『母が重くてたまらない』

— 墓守娘の嘆き
信田さよ子 春秋社/2008.4
(初出 『春秋』2006.10月号~2007年10月号に掲載、加筆訂正)

ざくざくと読む。

対象とされている年齢層は、団塊世代とその娘たち
(問題は世代を超えてあることも明らかだけれど)。
この母と娘は、「一卵性母娘(おやこ)」などとも呼ばれた。
母は娘に自分の夢を託し、娘はそれに答える。
元気な母が、渾身のエネルギーを(夫ではなく)娘に注ぐ結果、
娘は母にがんじがらめに呪縛され、窒息しそうになっている。

事例としてあげられている母は、娘の「欲求」を先取りし、
(母の期待にこたえて職業を得た)娘の生活に介入する。
娘にしたらたまったものではないのだけれど、
うざい、重い、ほっといてよ、と思いながらも、
よいこの娘は母に真意を伝えることができず、鬱屈だけを肥大させていく。

このような母の口癖は「あなたのためを思って」であるが、
私には、娘を「理想的な夫」の替りにしているだけのように見える。
自分が支えることによって初めて一人前になる、コントロール可能な、
しかも墓場まで面倒を見つづけてくれる人生の伴侶。
最終章では、娘を保護者に仕立て上げる。
息子を夫替りにするというのは既にあった。
でも「夫」は何も異性でなくともかまわない。
娘であればさらに、同姓として一体化するという喜びも加わる。

母はきっと、「ロマンチックラブイデオロギー」なんて見限っているのだろう。
自分が裏切られた、あるいは期待はずれだったものを、
もう娘に押し付けようとは思わない。
そのかわり、私とあなた、二人で幸せに暮らしましょうよ、ということなのだ。
恋愛も結婚もとっくの昔に、幻想ですらなくなっていたということか。

このような母は、自らの夫婦の間の溝や葛藤を、
うまくやり過ごしてきた人たちのような気がする。
欲求も欲求不満も、他の何かに上手ににすり替えて。
つまりクレバーで、要領がいいのだ。
おまけに時間もエネルギーもたっぷりある。
この人たちも、誰かの役に立ちたい、助けたい、救いたい、という人たちだ。
今まで見てきた共依存と違うのは、
それがダイレクトに自分の利益に繋がることだ。

この本が出たとき、タイトルを見ただけで、時宜を得たものだと思った。
私の周りだけでなく、小説やエッセーにも、
「重い母とその娘」の話がごろごろしていたので。
しかしこの本を読んでみたら、母の支配のスタイルは一段と進化し、
洗練されていたということがわかった。

雑誌への初出から数えればもう6年以上がたつ。
家族のありようは社会と共に変わっていくから、
今はまた少し様相が違ってきているのかもしれない。
それでも、かたちを変えながらも、
母と娘(息子も)の支配・被支配は、連綿と続いているのだと思う。

「愛」や「絆」や「思いやり」、そして「家族(夫婦・親子)」という呪縛は、
ソフィストケイトされ、善きものとして君臨しているだけに、
コーランや部族社会の「掟」よりある意味やっかいな、
根深い「掟」になっているような気もする。

この「掟」(=罠)から脱出するために…

ここで役に立つのがシステム家族論であり、近代家族の成立にまつわる概論である。彼女たちが(おそらく多くの日本人が)当たり前でふつうの家族と考えているものが、実は明治以降に、日本が近代国家として列強に伍していくための橋頭堡としてつくられてきたものであるということ、それを近代家族と呼ぶことなどを、できるだけわかりやすく話すのだ。家族とは万古普遍ではなく、世界共通でもなく、本能的なものでもないということを知ってもらうためにである。家族を相対化することで、少しは(たぶん)彼女たちも楽になるだろうという私の希望的観測とサービス精神からなのだが……実際どこまで理解されているかは定かではない。

システム家族論は、近代家族の仕組みを理解するために、夫婦のシステムが脆弱であることの問題点を指摘するためには、実にわかりやすい理論だ。要は、夫婦がちゃんと連携して、子供との関係よりまず夫婦の関係を優先してください、ということが骨子になっている。私自身は必ずしもシステム論の立場に立つわけではないが、墓守娘たちの苦しみを生み出す一つの根拠として、両親の夫婦関係の脆弱性があると考えている。

「世代の境界」ということばでその脆弱性は言い表せる。システム論的家族療法では、親と子の間に世代の境界(バウンダリー)が必要であり、それが「侵犯」されることで問題が生じ易くなるとされる。

さらに、名前をつける(共依存とか)ことの重要性と、
グループカウンセリングの有効性も説かれている。
それからアイ・メッセージ。
つまり、主語を私にして語ること。
そういえば『生贄の女ムフタール』でも、ナジームがムフタールに、
「で、あなたは? あなたはどう思うの?」とアイ・メッセージを促していた。

アイ・メッセージには三種類ある。
①プラスの感情を伝えること
⇒(楽しい、うれしい、しあわせだ、ほっとする、……など)
②マイナスの感情を伝えること
⇒(悲しい、つらい、不安だ、こわい、残念だ、……など)
③意思を伝えること⇒(私は~思う、考える)、
要求をを伝えること⇒(私は~して欲しい)

そして、最後に、母と娘の問題の陰に隠れていた、父の顕在化。

過剰に暴力的な負の存在か、それとも無自覚なままの不在か、両極端でしか存在しえない父親たち。これらが背景にあることを見つめなければ、母と娘の関係性は理解不能だろう。なぜなら母親だけを批判して、母の加害者性だけを単独に取り扱うことになってしまうからだ。不在の父によってもたらされる数々の苦痛や怒りとあきらめ、失望と恨みが、彼女たちの娘との関係性に影を落としていることを忘れたくはない。そして父の不在を正当化し、彼らの無責任さを容認しているドミナントな言説(常識の数々)も指摘しなければならないだろう。

中島義道の父のことを思う。
私は『愛という試練』の評で、中島さんの母の、
「愛」に対する期待の過剰性と暴力性を指摘するあまり、
彼の父のこの、「無自覚なままの不在」に甘かったかもしれない。

あらためて思うのは、日本は「近代家族」を、
「前近代家族」の上に接木のようにつけ足したんだなあ、ということ。
中島さんの両親の場合、妻は「近代家族」を求めたのに、
夫は「近代家族」など不要だったのだ。
いや、今現在の「両極端でしか存在しえない父親たち」も、同じなのかもしれない。
彼らにとって居心地がいいのは、たぶん「近代家族」ではない。
もうひとつ、「前近代」に「近代」を接木するとき、
落っことしてしまったものがある。
即ち「近代的個人」。
だから私たちは、アイ・メッセージから始めなければいけないのだ。

しかし、今や、日本のこの接木の「近代家族」は、
内側からだけでなく、外側からも崩壊圧力を受け続けている。
信田さんの母と父と娘への処方箋で、
個々の人びとは生きやすくなるかもしれない。
けれどもその積み重ねの上に、
「近代家族」がそう簡単に生き延びていくことが出来るとは、私には思えない。

 

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