『さよなら韓流』 — 「哀しい関係」ゆえの渇望・・・

北原みのり 河出書房新書 2013.2

Amazon でレビューを見ると、
嫌韓だと思って読んだのに違っていてがっかりした、
というような人がいて(当然この人たちの評価は低い)、
こういう人に読ませて(買わせて)しまったのだとしたら、
タイトルの勝利 ? のように思えて少し笑える。
が、韓流ブーム終焉の原因の一つに、
日韓関係の冷え込みと嫌韓があるのは確かだと思う。

「終焉」には異論もあるだろう。「これで定着したのだ」「いや、私はずっとファンだけど」という人たちはいるだろう。けれども、「冬ソナ」に始まった「ブーム」としては確実に終わっている、という実感がある(K-POPについてはまるで知らないので何とも言えない)。

ブームはいつか終わるものだけれど、じゃあ、ほんとにあれはただのブームだったのだろうか ? イングリッシュガーデンブームで、どこの家も玄関前(もしくはベランダ)のプランターに花を植えて癒されてたのと同じことなのだろうか ?  ホームセンターが苗売り場を新設したのが、いつのまにか別の商品の売り場に変わってたみたいな ?

それならそれでもいいんだけれど、そう言いきれない、割り切れないものが残るのも確かで、誰か、「あれはなんだったのか」をソーカツしてくれないかなあと、思っていた。でも目につくものが少ない。目につくのは「やーい、韓流は終わったぞー」、もしくは、「最初から無かったぞー」(–しかし「無かった」って、慰安婦も何も全部一つ覚えだねえ、君たち)とはやし立てる嫌韓の言葉ばかり。何故だろう。

という具合にいくつかの問いが、韓流のブームとその終焉をめぐっては浮かび上がる。その最初の問いが、あの熱の渦は何だったのか、というもので、北原みのりの『さよなら韓流』は、主にこの問いをめぐっての考察である。

北原さんは「韓流はエロ」と言い切る。「エロ」という言葉に拒否反応を覚える向きには「萌え」、あるいは「ファンタジー」と置き換えてもいい。でも、あえて「エロ」と呼ぶ北原さんの思いを、ソフィストケイトされた言葉で消してしまいたくはない。「エロ」だと自覚し、堂々と主張する、できる、そういう人たちの出現の持つ意味に、私も異存はない。ただし、何も変わらないものもあった。

上野 一人の男に生涯尽くされ続ける……『ベルばら』に燃えるのと変わんないじゃない。

北原 同じですよね。

・・・

北原 でも、そういう女が多いっていうことを、上野さんはどう思います ?

上野 哀しい社会だな、と思うよ。

北原 ですよね ! そうなんです。だからこれってフェミニズムですよね。

上野 だから、以前、信田さよ子さんが「妻がヨン様にはまることで、何とか日本の夫婦関係は崩壊せずに保たれてる」という論考を書いたときには*、そのシニシズムに、日本は悲しい社会だな、哀しい男女関係だなって、とても腑に落ちた。そこから先は少女漫画のロマンチックラブ・イデオロギーとどう違うのかわからない。
(*信田さよ子「ヨン様は日本の家族の救世主だ」『論座』2005年4月号)

・・・

上野 ベビーフェイスと成熟した肉体のミスマッチっていうのは、もともとアイドルの定番。アグネス・ラムがその典型ね。その定番の男性版が現れたってだけじゃないの。

北原 それって革命じゃないですか !? だって、女にとってのアイドルには、肉体がなかったんですよ。

・・・

上野 じゃあ、そういうすごいもの、本当に生き物としてスーパーな男を見て魅了された女の子たちは、その後どんな男女関係を作るんだろうか。日本の男女関係を変えるんだろうか。

北原 それが私の希望なんです。

・・・

上野 女が男を消費するための条件は、逆の場合と同じで、絶対に自分を脅かさないって安心できる条件があること。美しい肉体っていうけど、筋肉はウェポンだからね。その筋肉が敵に向かうんじゃなくて自分に向かって、羽交い絞めされたらばたばたして動けなくなるじゃない。レイプにもDVにも使えますよ。

北原 もちろんそうです。でも、筋肉を武器だと思っていることこそが日本の女の、上野さんの不幸なところなんじゃないですか。私は韓流を知って、筋肉には違う使い方もあるんだと思うようになったんですよ。

上野 それは、幻想。

北原 わかってますよ(笑)!

上野 だって韓国ってマッチョな社会よ。韓国のジェンダー研究者は「軍事主義的な男性性」を論じてる。兵役上がりの男には暴力的な傾向があって、DVも多いって聞いてるわよ。

二人は以下の点でほぼ合意に至っている。

  1. 韓流ブームの背景には日本の「哀しい男女関係」がある
  2. 韓流ブームは幻想(ロマンチックラブ・イデオロギーと肉体=エロ)を商品として消費するものであった

消費活動であれば、喚起された欲望の末路は常に「飽きる」だ。その側面は確かにある。だが、関係性の問題は、思う存分消費した後でも消えずに残る。「商品化された関係」で得た、「満たされた」という感情もまた。とすれば、単なるブームとして流してしまうのではなく、幻想の中にあったリアルと、幻想を求めさせたリアルな関係性の両方を見つめる必要があるのではないか。イングリッシュガーデンの代替品のように、韓流の代替品はそう簡単には現れないような気もするし。

その前に、もう少し「韓流という消費」の構造を考えてみよう。上野さんは、韓流にはまった女たちを「不愉快だ」と言う。「西洋のガタイとマスクの良い男(美のグローバルスタンダード)に憧れる」は、これまでにもあった。ただし、韓流には異なるものがある、と。

上野 (欧米や他のアジアの国の男とだったら英語が必要なのに対して、韓流男であれば)相手の言語を覚えようと努力する必要もなく、相手の母国語に何のコンプレックスも感じる必要がなく、思うさま消費して使い捨てができる。こんな便利な消費財があるだろうか。日本の女は、近すぎる隣国に土足で踏み込んで、強姦しちゃったのよ。その背後には、植民地時代からの優劣関係の記憶がきっとある。

北原 それが不愉快な感じの正体 ?

上野 うん、不愉快。それをあからさまに臆面もなく示す女たちが不愉快なの。

上野さんは対談で「この社会に生きる限り、朝鮮半島に対する差別視線が内包されないはずがない」とも言っていたという。このことに無自覚な消費行為を「不愉快」と感じるのは、わかる。そしてここに、韓流が終焉に向かった理由のひとつがあるようにも思う。

上野 毛利嘉孝(社会学者)さんが書いていたことだけど、そうやって語学を勉強すると・・・韓国メディアの中にある、嫌日、半日的な(聞きたくない)情報が否応なく入ってきて、自分たちの醜い自画像を・・・見せられると。そうやって入ってくる韓国の情報によって、彼らが日韓関係にこの先、何か新しい可能性を作っていくことに希望が持てるというのが、毛利さんの意見。そこまではいいけど、次にぱっと思うわけ。その人たちの中に、「慰安婦」問題に関心のある人ってどのぐらいいるだろう、って。

北原 いないんじゃないですか。

上野 だよね。聞きたくもない、見たくもない、関心持ちたくもないんじゃない ? ・・・韓流ファンの人たちの語学熱がそこにはつながらないとしたら、本当に希望があるんだろうか。それに竹島問題のあと、韓流ファンの女性が、「韓国大統領の言動を見て、韓流熱がさめました」なんて言ってるインタビューを見ましたよ。

竹島問題が出てきたとき、私の周りの韓流ファンたちに、困惑のようなものが広がったのを覚えている。人気韓国俳優は、独島は韓国の領土だと発言した。彼女たちの正直なところは、このような政治問題はなるべく穏便にやりすごし、日韓はとにかく仲良くやっていって欲しい、というものだったように思う。

北原さんがある変化を実感したのは、2011年のフジテレビへの嫌韓デモだった。これを境に、おおらかに「韓流はエロ」と言い放っていた彼女は、嫌韓派から様々な嫌がらせや誹謗中傷を受けるようになる。会社のサーバー攻撃など実害もあった。いつの間にか、韓流の反動として出てきたような嫌韓が、増殖していた。

嫌韓に対しての周囲のファンたちの反応に、自分は攻撃のターゲットにはなりたくない、というのがあった。少なくとも「韓流で(エロで)何が悪い。日本の男があんたたちみたいなのばっかりだから愛想つかしたんだよ」という北原さんなら言っていただろう啖呵は、周囲では聞かれなかった。好んで攻撃されたい人はいないから当然と言えば言えるが、この防衛反応にはそれだけではないものもある。

北原さんは嫌韓は自分と同世代(40代)の男性に多いと知る。「女の渇望が韓流を求めたように、男の渇望が愛国を求めているのだろうか」と問う。もしそうだとすれば、韓流の終焉は、女の渇望が男の渇望に負けたということなのだろうか ?  

北原さんと上野さんが対談で完全に一致しなかった点が二つある。

  1. 韓流は日本の男女関係を変える(変えた)のか
    — 懐疑的(上野)、希望あり(北原)
  2. 韓流ファンは日韓関係に新しい可能性を作っていけるのか
    — 懐疑的(上野)、変わるのはこれからだとしつつも慰安婦問題については懐疑的(北原)

北原さんが韓流を擁護し、可能性を見出したい気持ちは良くわかる。私は熱の渦のほんの端っこに、しかも一時的にぶら下がっていただけだけれども、そこには「良きもの」「真なるもの」があったことを知っているからだ。だから、あの渦の中にいた人は皆そうだろうと思っていたのだが、どうやらこれは違うようだ。

韓流ファンであった人が、自分が韓流にまっていたことを「恥だ」と言ったと、友人から聞いた。面識もない、どの程度のはまり方だったのかも知らない人だけれど、これは考えさせられるひと言であった。「恥だ」とまで思う心の変化とは何だろう。そこには、無自覚だった「差別視線」の浮上、あるいは韓流から嫌韓に反転したような感情の推移があるのだろうか。

思うのは、私たちは政治的な思考をそこで停止したのだ、ということだ。思考停止とは周囲の空気に影響されやすい状態でもある。残念ながら、ブームを成した層に対しては、上野さんの懐疑のほうが当を得ていると言わざるを得ない。

以前、『ネットと愛国』についての感想で、友人が被ったネトウヨ攻撃について触れた。典型的な嫌韓誹謗中傷の書き込みをしていたのは中学生の親の世代で、確かに北原さんの同性代である。だが書き込んでいるのは、男性だけではなかった。韓流と嫌韓は、だから北原さんが言うように、女と男とに分かれているわけではない。「慰安婦はウソ」と叫んでいるのにもかなりの女性がいる。

ということは、「女の渇望が韓流を求めたように、男の渇望が愛国を求めた」わけではなく、男女を問わず別の渇望が肥大して来ていた(いる)ということだろう。韓流に(性)愛を求めた女たちの渇望は、嫌韓に憎悪をぶつける人たちの渇望とまともに対峙することが出来なかった。むしろ彼らの憎悪の対象であり、そのような対象であることを「降りる」人たちの増加が、韓流の凋落につながったのだと考えることが出来る。

『ネットと愛国』を読むと、日本においては「哀しい関係」は男女の間にあるだけではない、ということがわかる。つまり韓流も嫌韓も、いずれもが「哀しい関係」ゆえの渇望から生まれてきたものなのだ。韓流がリアルな「哀しい関係」を変えることが出来ず、社会的な視点も持ち得なかったことと、嫌韓の増長は決して無関係ではない。

私自身、嫌韓ヘイトについて、慰安婦問題について、ここでつぶやくだけで韓流ファンに対話を呼びかける気になれないで来た。このサイトへの回路は開かれている(その気になれば、こちらの投稿記事タイトルが彼女たちの目にも触れるようにはしてある)、そのことをもって良しとして、積極的に対話の場を設けることをしなかった。エネルギーも時間も思い入れも不足していた。が、どこかで、韓流が消費行為(「満たされたい」)を超えていけない限界を感じ取っていたことも確かだ。もちろん、そうでない人たちがいることは知っている。だが、「満たされたい」多数に向けて根気よく言葉を投げていく気力は、湧いてこなかった。

解っているのは、誰かが(もっと早い時期に)これをやらなければいけなかったのに、誰もやらなかった、ということだ。北原さんの『さよなら韓流』も、ここには至っていない。もっともだからといって、嫌韓の憎悪の矢面に立たされた北原さんの(孤軍)奮闘の勇気を損なうものではないし、彼女が擁護する韓流の「良きもの」や「真なるもの」を否定するものでもない。だがこのままで行けば、その「良きもの」や「真なるもの」も、やがて失われてしまうかもしれない。それだけ日本の「哀しさ」は深まっているのだとも思う。

参考

レイシズム/Provai.ciao
慰安婦問題/Provai.ciao

韓流の街 残る痛み ヘイトスピーチやんでも…(東京新聞 9/18)

【韓国から見た、韓流ブームの終焉とヘイトスピーチ(1)】 韓流ブームは終わった?(伊東順子) (Web Ronza 2014/06/18)
【韓国から見た、韓流ブームの終焉とヘイトスピーチ(2)】 日本がいなくても中国がいるからいい?(伊東順子) (Web Ronza 2014/07/05)
【韓国から見た、韓流ブームの終焉とヘイトスピーチ(3)】 松山ではヘイトスピーチがありますか?(伊東順子) (Web Ronza 2014/07/11)
(Web Ronza は、無料の会員登録で全文が読めます)

付記

*この本では、上野さんとの対談以外の部分で、韓流の「良きもの」「真なるもの」が多く語られている。だが私が興味があったのは終焉に至る(自己)省察なので、それらには触れなかった。

*「韓流は消費」に違和感を感じるファンは多いかもしれない。だが私は「消費」を否定的に捉えてはいない。商行為や仕事が成り立つにはそれに対する必要性、即ち価値があるからである。

*韓流ファンのなかには、これは消費などではなく本物の「恋」だ(だった)、という人もいるだろう。恋愛には常に「幻想」が伴うから、そこにヴァーチャル上の「幻想」が付加されても「幻想」であることに変わりはなく、確かに「恋」であったのだろうと思う。そのこと自体は今さら「哀しい」と言うほどのことではない。何故なら私たちは常に、リアルな関係においても、「幻想」を重ね合わせて生きているからだ。というよりも、生きるためには「幻想」が必要なのだ、と言う方が正しい。「幻想」に酔うことのできる人は、酔えない人よりはるかに幸福である。ただし「幻想」は、社会が恣意的に作り出したものであることが多い。「幻想」にからめとられて生きにくい場合は、それを疑うことが、そのための疑う力が必要ともなる。

*愛・性・生殖の三位一体という西欧近代のロマンチックラブ・イデオロギーは、このような「幻想」として非常に頑強なもので、日本の結婚感と相まって強迫観念とすら言えるものとなっている。強迫観念化し、特に女の生を縛るものと化している点をフェミニズムは批判するが、韓流に対する圧倒的支持には、この「幻想」の実際的な破たん(恋愛のゴールであった結婚–一夫一婦制–と子育てだけでは--性愛的に–満たされない現実)と、にもかかわらずそれへの希求欲求の強固さ(寿命が延びて子育て後の時間を持て余している ? )の両方があったと言うことはできると思う。

では韓流の終焉に、ロマンチックラブ・イデオロギーの衰微を重ねることが出来るのかどうか。日本で初婚年齢が上がり続け、非婚率と離婚率が増え続けているのも事実である(アンチロマンチックラブ・イデオロギーではなく、社会の変節によるものではあるが)。「幻想」と実態の乖離がますます大きくなったとき、もはやノスタルジックな「幻想」が、渇望をカバーしきれなくなったのだという視点は、あり得る。

*「夫婦関係の哀しさ」には、ロマンチックラブ・イデオロギーのゴールである結婚が、女性にとっての経済的セーフティーネットであったという点を押さえておくべきだろう。セーフティーネットである限り、この枠組みから逃れられない。だが、韓流から嫌韓に至る「哀しい社会」には、結婚がセーフティーネットの役割を果たせなくなった(格差社会へと変容した)という視点もある。

*「哀しさ」については、深まっている実感と共に、それに抗する人たちの厚い層があることも知っている。その人たちの存在や発言が希望である。北原さんも上野さんも、また対談者の一人でもある信田さよ子さんも、そのような人たちの一人である(親しい友人たちと、彼ら彼女らが個別に築いている関係性においても)。

*この件、vaivieにもちょっと書いた。
Mensile 141001 「哀しい社会」「哀しい関係」

 

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