『家族の悩みにお答えしましょう』

信田 さよ子 朝日新聞出版/2012.9
(初出誌 「一冊の本」2010.6月号~2012.3月号 単行本化で加筆訂正)

信田さんの最新刊?
人生相談のようなQ&A方式だけれど、
実際にこの通りの相談や質問があったわけではない。
プロのカウンセラーなのだから、クライアントの話は守秘義務で書けないし、
実際のカウンセリングでの応答は、長い時間に渡るから、
こんなふうに一問一答で答えられるものでもない。
質問は全て信田さんが作り出したものだ。

と言っても、それらは長年のカウンセリングから抽出した、
これぞというエッセンスによって練り上げられており、リアル極まりない。
一方回答の仕方も、実際とは違う。
カウンセリングでは、カウンセラーが安易に解を導き出してしまうことはない。
それは対話の中で、クライアント自らが獲得するものだからだ。
かなり踏み込んで自分の意見も述べるという信田さんでも、
問いに対して、あえてずれた答えをすることもある。

それがこの本では、ストレートに回答を出している。
思うところをさらけ出している。
個人の問題の背後にある家族の問題を、しっかりと前景化させている。
それも理屈ではなく、個別の関係(とその予想)で展開されているので、
一般読者にはとてもわかりやすい。
程度こそ異なれ、同じ根から出た問題を持つ人は多いと思う。
まわりにこれらの問題を抱えた人も、けっこういる。
非常に深刻で、長期化している人たちも。

たとえば親類の、引きこもり息子のケース。
もう40代になるのではないか。
お酒が大好きな父親は、定年退職後再就職先もなく、趣味もなく、
家でぶらぶらしている。
子どもが小さい頃は暴力も振るった。
母はしっかりものの、学校の教師タイプ。

長男は反発して家を出て、それなりに自活している。
次男は無事就職するも、ハードな職場環境でうつ病となり退職、
そのまま引きこもっている。
絵に描いたようなパターンだけれど、本当の話だ。

彼の場合、両親が元気なうちはいい。
年金所得がしっかりとあるし、蓄えもありそうだ。
でも、もし一人になったら?

信田さんは回答の中で、この先はぜひ専門機関を訪ねて相談してほしいと、
繰り返し述べている。
しかしこの家族の場合に限っても、ここに至るまで、
きっと色々試みているだろうと思う。
本人も両親も高学歴で、知識はあるはずなのだ。
でも、出口はみつかっていない。
このようなケースが、いったいどれだけあるんだろう。

安倍政権では生活保護が切り下げられる。
そのなかに、間違いなく彼らが入ってくる。
なのに、この社会の犠牲者でもあるような彼らを、
この社会は支えていこうとしていない。
私や私の家族が、明日は犠牲者になるかもしれない、という視点がない。

3.11後に増えた相談があるという。
ひとつは、このような大きな災害を前にすると、
過去に受けた心の傷(たとえば父親による性的虐待など)が甦ってしまう、というもの。
もうひとつは、被災者に対する同情を強要され、
それに添わない言動がバッシングを受けるというもの。
この点、私も違和感を覚えていた。
「絆」一色になってしまったのが、とても気持ち悪かった。

大きな事故や災害が発生すると、平時に比べて人々は反応の多様性に対する強度を低めるように思います。あの被災地の人たちのことを思えば……という一点を共有するがゆえに、言動の画一化が生まれるのです。一般的に言動の多様性に対する許容度は、災害の甚大さに反比例して低まるようです。

声高に批判する人たちが考えていることは、自分は被災地の人たちのことを思ってこれだけ我慢をしているのだ、それなのにあなたが少しも我慢していないのは不謹慎でわがままだというものです。
……良く検討すると、これほど楽な発言はありません。「自分は我慢している」という自己正当化が大前提となっているので、あとは好き放題に他者を批判できるのですから。
同じ論法はそれ以前から日本社会の隅々にまでいきわたっており、事あるごとに自分の意見を正面きって述べる人たちを叩くために用いられてきました。この論法を知悉することが空気を読むことであり、いじめられないために必要な世間知なのです。

震災直後から目についたのは、最後の砦としての家族の絆を強調するキャンペーンでした。それは家族の問題にかかわってきた私を躊躇させるほど厳しいものがありました。

しかし……(家族の絆の強調によって)感じたのは、震災前からの問題が解決したり帳消しになるわけではなく、むしろ濃縮され先鋭化して表面化してくるということでした。

最後の設問がまたいい。
これはまた、信田さんの著作を読んできた私が、
彼女を大きく評価する視点でもある。
質問は、「困っている人の役に立ちたいのです」。

20年近く登校拒否の息子や家出ばかりしている娘と格闘してきた。
多くの精神科医やカウンセラーの助けもあってか、
ようやく彼らも落ち着いてきた。
ついては自分の経験を活かして、同じような悩みを持つ人の力になりたい、
信田さんのセンターでお手伝いできることはないだろうか、というものだ。

信田さんはプロのカウンセラーになる道を教授し(相当に厳しい道のりである)、
そのうえで、「他人の役に立ちたい」という”欲望”について述べる。

苦悩の淵からやっとの思いで少し這い上がったころに、同じような苦しみを味わっている他者の姿が見えてきます。その時、自分の経験を同じ苦しみを味わっている他者の役に立てられないだろうか、と考えることはそれほど不思議ではありません。そうすることで自分の経験にも意味がもたらされるかもしれない、と思うのです。その前提には、「乗り越えた自分」と「苦しみの最中にある他者」との分断があります。……(アルコール依存症の自助グループを例に引き、そこでは)援助者であることで一種の権力性が生まれがちなのです。

他者の苦しみを「わかる」ことなど私たちにはできないのです。自分の苦しみですら引き受けるのが難しいのに、他者のそれをわかるなどとはおこがましくて言えないと思うのです。

カウンセラーはクライエントの苦しみを「わかってあげる」のが仕事ではありません。

重要なのは、自らの経験をどの程度まで振り返り総括できているか、つまり個別的経験をどこまで相対化できているかということです。なぜなら個人的な経験にとらわれてしまうことは、援助者=プロのカウンセラーとして仕事をするうえでむしろ邪魔になるからです。

そのうえで、最後にこう提案する。

不幸な人たちの援助をするより、少しは楽しんでみてはいかがでしょうか。

……(もしそれが出来ないのなら)楽しいことには少しも食指が動かず、自分より不幸な人の役に立つことに惹かれてしまう自分を見つめてみましょう。そして他人の苦しみを「わかってあげたい」という欲望がどこに由来しているのかを考えてみましょう。

つまり、人の役に立つということ、「絶対的な善行」が、
自分にとってどのような意味を持つかを考えろ、ということだ。
それが自己承認、つまりアイデンティティーになっていはしないだろうか、と。

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