「イスラム国(IS)」と日本についてもう少し

モロッコから帰ってまた風邪を引いている。
だが、どうにももやもやとしているのは、風邪のせいばかりではない。
モロッコ滞在の日々がほぼ丸ごとISによる人質事件と重なってしまった。
ピースフルな景色や人々や音楽と人質事件が、一つのタジン鍋の上に載っている。

目の前の鍋に盛り付けられた日々には、モロッコの平穏で豊かな時間に、
事件を追いつづけた時間が分かちがたく一体化している。
旅を語りたくてもなかなかそれだけを切り離せない。

友人たちは人質事件を受けて、モロッコからの無事な帰宅を心配してくれていた。パリ経由でもあるし、彼女たちの心配はわかる。ありがたいことでもある。フェズで聞いた話では、シャルリー・エブド襲撃事件を受けて、観光客、特にフランス人が減っているというから、いずれの国でも、「イスラム(の国)=なんだか怖い」は、今や共通の認識となってしまっているのだろう。

ただし、これは少し偏った見方でもある。「イスラムの国=テロリスクの高い国」ではないし、また、人質事件によりモロッコの危険度が一気に高まったとも思わない。ISは動画で、「今後もあなたの国民はどこにいても殺されることになる、日本の悪夢が始まる」と脅した。これは、日本人が持っていた「日本は中東イスラム世界では戦争をしない」という安全保障を(少なくともISに対しては)失った(2003年のイラク戦争に自衛隊を派遣したことで既に失われていたという見方もある)ことを意味するものの、ISが日本人をターゲットにあらゆるところに出向いていく、ということではない。ISにそんなヒマはないし、領土拡大(今は保持か?)と当面は国家たらんとすることが最大の目的であるISは、「まず遠くの敵を倒す」というアルカイダとはそもそも志向性が違うからだ。

これとは別に、ISに同調する「フランチャイズ」(池内恵氏)分子がいるところであれば、イスラム圏にかぎらず、世界中どこでも日本人が「テロ」の対象になるリスクが高まったということはあるだろう。対「イスラム国」有志連合のうち空爆に参加している国で、かつ自国からISに参加している国民の多い国、国内に格差問題や差別が大きく、特に国と国民の間に、ISのプロパガンダに呼応しやすい要素や状況等で問題のある国(イスラムであるよりこれらの要素の方が大きいのではないか)において、「テロ」の起きるリスクは確かにある。

ただしISは有志連合による空爆開始の後、既にこれらの国の国民を「テロ」対象として名指しており、そのような「テロ」の場合、日本人だけが例外的にリスクから排除されることはあり得ない。また。アルジェリアの人質事件を見るに総合的テロリスクは中東・北アフリカの政情不安と共にその前から高まってあり、実際に起こってもいた。ISの脅しは無視するわけにはいかないが、これまで以上に委縮する必要があるのか、とも思う。つまり、危険回避の情報収集や警戒や注意は、世界のどこにいてもこれまでと同様に必要である、というだけのことではないのか。

ちなみに、対「イスラム国」有志連合参加は約60か国。うち空爆参加国は米、英、仏、デンマーク、オランダ、ベルギー、オーストラリアと、湾岸のサウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタール、ヨルダン、バーレーン。有志連合にはNATOやUE、アラブ連盟も参加しており、大半は欧米国である。イスラム圏の国は上記以外に、クウェート、オマーン、トルコ、レバノン、エジプト、モロッコ、ソマリアである。

整理しておきたい。
まず、「イスラム=なんだか怖い」の怖さがある。

シャルリー・エブド襲撃とスーパー立てこもり事件の犯人は、イエメンのアルカイダや「イスラム国」との連携を口にし、諷刺画のイスラムに対する侮辱を直接の動機にはしているが、その攻撃は生まれ育ったフランスに向けられたもので、行為に至った経緯や背景を見るに、ある意味国内問題だ。犯人はアルジェリア系とマリ系であるが、彼らの親や祖父母の出自である国が事件に関係あるとは思えない。ましてモロッコにはなんの関係もない。

「アラブの春」の後、まだ安定を見ていないアルジェリアなどとは異なり、モロッコは北アフリカでは唯一政治的混乱に陥らず、安定を保っている国である。さらに言えば、中東イスラム圏の中ではトルコと並んで、まともな国家運営を行っている数少ない国のひとつである。であるにもかかわらず、地理的にも歴史的にもモロッコと密接な関係にあるフランスの人たちが、全てをひとからげにしてイスラムの国を「怖い」と言うのは、遠い日本が「怖い」と言うのとはレベルの違う怖さがある。

これとは別に、日本の怖さがある。日本人である私には、こちらの方が怖い。

昨日今日と、人質事件に関するあらたな事実が報じられた。後藤さんの解放交渉が、リシャウィ死刑囚との交換である程度まで進んでいたという。交渉にカサースベ中尉の解放がからめられ、更に中尉の生死の確認を言い出したことによって頓挫した(TBSの報道特集 2/7)、あるいはIS内部で方針の衝突があって中断した(毎日新聞 2/8)。

TBSの番組では、ヨルダン取材により現地の専門家の意見を紹介している。それによると、28日を境に交渉の様相が一転したのは、アメリカがヨルダン政府に圧力をかけてきたからだろう、というものだった。

安倍首相は人質事件が明るみに出てから、「あらゆる手段を講じて人質解放を模索する」と言い、同時に、「テロには屈しない」「テロリストとは交渉しない」と言い続けた。この二つの言い分が矛盾していることには、あまり注意が払われない。後者は「イスラム国」に向けた表向きの言葉だから矛盾していても問題ではない、また人質解放は政府の異なる二つの立場のどこかに落としどころを探るものだから、交渉中の矛盾は仕方がない、という暗黙の了解がある。

だが、「あらゆる手段を講じて人質解放を模索する」は、交渉中の「交渉しない」と矛盾するだけでなく、最悪の結果を迎えてしまったそのあとの菅官房長官の言葉においても、矛盾していた。官房長官は、「身代金の用意は一切しなかった」と、この間の政府対応を問われて返答した。

安倍さんの「テロには屈しない」「テロリストとは交渉しない」という言葉は、「イスラム国」に向けて発せられたのではなく、アメリカに対してのものだったという指摘がある。また、今回の中東訪問で、二億ドルの支援に「ISILと戦う国を支援するために」という言葉を冠したのも、アメリカに対するアピールだとする見方もある。いずれもそうだろうと思う。

問題は、この二つの矛盾する言葉のいずれが真意かというようなことではなく、アメリカに逆らえない日本が、それでも自国の国民の命を救う責務を、矛盾する二つの異なる姿勢の間のどのポジションに置くか、ということであろう。

人質事件において、アメリカは決して身代金を払わず、家族にも払わせない(法律で禁じている*1)。だがアメリカは、武力突入の特殊部隊を持ち(ただし15例の事件のうち成功は一例のみ)、解放交渉で交換に応じられる捕虜(囚人)を抱えている。この国と同じ方針を、日本が取れるわけもない。

日本がアメリカに追随せざるを得ないのは戦後ずっと同じである。だが過去の事件で日本は、かなりの人質を救っている。粘り強い交渉と身代金の支払いがあったからだ。それらの事件と今回で何が違うのか。安倍政権はこの機に、自衛隊派遣の恒久法化と憲法改正を言い出した。これらは、人質事件に対して国のしたこととしなかったことの検証と、何故これまでと違って救えなかったのかの検証から国民の目をそらし、更に利用しようとしているようにも見える。それとも、最初からこの事件を(結末の如何を問わず)テコに、一気にことを進めようと目論んでいたのか。いずれにしても、肌の泡だつ怖さがある。

そして今の日本には、更にもう一つ、情けないような怒りを伴う怖さもある。

読売新聞社の全国世論調査で、政府が渡航しないように注意を呼びかけている海外の危険な地域に行って、テロや事件に巻き込まれた場合、「最終的な責任は本人にある」とする意見についてどう思うかを聞いたところ、「その通りだ」が83%に上り、「そうは思わない」の11%を大きく上回った。(読売新聞 2/7)

ここには質問の仕方の狡猾さもあるけれど、それを差し引いても、今回の人質事件に関しての日本国民の声が、救出に対して弱く、かつ国が救えなかったことに対する検証に甘い、ということがある。それだけではなく、被害者に対して異様に厳しい。モロッコ旅行程度ではありえないことだとは思うが、万一私のような旅行者が何らかの事件に巻き込まれても、多くの人は「そういうところに出かけて行ったお前が悪い」と私を責めるのだろうか。「自己責任」「自業自得」という人たちは、自分は決してどこにも出かけて行かず、だからずっと安全だと思っているのだろうか。私はこのことに、心の底から恐怖している。

昨日はまた、シリアに渡航しようとしていたジャーナリストの旅券が没収された。ああ、「日本人に指一本触れさせない」というのはこういうことだったのか、と合点がいった。国民を日本から出さなければ、誰も指一本触れられないわけである。

危険な地域に出かけて行き、報道してくれるジャーナリストがいなければ、私たちにとってその世界の危険は無いと同じである。世界は、出かけて行ってこの目で見ることが出来ないのであれば、存在しない。雑誌のグラビアや動画だけでいいって?  風も吹かず、匂いもないものをリアルな「世界」とは言わない(身近な誰かが観光旅行に行って帰ってきて話をするだけでも、「世界」への窓は開く)。国によって私たちが閉塞した狭いところに追い込まれるだけでなく、それが国民の意志でもあるという不気味な怖さ。

今回の人質事件で、安倍首相の言動は丸ごと「イスラム国」に利用された。このことで、実際に攻撃などしなくても口実さえ与えればいいのだ、ということが明らかになった。彼らの行為を極悪非道と言おうと何と言おうと、相手はそういう存在なのだ、という事実は認めるしかない。

安倍さんの発言が、誤った「不適切なメッセージ」だったのか、それとも、ISを甘く見た上での、ISにではなくアメリカに向けての確信犯的なメッセージだったのか、あるいは、こうありたいという願望による子供じみた背伸びの言葉だったのか、それはいずれでもいい。重要なのは、意図がどうであれ、たとえそれに続く結果が不運ないくつかの状況や要素の重なりの帰結であれ、この結果に対する責というのはおのずとある、ということである。検証こそが、未来の私たちの安全保障にとっての大事な一歩なのだ。検証の必要なしと(「自己責任」で政府を擁護)するのは、この安全保障をごみ箱に捨てろと言うに等しい。

もう一つ、今後の日本の安全保障にとって危険なのは、「イスラム国(IS)」=ただの「テロリスト集団」「イスラム過激派」という定義で済ませ、ISがこれほどの脅威になった背景や原因、その内実を問うことを放棄することである。このことについては既に書いてきた。付け加えたいことはあるけれど、それは別記事にしよう。ただ、「テロ」と言う言葉を安易に使うことの危険だけは、ここで言っておきたい。

「テロ」とひとからげにする人たちは、アルカイダもISも一緒くたである。アルカイダもサラフィー・ジハード集団で、目指すところはカリフ国の設立だった。だが、アルカイダに出来なかったことが、ISには出来てしまった。理想のウンマ(イスラム共同体)には程遠くとも、それでも彼らは領土と国民を持ち、制度によって「国家」を運営している。

何故これらのことが、これほど短期間のうちに成し遂げられたのだろう。それは、シリアの内戦やイラクの宗派戦争という直近の問題だけでなく、アメリカのイラク侵攻や植民地主義という遠因だけでもなく、ISという国家を目指す組織自体に、何か別の、何か新しいものがあるからではないのか。「イスラムテロ組織」とレッテルを張る行為は、このような問いを封殺する。

彼らの「脅威」を、もはや私たちは無視することができない。湯川さんと後藤さんは、日本がアメリカの戦争に追随すること(の表明)によって命を奪われた。今私たちにあるのは、この事実と、もう取り消せない、発せられた言葉だけだ。この上、集団的自衛権でアメリカの戦争に「積極的」に加担することが、どのような結果を招くのか。 その結果はおそらく、危険地帯に行くジャーナリストや社会の周縁にはじき出された「デイ・ドリーマー」だけではなく、駐在で海外に滞在する人や、気楽な旅行者の身に降りかかる。そしてやがては、安全だと思っていたこの地に閉じこもっている人々にも。

*若干加筆訂正しました(2月9~11日)。

*1 オバマ政権はその後身代金支払い容認に転じた。

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