『混迷するシリア』

◆混迷するシリア–歴史と政治構造から読み解く
青山弘之 岩波書店 2012.12

少し前に、岩上安身によるインタビューで青山氏とこの本を知った。
インタビューで、シリアの混迷のアウトラインのようなものが少しわかった。

この本は、「シリア情勢を単純化された「民主化」論に押し込めることに対する違和感」から出発している。
おそらくこの「違和感」は、「アラブの春」を経たすべての国に通じるものだろう。

著者は、「勧善懲悪と予定調和に基づく「アラブの春」において、政権崩壊がクライマックスと位置付けられたがゆえに見過ごされてきた事実」を描き出す。

アラブ世界での政治変動は政権崩壊をもって完結し、その後には「民主的」社会が自動的に立ち現れる訳ではない。

まったく知らなかったのだが、アサド政権は当初、
反体制デモの要求にかなりの部分で応える改革を行っていた。
おそらくシリアがアジアのはずれにある島国でもあったのなら、
事態はここまでひどい状態にはならなかっただろう。

政権崩壊は、その国固有の「政治過程の延長線上にある通過点にすぎない」。
が、そこに、シリアが抱える歴史的、地勢的な問題が複雑に絡む。
植民地支配と第二次世界大戦後の独立から引きずる諸問題、
モザイク模様を描く民族や宗教・宗派、
西に中東の楔であるイスラエル、東にイラン。
ゆえにシリアには、周辺国だけでなく、
欧米諸国も、なんらかの形で介入してくることになる。
このことの最大の被害者は、シリア国民であった。

以下、付箋部分メモ。

欧米諸国は、イラクのサッダーム・フセイン政権やリビアのムアンマル・カッザーフィ政権を瓦解させたように、B・アサド政権を崩壊させるに十分な物理的な力を持っている。しかし、この力を無制限に行使しないのは、東アラブ地域の安全保障の不安定化を抑止するという枠割を肩代わりしてきた政権の崩壊によって、欧米諸国自らがこの困難な役割を果たさなければならなくなるからである。しかもこうした責任を負うことで得られる代償は、イラクやリビアと比してきわめて限定的である。

B・アサド大統領は2011年10月20日、ロシア国営放送大一チャンネルのインタビューに出演し、次のように答えた。

シリアは地理的、地政学的、歴史的な側面で特別な地位を占めており、文化、宗教、宗派、エスニシティなど、中東のほとんどすべての構成要素の結節点である。それはあたかも活断層であり、この活断層の安定を揺るがそうといういかなる試みも、大地震をもたらし、地域全体がその被害を受けることになるだろう。

改革運動として始まった抗議デモは、B・アサド政権の弾圧に反発する形で徐々に過激化し、2011年4月半ばになると、「国民は体制打倒を望む」、「出ていけ、バッシャール」といったスローガンの下、B・アサド政権の退陣をあからさまに主唱するようになった。これに伴い運動の規模も拡大し、ダマスカス県とアレッポ県を除くほとんどすべての都市や農村で金曜日の礼拝後に散発的なデモが発生し、多くの市民が参加するようになった。

「調整」の動員を通じて「シリア革命2011」と称された抗議デモは最盛期を迎えた。だがその活動をめぐっては、「革命」の信頼を損ねるような不審な点がいくつか見られた。
第一の点は、主要な活動拠点が当初からシリア国内ではなく、レバノン、トルコ、エジプト、米国など国外に置かれていたという事実である。…シリアの「調整」の主導的メンバーはその多くがムハーバラートの逮捕を逃れて国外に避難していた。

第二の点は、シリアでの混乱を報道する(アル)ジャズィーラや(アル)アラビーアといった衛星テレビ放送の報道姿勢である。両局は、デモ参加者や活動家が撮ったとされる映像を配信し、デモの規模や弾圧の状況を実況的に報じることを特徴としていた。だが2012年3月中旬に現地で取材をした東京新聞の田原牧によると、「複数の市民は、中部のホムスや南部のダラアなどデモの発生場所が異なるのに、同じ映像がしばしば使いまわされている、と首をかしげた」という。このような事実確認を欠いた「垂れ流し」報道が意図的に行われていたかどうかは検証を要するが、「アラブの春」を報道する衛星テレビ放送局のスタッフには、「政権を交代させるという明確な意図をもって報道した」、「放送の中立を守ることも大事であるが、それよりも人々が望むことを放送することがジャーナリストの責務である」という、ジャーナリズムを逸脱した姿勢を持つ者がいたことは知られているところである。

「調整」による組織的なデモに対して、B・アサド政権は主に三つの施策を通じて、その沈静化を試みた。
第一の施策は言うまでもなく弾圧である。

第二の施策が、「包括的改革プログラム」と言われる「上からの改革」である。
(以下は概要)
・クルド人にシリア国籍を認めた。
・それまで未整備だった政党認可の法的手続きを法制化した。
・地方自治体の権力や権限を拡大した。
・報道の自由、言論の自由を保護するために活動する無所属の機関、国民情報会議の設置を定めた。出版や情報発信をめぐる刑罰に禁固刑ではなく、罰金刑を科すことを定める一方、国民統合、国家安全保障、啓示宗教の教義に抵触する出版物、宗派主義的分断、犯罪、暴力行為、テロを唱導する出版物、軍・武装部隊に関する無許可の情報掲載や報道を行う出版物を発禁処分とするとの文言が盛り込まれた。
・統一地方選挙(2011年12月)–県議会、市町村議会の1万7588議席を争うため、4万2889人が立候補した。
・新憲法草案を、2012年2月26日に国民投票により承認、施行した。1973年憲法との相違点は以下の通り。
①バアス党を「社会と国家を指導する党」とした規定を削除し「国家の政治体制は政治的多元主義を原則とする」との文言を明記。
②「イスラーム教は大統領の宗教である」、「イスラーム法は律法の主要な法源である」という文言に加えて、「国家は全ての宗教を尊重する」との文言を明記。
③集会、平和的デモ、ストライキ権の保証。
④大統領(任期7年)の再任を一度に限定。
⑤大統領就任資格年齢を34歳(B・アサド大統領の就任時の年齢)から40歳に引き上げ。
⑥バアス等が指名する大統領候補の信任投票に代えて人民議員35人以上が推薦する大統領候補の国民投票による大統領選出。

これら一連の改革措置は、政治構造に何らかの変化を及ぼしていないがゆえに、制度的民主主義への移行を担保するわけではない。しかし、実施された改革政策はそのいずれもが反体制勢力によって要求されてきたものであり、これによりB・アサド政権は、少なくともデモの原因となった不満を取り除いたと主張できるようになった。

第5章 革命の変容

「血のラマダーン」と称された2011年8月の大弾圧により、体制打倒運動を主導してきた「調整」は大きな打撃を受け、同年3月半ばに始まった「シリア革命2011」は事実上の失敗に終わった。……
しかし反体制運動は、市民や「調整」以外の政治主体によって「ハイジャック」され、シリア化、軍事化、そして国際問題化とでも呼び得るような変容を遂げつつ延々と続いた。シリア化とは、「独裁政権」に対する「民衆革命」と解釈されてきた「アラブの春」が、B・アサド政権と反体制勢力の権力闘争の中で政争の具と化したことを意味する。軍事化とは、平和的な抗議デモを担ってきた市民や「調整」に代わって、離反兵や武装集団が示威運動を主導することを意味する。そして国際問題化とは、国内問題であった反体制運動が、シリアの地政学的な重要性ゆえに周辺諸国や国際社会の干渉を招き、混乱を助長することを意味する。

自由シリア軍とは、アスアド大佐によると75,000人もの離反兵や武装活動家から構成されていると言われる。
第一のグループは、武装闘争を統括していると考えられてきた上級士官である。……彼らのほとんどはトルコで避難生活を送ってきた。……
第二のグループは、国内で活動する離反兵や武装集団である。

彼らは……正規軍のような上意下達の組織形態を持っておらず、緩やかなネットワークの下で個別に活動した。また、彼らは周辺諸国で避難生活を送る士官の指揮を嫌っており、2012年5月には、国内合同指導部が在外組織に対して自由シリア軍を名乗ることを禁じるとの声明を出した。
武装集団のこうした寄り合い所帯としてのありようは、離反者の多くが、個人レベル、ないしは小隊レベルだったことに起因する。任務放棄、脱走とさえ批判されるこうした離反は、部隊単位での組織的な離反によって体制転覆が加速したエジプト、リビア、イエメンとは対照的である。

武装集団の活動は反体制運動を二つの点で根本的に変容させた。第一に、平和的な抗議デモを特徴とする体制打倒運動を軍事化させ、「アラブの春」波及以降のシリアでの暴力のありようを、B・アサド政権による一方的な弾圧や殺戮から、政権と反体制勢力の双方向的な暴力の応酬に変化させた点である。

第二に、……トルコ、カタール、サウジアラビア、米国、フランスなどからの資金・武器援助を通じて、劣勢を打開しようとしたことで、反体制運動を外国に「扇動されたテロ」へと貶めてしまった点である。

武装集団が安易に外国に依存したことで、(アサド政権の、平和的なデモに「外国の支援を受けた武装テロ集団」が紛れ込み、破壊工作を通じて社会を不安定化させようとしている、との)プロパガンダは現実のものとなり、弾圧に根拠を与えてしまったのである。

総じて、欧米諸国にとって最も好都合なのは、B・アサド政権が崩壊し、シリア内政の混乱が決定的となることで東アラブ地域全体のパワーバランスを抜本的に再編する必要が生じるのを回避する一方で、覇権主義に根差した同政権の対外政策を封じ込めるという戦術の採用である。これを可能にする唯一の条件が、「アラブの春」波及後のシリアの混迷を持続させることなのである。欧米諸国が当初から一貫して軍事介入という選択肢を排除しているのは、それがシリアの混迷を持続させるうえで、きわめて有効だとみなしていたからなのかもしれない。

終章 弾圧と「革命」に疎外される市民

「アラブの春」を受ける形で高揚したシリア反体制運動は、「シリア革命」の名の下、「独裁政権」の妥当と「民主性」の確立を目指した。だがB・アサド政権の残虐な弾圧によって多くの市民の命が奪われる中、反体制運動はシリア化、軍事化、国際問題化といった変容を経験し、当初とは全く異なった様相を帯びるに至った。「革命」にはもはや「民主化」と認識しうるような抗国家社会運動の面影はなく、欧米諸国が言うところの「内線」、ないしはB・アサド政権が言うところの「真の戦争」状態としか言いようのない悲惨な現実が存在するのみである。しかも、「体制崩壊は時間の問題」と一年以上にわたって繰り返してきた反体制勢力や欧米諸国の言葉とは裏腹に、事態が打開に向かっているようには到底思えない。

外国人戦闘員の流入と破壊活動の激化

混乱が膠着状態に入る中、シリアでは新たな二つの問題が表面化し、事態をさらに複雑なものとしている。
第一の問題は、サラフィー主義の外国人戦闘員の流入と破壊活動の激化である。……彼らは2011年3月以前からシリア国内に一定数存在し、隣国との往来を繰り返してきた。その彼らは同年12月頃から、シリア人活動家と共に「シャームの民のヌスラ戦線」などと名乗り、ダマスカス県やアレッポ市内で、軍やムハーバラート(名目的権力装置と真の権力装置の二重構造にあるシリアの政治機構のうち、後者に属する。諜報機関、治安維持組織、武装治安組織の総称で、体制内外の反体制分子の監視、尋問、拘束、逮捕、投獄、拷問、武力弾圧などを任務とする。国民の約380人に一人が常勤職員という)の施設を標的とした自爆攻撃を行うようになったのである。
これらの破壊活動は当初、国民の不安を煽ろうとする政権の自作自演だと反体制勢力によって非難された。しかし2012年12月半ばにアル=カーイダの指導者アイマン・ザワーヒリがビデオ声明でシリアの反体制武装闘争への支持を表明し、シリア国民に「ジハード」への支援を呼びかけ、また、同月下旬には米国国家情報長官がイラクのアル=カーイダの関与の可能性を指摘して以降、自作自演とは思われない事件が目立つようになった。2012年7月、自由シリア軍が「ダマスカス解放作戦」と「灰色のアレッポ作戦」を開始し、次々と爆破・要人暗殺計画を実行する傍らで、サラフィー主義の外国人戦闘員の活動が活発化し、その存在を顕在化させた。

「アラブの春」波及以前のシリアは、長らく[恐怖の文化]にさいなまれていると言われてきた。ここにおいて、市民は既存の体制に背くことで受けるであろう抑圧への恐怖と、既存の体制を支持することで得られてきた日常を失うことへの恐怖という二つの恐怖に打ち勝つことが期待されていた。しかし、混乱の中で、彼らは日常を失うという犠牲を強いられ、命の危険に直面しているにもかかわらず、体制に背くことへの恐怖からも解放されずにいる。しかも、この恐怖に加えて、体制転換後の不確実な将来へのあらたな恐怖にも襲われている。

こうした惨状において、体制批判は「革命」支持とは同義ではない。彼らは政権による「革命」弾圧の被害者であるとともに、「革命」を振りかざす武装集団の武装闘争や欧米諸国の介入によって再生産され続ける暴力の被害者でもあるからだ。

偏見だとの批判を恐れずあえて言うのなら、「独裁政権」打倒と「民主化」を追求すれば事態は改善するといった短絡的発想が、現状を打開するために何らの意味もなさなくなってしまった今、あらゆる政治性を排除して日常生活を一義的に回復するための転換を彼らは欲しているのである。……これが実現しなければ混乱が解消することはなく、シリア社会は存続の危機に曝され続けるだろう。

 

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