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「森友学園」で怖いのは、疑惑(不正)がなければ開校していただろうということ

moritomo
寄付金100万円の入金控え(Yahoo!ニュース 3月17日菅野完さんの記事より)

船が沈みかかっているような気がする。
驕れる平家久しからずというか、命運もいつか尽きるというか。
それとも、ただの希望的観測か…。

さんざん言われてきたことを繰り返すつもりはない。9億が1億になった土地取得の疑惑である。誰が口利きをしたのか、忖度だったのか、賄賂はあったのか、というようなことである。問題の本質はそういうことではないだろう、と思っていた。いや問題ではあるが、ことは国有地の単なる不当売買だけなのか、ということである。

16日、「(小学校建設にあたって)金の流れは逆」とのニュースが流れてきた。籠池氏の口からは「安倍首相から寄付」との発言が飛びだし、これを受けてようやく氏の国会への証人喚問が決まった。いきさつや真偽のほどが明らかになってくると期待したい。

思っていたのは、もし学園がすんなり9億円で土地を取得していたらどうだったのか、ということである。総理夫人はそのまま名誉校長で(公人でも私人でもどちらでもよい)、順調に小学校は開校となり、生徒たちは教育勅語を唱和し、外国人出ていけ、と叫んでいたかもしれないのだ。どうして皆そのことに恐怖しないのかが、不思議でならない。

「愛国」教育を推し進めるに、教科書の記述に関与するなどという遠回りなやり方ではなく、もっと直截的な場が欲しいと思う人たちはいるだろう。「日本会議」はもちろん、おそらく安部総理夫妻もそう思っていたのではないか。だから「逆」はあり得ると、私は思う。むしろそれを織り込んでの開校だったのではないか。

籠池氏や協力者が、あまりに目に立つ、かつ制度や倫理を無視したやり方でことを勧めてくれたのは、その意味でむしろ良かった。政治家や官僚が国民の財産や政治を私物化している度合いが過ぎて、あるいは国民をなめすぎて、このようなほころびとして顕在化したのなら、それはむしろ良かった。

ただし、これで逃げ切られてしまえば、次は、あるいは次の誰かは、国有地などではなくてどこかの土地を合法的に取得し、メディアの目に止まるような逸脱は控え(何かの折にも教育勅語唱和などはさせず)、じっくりと計画を練り、森友学園が講演に呼んでいたような人たちはことが進んでからお越しいただくことにし、寄付を募り、できれば授業料無料にできるくらいの寄付を集め、教科書はすべて自前で、思う存分「愛国」教育を実践するだろう。

自民党議員の多くが「日本会議」のメンバーであり、閣僚もそうである。もし籠池氏のような「ドジ」を踏まなければ、相当のことが出来る。憲法改正や「駆けつけ警護」には国民の目があり、なんとかつじつまの合う説明をしなければいけない。建前は民主国家であるからして。でも、目の届かないところでは、あるいは目を届かなくさせれば….。

何故安部首相も稲田大臣も、籠池氏に否定的な発言を繰り返すのか。もし籠池氏の実践しようとしている「愛国」教育が、本当に国のためになると信じており、国民の支持を得るという自信があるのなら、講演も寄付も堂々と行えばよい。籠池氏は立派な人であると、一貫して擁護すればよい。

安部首相にしろ稲田大臣にしろ、自分たちの政治的本音と民主国家日本(国民)との間にかい離があるのをよくわかっているのであろう(甘い!と小田嶋さんは言うだろうけれど。詳細は末尾にて…*)。稲田大臣はぽろぽろと本音をもらすが(だから安部首相に重用されている)、それでも抑制はしているはずだ。

国会の場で追及してほしいのは、政治家と官僚の国家財産の私物化の問題に加えて、何故彼らが「愛国」教育をそれほど優遇・応援したのか、それを民主国家日本にふさわしいものであると思っているのか。もし森友学園を否定するのなら、それは何故か。もし関与したにもかかわらずその後否定に転じたのなら、国民に肯定擁護できないものを何故優遇・応援したのか。

籠池氏は16日の参院予算委員会の調査団にこう語った。

我々がこの学園をつくり上げようとしたのは、みなさん方のご意志があってこそだと思う。そのご意思のなかには、大変恐縮ですが、安倍内閣総理大臣の寄付金も入っていることを伝達します。
【森友学園】「安倍首相から寄付金100万円」籠池理事長が発言、首相側は否定(ハフィントンポスト)他多数のメディアが報道

森友問題を最初に追及 木村真市議が語った「疑惑の端緒」(日刊ゲンダイ 2017.3.16)
安倍政権、学校・土地・ナショナリズムめぐるスキャンダルに直面(BBC 2017.3.17)

3/18

*小田嶋さんの見方は、もっと悲観的なものだ。
「教育勅語」を愛する人々(小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明/日経ビジネス 2017.3.17)

(稲田大臣の教育勅語肯定発言に対して)彼女は、どちらかといえば、誇らしいというのか晴れがましい気持ちで自分の道徳観を開陳していのだと思う。ご本人の自覚としては、断じて誰かに媚びるために過去の禁じられた徳目を称揚してみせたのではないのだろう。

松野文科相にしてもおおむね同様だ。政権の中枢への目配りがなかったとは言えないものの、彼自身、教育勅語が道徳的に優れた文書である点は疑っていない。

私が当初から感じている薄気味の悪さは、実にここのところにある。
この物語に登場する人物は、誰もがテンから教育勅語を「良いもの」だと信じ切っているのだ。

それだけではない。
観察するところでは、現状の日本人の多数派は、どうやら、教育勅語を悪いものだとは思っていない。
これは、私には受け容れにくい状況だが、事実なのだから仕方がない。

・・・教育勅語も、天皇に関する部分だけを取り除けば、十分現代にも通用する好ましい徳目だと、そう思っている日本人は少なくない。というよりも、日本人の多数派がそう思っているからこそ、文部科学大臣や防衛大臣が、公然と支持を表明したのであって、赤旗がどう言おうが、朝日新聞があきれてみせようが、実に世の趨勢は既に、教育勅語復活に傾いているのである。

われわれは、既に戦前の世界で暮らしているのだ。
なんということだろう。

・・・その「教育勅語」のキモというのか、核心に当たる根本思想は、「個」よりも「集団」を重んじ、「私」よりも「公」に高い価値を置き、個々人の自由よりも社会の秩序維持に心を砕く社会の実現ということで、・・・何より美しいとされるのは、自分以外の何かや誰かのために自分の命を捨てる人間の姿だってなことになっている。

・・・

戦前の日本の子供たちを皇軍の兵士に仕立て上げるにあたって大きな役割を果たし、そのことで一度は教育現場から追放された教育勅語が、いままた復活への道を歩みはじめている現今の状況は、私の思うに、大げさに言えば、戦後の平和教育ならびに戦後民主主義の敗北ないしは解体を意味している。

4/20

どうやら尽きつつあるのは政権の命運ではなく、戦後まがりなりにも私たちがそれによって生き、尊重され、守られてきたところの「あるもの」であるようだ。そこに働いているのは忖度などというものではなく、その「あるもの」を葬り去ろうという意思なのだと、私には思える。

小田嶋さんが着目した教育勅語は、その後、憲法に反しないような範囲であれば教育資料としての利用は問題ないという閣議決定までされてしまった。強い意志と、それに同調的な「世の趨勢」あってこそ、である。

けれども政権も完全に勝利したわけではない。いきなり私人を証人喚問するという、ある意味懲罰的な意味を帯びた図式にあって、国家に対する一個人の籠池氏は予想以上にまともで、堂々と落ち着いて見えた。言葉も、政治家の上滑りな捻じ曲げ解釈弁明言葉に比べるとまっすぐであった。可視化というのは大事である。メディアによって作られたイメージがあれで変わったという人もいたのではないか。

ということでこの件、これで終わりではないはず。と、やはり思いたい。

6/11

興味深い展開。

菅野完・緊急寄稿 森友学園に群がった“安倍人脈”の面々〈週刊朝日〉

この2カ月の間に、「教育内容やカリキュラムを今一度精査し」たことが報告され、「この検証作業の結果、『教育勅語の奉唱』『軍歌・戦時歌謡の類の斉唱』『伊勢神宮参拝旅行』『自衛隊行事への参加』などは、学校法人としては改めるべき内容であるとの結論に再度至」ったのだ…

 

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