『生贄の女 ムフタール』

— 屈辱の日々を乗り越えて
ムフタール・マーイー ソフトバンククリエイティブ株式会社/2006.9

昨年の10月パキスタンで、15歳の少女マララさんが、
学校からの帰りにタリバンから銃撃される、という事件があった。
(幸い一命を取りとめ、英国で治療を受けていたが、
今年2月、頭蓋骨修復と聴力回復の手術が無事成功した)
彼女はブログで女性の教育の権利を訴えていた。
銃撃したのは、女を無知のままにしておきたい人々だ。
教育を受け、自分の頭で考え、読んだり書いたりできるようになれば、
理不尽なテロを批判することにもなる。

この本の著者、1972年生まれのムフタールは、読み書きが出来なかった。
敬虔なイスラム教徒である彼女は、あの夏の日まで、
それがコーランの教えなのだと、疑問も抱かずにいた。
彼女のまわりに文字の読める女などいなかったのだ。

親が決めた結婚をした。
夫はほとんど生活能力の無い男だったので、
父親の尽力により離婚した。
家に戻ったあとは、暗唱していたコーランを教えたり、
刺繍を教えたりしながら、ひっそりと暮らしていた。
豊かではなかったけれど、それなりに満ち足りた毎日だった。

彼女の人生の全てががらりと変ってしまったのは、2002年の6月。
12歳の弟が上位カーストであるマストイの一家から、
名誉を傷つけたといういわれのない告発をされ、捕らえられてしまう。
村の問題は族長会議で処理されることが多く、
この件も、家族の中の女が許しを乞うことで決着を図る、と決められる。

その役にムフタールが選ばれたのは、長女であり、離婚している女だからだ。
ムフタール本人も、父も、村人たちの前で恭順の意を表し、
コーランにのっとって謝罪をすれば、
マストイの怒りもおさまるだろうと信じていた。

イスラムの男の名誉というのは、
家族のなかの女の貞節が守られている、ということだ。
告発は、12歳の少年が、20歳を過ぎたマストイの娘に言い寄った、
というものであった。
これは下位カーストであるグッジャルの一家を陥れ、
彼らのわずかばかりの土地を奪い取ろうとするたくらみだった。

彼らは謝罪の言葉など聞く耳を持たず、
ムフタールを小屋に引きずり込み、4人の男たちで強姦した。
初めからそのつもりだったのだ。

ムフタールは自殺を望む。
だが、家族がそれを許さなかった。
あまりに深い心の傷に打ちのめされていた彼女だったが、
警察で供述をしながら、告訴を決意する。
前例のないことではあっても、マストイの復習が予想されても、
一度は死を望んだ身に、あるいは心の中にマグマのように渦巻く怒りの前に、
気持ちは揺るがなかった

裁判となり、一審は勝訴となるも控訴され、
この本が出版された2006年には、まだ結審していなかった。
だが、この国では、このときまで、レイプが告訴されることなどなかったのだ。
パキスタンの通常の法廷では、レイプを立証するには、
4名以上の目撃証人が必要だ。
だが、その4名がレイプ犯であれば、立証などあり得ない。
自分たちの罪を証言するかもしれない他者の前で、レイプする男などいない。

幸運なことに、ムフタールの裁判が持ち込まれたのは、テロ裁判所だった。
医師の診断が、彼女の受けた肉体的な傷の証拠となった。

救いは、裁判に持ち込むにあたって、
ムフタールが出会った多くの人たちが彼女を支え、
共に正義の裁きを求めたことだ。
ジャーナリズム、良心を持った判事、女性大臣、海外のメディア、
アムネスティ、世界中の女性団体、
女を交換可能な財貨か、あるいは生贄の羊としか見ない社会にノーを言う、
同胞の女たち。

女性大臣は裁判費用の足しにと、小切手を差し出した。
示談金かと勘違いしたムフタールは、お金なんかいらないと拒否する。
では何が欲しいのかと聞かれ、とっさにムフタールは「学校」と答える。
女の子が学べる場が欲しいと。

警察で供述書に母音を押すとき、
そこに自分が話したことが本当に記されているのか、
ムフタールにはわからなかった。
警察も上位カーストの言いなりなのだ。
一度は白紙の書類に母音を押させようとさえした。
事件が報じられた新聞も、ムフタールには読むことができなかった。
事件を糾弾し、彼女を力づける内容であっても、
それを読んで喜びを得ることができなかった。

女性大臣はムフタールの願いをきき、村に学校ができた。
ムフタールが校長だ。
そして彼女もまた、読み書きを覚えた。

彼女の支えになった人たちのなかで、
法律を学んだエリート女性ナジームとの出会いが素晴らしい。
ナジームはムフタールの無二の親友となる。

なんという違いだろう。ナジームには自分の進む道を自分で決めることができる。それに、彼女には闘士のようなところがあって、いつでも堂々としているし、ものを言うとなったら相手が誰だろうと恐れない。

女性の権利のために戦うヒロインとなっても、
ムフタールは自分の言葉で自分のことを語ることができずにいた。
そんなムフタールに、ナジームは言う。

「あなたの事件のことは新聞で読んだけど、あれはつまり大勢の人があなたについてしゃべってるだけでしょ? で、あなたは? あなた自身はどう思ってるの?・・・・・・
・・・・・・抵抗し続けるしかないのよ。でも社会に対してだけじゃないの。自分自身とも闘わなきゃ。あなたはおとなしすぎるし、抱え込みすぎる。それで心配ばかりして自分を追い込んでる。自分で監獄に閉じこもってるようなものなんだから、そこから出なきゃ。そのためにも言葉にしなきゃ。私が何でも聞いてあげるから」

「あなたはいまよちよち歩きの赤ん坊みたいなものよね。だって人生ががらりと変ってしまったんだもの。だからゼロからの出発よ。私は精神科医じゃないけど、でも話してみてちょうだい。事件の前のこともね。どんな子供時代だった? 結婚生活は? つらかったことも聞かせてちょうだい。とにかく話すのよ、ムフタール。人間っていいことも悪いことも人に話さないと生きていけないものなの。話せば自由になれるわ。汗まみれの服を洗濯するのと同じことよ。洗濯してきれいになったらまた平気で着られるでしょ?」

その後、私はとうとうあの暴行事件の一部始終についてもナジームに話すことができた。

それにしても、苦しいことや恥ずかしい秘密を誰かに打ち明けると気持ちも体も楽になるなんて、私はまったく知らなかった。

写真のムフタールは、とても美しい。
美人であることを超えた、内面からの美しさがにじみ出ている。
2009年のAFPの記事が、その後ムフタールは裁判に勝利し、
彼女を警護した警官と結婚したと報じていた。
・暴行被害のパキスタン女性、過去を乗り越え差別に苦しむ女性を支援

それまでレイプ被害者は、被害者自身に罪があるかのようにみなされてきた。
結婚など考えられなかった。
また、恋愛結婚も難しい社会だ。
プロポーズした警官は、彼女の真の美しさに惹かれ、
因習を打ち破って彼女を求めたのだろうけれど、
ムフタールの気持ちはどうだったのだろう。
彼女はこの本でこう言っているのだ。

外国では結婚というとすぐに恋とか愛とかが問題になって、
そういう主題の歌も多いようだけれど、私たちにはそうした感覚はない。
・・・・・・私たちの地方では結婚はもっと単純で、すべて決まったとおりにするだけのことだ。

この国の女性には、愛を求め、自分の望む男性と結婚することが事実上禁じられている。

彼女の事件は世界的にも注目され、パキスタンでも大きく報道されたが、
それでレイプがなくなったわけでも、
「みせかけの事故」で殺される女が、いなくなったわけでもない。
家族による「名誉殺人」もしかり。
自分たちの「掟」に異を唱える少女を殺害しようとする集団も、
いまだ公然と跋扈している。

巻末の参考に、パキスタンは教育投資が極端に少ない国だとあった。
教育投資は国内総生産の二パーセントを下回るのだが、
そのような国は世界に12ヶ国しかないと。
識字率(パキスタンの場合、自分の名前の読み書きが出来る程度も含む)は、
女性だけでなく、男性も低い。
ちなみに男性62.7、女性35.2パーセントである。
しかも地域差、階層差が大きい。

パキスタンには、かつて女性首相がいた。
イスラム圏ではじめての女性首相だった。
二度にわたって首相を務めたアリー・プットは、
2007年、選挙集会で暗殺された。

彼女は、ハーバード大とオックスフォード大で学んだ超エリートだった。
だが、一人の女性首相、一人の女性大臣だけで、
この国の女たちの未来に光がさすわけではない。
何人ものナジーム、何人ものムフタール、
何人ものマララが生まれること。
彼女たちが手を携えて立ち、書き、語り続けること。

理想の近代恋愛と近代家族にがんじがらめになって、
混乱した、あるいは疲弊した日常を生きるわが国の女たちと、
彼女たちとの間の距離は、そう遠くないような気がする。
いずれにおいても枠組みとなる強固な規範、モデルがある。
いずれにおいても女たちに奪われた、言葉がある。
規範からはみ出し、語る女たちがいて、
支配と所有と権利の問題が、地続きにあることがわかってくる。

 

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