけて待つしかないのか。

そのリビアはどうなっているのか。エジプトとシリアの影に隠れるように、最近ほとんど情報を目にしていない。

エジプトでは憲法が国民投票で信任されたようだ。大統領の権限を拡大する法案をムルシが取り下げたことで、世俗派も選挙に賛同した結果だ。6割を超える信任との大統領・同胞団側の発表に、世俗派は不正があったと主張している模様。

エジプト革命を上記二冊で追うと、わが国と照らしあわせて、民意を政治に一致させる難しさを思う。デモからムバラク退陣の主役であった世俗派若者層は、結局、同胞団を凌駕する政治勢力になりきれずにいる。

革命に至るまでには、寄せては返す波が岩を砕くような、長い時間に渡っての社会運動があったことを知った。いきなりあのような民衆運動が生まれたわけではないのだ(当たり前だけど)。そして、デモに乗り遅れたムスリム同砲団の勝利もまた、単純な宗教勢力の復活ではない。これまた長い、地道な組織的社会運動の、その積み重ねの結果なのである。この運動を支えるイスラムというイデオロギーに変えて、世俗層は民主主義という概念で人びとを束ねていかなければならない。果たして彼らは民主主義に、イスラムのような強い求心力や正当性を見出していけるのだろうか。

それでも、トルコの政教分離という「成功」事例がある。非宗教的な国に生まれ育った目から見たら、イスタンブールに「成功」を見、シンパシーを感じるのは当然のこと。その裏側に、黒いチャドルに象徴的に喚起される疑念や不信があるわけで、ただ、これを当然と捉えることにはためらいがある。
私たちは簡単に政教分離と言う。分けられるものだと思っている。が、これもまた普遍的な概念ではない。

翻って日本である。
このたび、民意と政治の乖離は更に進んでしまった。民意が、それを政治に反映させるほどに結集して、ひとつの力となることができるのかどうか。日本では、エジプトの世俗派が力を結集させるより、はるかに難しいかもしれない。

民主主義はすでに、私たちには聞き飽きた言葉だ。新鮮な、みずみずしい、つやつやした輝きを失っている。実際はまともな民主国家であったことはほとんどなく、民主的に考えることや行動することをしなくても、自らを民主的と思いむことが可能だった幸福な国民。わたしたちは、真綿のような柔らかな肌触りの欺瞞にくるまれてきた。そこからの覚醒と、覚醒後ただちに訪れる挫折感、諦念、怒り、無力感。それらを出発の糧にしなければいけないということ。

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