オリンピックと汚染水

2020年のオリンピックについて、
イスタンブールに決まるといいなあ、と個人的には思っていた。
平和の祭典があの地域で初めて行われるのは、
今この時期だからこそ意味がある。
7年の間に中東に和平を確立しよう、
そのための五色の旗にしよう、ぐらいのことを、
エルドランには言ってもらいたかった。
ところが彼は、アメリカのシリア攻撃支持。
最悪の場合、隣国がイラクのようになるかもしれないというのに。

そして我が国は、復興をイメージ戦略に、東京招致にまっしぐら。
本当に東京で私たちはいいのか?
中東にまず平和だ、というのなら、
日本もまず原発事故完全収束ではないのか。
しかも、戦争は人間の意志で止めることができるけれど、
汚染水ダダ漏れは、意志だけじゃ無理。

新潟の泉田知事は、「汚染水を止めるのは世界、
人類に対する責任」と述べたそうだけれど
どうも都のトップも国のトップもそう考えていないってことが、
オリンピックの現地記者会見で明らかになってしまったね。

汚染水漏れ問題では、先日のニューヨークタイムズが一面トップ、
その他世界で大きく報じられているとのこと。
それだけ緊迫した重大な問題だと捉えられている。
なのに「250km離れているから大丈夫」とは、
あまりに無責任かつ誠意のない(福島の人に対して、
東京の人に対して、オリンピックで来日するかもしれない人と、
世界の人に対して)答えで、かえって不信感が募る。
たぶん肝心の日本政府の認識が一番甘いんじゃないかと。

実は一瞬、オリンピックが東京に決まれば、
外圧に弱い日本は総力を挙げて収束にとりくむかも、と思ったりもした。
でもよく考えてみたら、総力を挙げて隠ぺいするかもしれず、
このご時世だから隠ぺいはどこかからもれ、
総力を挙げて更に情けない日本の姿を世界にさらす可能性のほうが高い、
そう思い至った。

ことの順序が逆だろう、と内田樹氏も言う。
五輪招致について (内田樹研究室 9/4 アエラにも書いたものだそう)

以下の点についても同感。

第二の理由は、招致派の人たちが五輪開催の経済波及効果の話しかしないからである。
東京に招致できたら「どれくらい儲かるか」という皮算用の話しかメディアからは聞こえてこない。
「国境を越えた相互理解と連帯」とか「日本の伝統文化や自然の美しさを海外からのお客さんたちにどう味わってもらうか」というようなのどかな話題は誰の口の端にも上らない。
個人的には、五輪の本質は「歓待」にあると私は思っている。
64年の東京五輪を前にしたときの高揚感を私は今でも記憶している。
当時の国民の気持ちは「敗戦の傷手からようやく立ち直り、世界中からの来客を諸手で歓待できるまでに豊かで平和な国になった日本を見て欲しい」というある意味「可憐」なものだった。
「五輪が来ればいくら儲かる」というようなことは(内心で思っていた人間はいただろうが)人前で公言することではなかった。
理想論かもしれないが、五輪は開催国の豊かさや政治力を誇示するためのものではなく、開催国民の文化的成熟度を示す機会であると私は思っている。
五輪招致国であることの資格は、何よりも「国籍も人種も宗教も超えて、世界中のアスリートとゲストが不安なく心穏やかに滞在のときを過ごせるような気づかいを示せること」である。だとしたら、日本の急務はばかでかいハコモノ作りより、原発事故処理への真剣な取り組みと東アジアの隣国との友好的な外交関係の 確立だろう。
原発事故のことを忘れたがり、隣国を口汚く罵倒する人たちが政治の要路に立ち、ひたすら金儲けの算段に夢中になっている国に五輪招致の資格があるかどうか、それをまず胸に手を当てて考えてみた方がいい。

内田氏は、世界はここまで深刻に捉えていると、
Nature の記事を訳してもいる。
Natureから (内田樹研究室 9/6)

9月3日のNature のEditorialに福島原発からの汚染水漏洩への日本政府および東電の対応について、つよい不信感を表明する編集委員からのコメントが掲載された。
自然科学のジャーナルが一国の政府の政策についてここまできびしい言葉を連ねるのは例外的なことである。
東電と安倍政府がどれほど国際社会から信頼されていないか、私たちは知らされていない。

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