南スーダン 何しに行ったの 自衛隊

南スーダン 何しに行ったの 自衛隊

自衛隊が南スーダンPKOから撤退することになった。時期は5月末だという。
ジュバでの活動余地少なく撤収を決断 PKO派遣部隊ゼロに…政府、国際秩序の安定へどう関与するかが課題(産経ニュース 2017.3.11)

事故が起こる前に撤退できるのは良かった。誰にとって良かったかというと、(隊員や家族や国民にとっても、では、もちろんあるのだが)なんといっても安部政権にとって。「防衛省内には『駆け付け警護で死人が出たら政権にダメージだ』との声もあった」(上記記事)。すでに昨年9月から撤収の検討を開始していたという。戦闘を「紛争」と言い張る「オルトファクト*」(=解釈)主張に限界を感じたからではない。もともと「オルト」であるのは百も承知なのだ。

*オルト、すなわちオルタナティブは、=もうひとつの、新たな、というような意味であるが、この場合は、=(言い逃れのための)都合の良い、あるいは非、あるいは否、あるいは反 と同義である。

「オルト」ということでは、PKO派遣5原則も同様である。20年も前から形骸化している原則を派遣条件にしているのは、国連加盟国で唯一日本だけだという。世界に通用しない、適切な訳語もないからと「kaketsuke-keigo」とローマ字表記される任務もしかり。

そういうたくさんの「オルト解釈」の上に、自衛隊派遣が乗っかっている。
上記産経の記事から。

防衛省は平成25年5月、陸自部隊の活動地域としてジュバのある中央エクアトリア州に周辺2州を加えていた。2州はインフラ整備が必要とされるが、「治安情勢が安定しておらず、陸自部隊が活動することはできない」(陸自幹部)という事情がある。

昨年7月の内紛再燃では、治安悪化のため自衛隊はキャンプ内にとどまっていた。漏れ聞こえてくるのは、国内難民化した人たちの困窮や飢餓であり、政府軍や民兵による略奪やレイプのニュースであり、民族浄化の危機であった。だから人道支援と住民保護が緊急の課題であり、施設部隊の出る幕はないのであった。

だが、国連常任理事国入りを実現するためには、国際平和に関与する姿勢を示さなければならない。

国際貢献を行っているぞという「姿勢」=ポーズを示すために、自衛隊は「活動余地少なく」ても派遣されていたのだ、との産経記事。自衛隊のPKO派遣という「国際貢献」そのものが「オルトファクト」なのだ、と。問題はそこに批判も考察もないことだけれど、でもこれは産経だけのことではない。

南スーダンに自衛隊を派遣したのは旧民主党政権だったし、「国際貢献」が、困窮を抱えた国や国民のためだけではなく、往々にしてそれよりも高い優先順位で自国の利益のために行われているのは、日本だけのことでもない。ただし、日本の自衛隊派遣は、PKOの現在、及び現地の状況とあまりにかけ離れた「解釈」で行われてきた。あまりに「オルト」度が過ぎるのだ。

上記産経記事の続き。

このため、政府は引き続き南スーダンの国づくりを支援する。武力衝突の監視活動を行う東アフリカ諸国の地域機構「政府間開発機構(IGAD)」に資金を拠出するほか、警察強化の支援なども行う。南スーダン以外のPKO活動に関しても、要請があれば部隊派遣を積極的に検討する方針だ。

大事なのは、自衛隊を海外に出し続けること。武力行使可能範囲を(じわじわと)広げて。これがもうひとつ、「オルト」的解釈で強弁し、何か月後には撤退させることを検討しながらも、何食わぬ顔で自衛隊にkaketsuke-keigoを付与して送り出した理由だろう(第10次隊に付与しなかったのは、国民感情を考慮しての選挙対策との報道があった。実にわかりやすい)。せっかくごり押しで通した安保法である。運用の事例を作りたかったのだ(としか思えない)。

駆けつけ警護についての政府説明は、「自衛隊の近くでNGO関係者らが襲われ、速やかに対応できる国連部隊が存在しないといった極めて限定的な場面で、緊急の要請を受け、応急的かつ一時的な措置として能力の範囲内で(駆けつけ警護を)行う。(朝日新聞 2016.11.16)」というものだった。まるで、使えない、使わない時のエクスキューズ用「解釈」である。

kaketsuke-keigo は、実にへんてこりんなシロモノだ。「極めて限定的な場面で、緊急の要請を受け、応急的かつ一時的な措置として能力の範囲内で」という条件の前に、重要な文言が抜けている。まず、「UNMISSの命により」という前提条件が入らなければいけない。自衛隊は南スーダンPKO部隊 UNMISS に属し、UNMISSのPKF指揮下に入っている。しかし、UNMISSは施設部隊である自衛隊に、歩兵部隊に課すNGO警護や救出の軍事任務を命じない。

自己都合で出てきたとはいえ、現地で勝手に kaketsuke-keigo するわけにはいかないのだ。しかも国連部隊の一員である以上、警護・救出の対象は日本人に限らない。軍法がないから、あるいは憲法違反になるから、という国内法の問題や、民間人の殺害や自衛官の死という政権存続リスク上の問題だけでなく、これらの意味でも、日本人のみを対象にした kaketsuke-keigoは使えないのだ。

資金拠出はさっそく、飢饉対策に3.9億円と発表された。国連にも、あるいは南スーダン政府にも、撤退を認めていただかなければいけない。こちらの都合で出て行って、またこちらの都合で帰ってくるのである(もちろん道路整備も橋もお役にはたっただろうけれど)。

注意すべきは、ときにその国の住民の求めるものと国家が求めるものが異なることである。昨年の12月、国連の南スーダンへの武器輸出禁止決議で日本は棄権し、決議は廃案となった。国連PKOが、住民保護の観点から反政府寄りであるのに対し、日本は政府寄りに立ったかに見える。近い将来の「撤退」に、キール大統領にすんなり「応」と言ってほしかったからかもしれない。だが、政府側に武器が渡ることは、内戦の激化と、一層の国民の難民化に繋がりかねない。シリアと同じ図式がここにある。

他に資金拠出候補としては、IGADと「警察強化の支援」が上がっている。IGADは昨年、UNMISSに4000名の住民保護部隊増派に応じているから、これは国連部隊への資金拠出ということになるのか。それとも参加各国への支援なのか。では、「警察強化の支援」という相手はどこなのか。このあたりも気になるが、最も大事なのは次の「国際貢献」としてのPKO自衛隊派遣である。同じように「オルト」の上に「オルト」を重ねて行うのか。もういいいかげん日本の「オルト」は限界だよ! と思うのは私だけではないだろう。

政府の撤退説明と、六辻彰二氏の記事を載せておく。六辻氏の記事には、政府の「基本的な考え方」とはあまりに異なる「惨状と混迷」と、そして日本の抱える根深い問題が指摘されている。

UNMISSにおける自衛隊施設部隊の活動終了に関する基本的な考え方(内閣官房・内閣府・外務省・防衛省)

南スーダンの惨状と混迷:自衛隊撤収を促した「二重の危険」(BLOGOS 2017.3.11)

このように南スーダンの状況は、国家崩壊のレッドラインを超えてしまった感すらうかがわせるものです。そこには様々な要因が絡んでおり、一朝一夕に解決できるものではありません。

そのなかで、冒頭に述べたように、日本政府は自衛隊の撤収を決定。「復興支援に目処が立った」という説明は、いかにも苦しい答弁です。むしろ、現在の南スーダンの危険を認めないのであれば、そちらの方が問題です

今回の件に関する日本政府の最大の問題は、「危険」を「危険」と認めないことにあるといえます。日本政府は、安保理常任理事国入りを念頭に置いた「国際貢献」の一環として、国連PKOへの参加を進めてきました。一方で、国内世論への「配慮」から、「自衛隊の派遣先は安全」という神話に固執してきました。しかし、安全な土地なら、そもそもPKO部隊の派遣要請があるはずはありません。

政府・外務省には、「一般国民に外交を判断することは向かない」という見方があるかもしれません。しかし、いずれにせよ、「危険」を認めつつも、(「宿営地付近は安全」など他力本願の説明ではなく)それを最低限に抑える努力をみせることで、必要性や意義に関する理解を得るという態度が政府に欠けている点では、原発をひたすら「安全」と言い続けたことと同じ構図です。東日本大震災から6年目を迎えるにあたり、その賛否にかかわらず、南スーダンからの撤収をめぐる問題は、政府の説明責任と、それを判断する力の重要性を再び喚起しているといえるでしょう。

その他の参考記事:

援助団体から大金徴収で弱者を殺す南スーダン政府(Newsweek 2017.3.10)
世界は「第2次大戦以降最悪の人道危機」に直面、国連(AFPBB 2017.3.12)
南スーダン撤退 あの日報を引きずり出した情報公開請求の「威力」(現代ビジネス 2017.3.11)

南スーダン派遣の陸自施設部隊が撤退へ 「(陸上自衛隊の現場では)今のPKOの枠組みで自衛隊が居続けることに、絶対無理があると痛感している」(伊勢崎賢治氏インタビュー)

 

3/16

自衛隊の日報だが、実は最初から陸自に保管されていた。破棄した、と思ったら別の部署で見つかった、と答弁されていた、南スーダンの首都ジュバで「戦闘」と記されていた7月の日報である。
「日報」 陸自が電子データを一貫して保管 “消去”指示か(NHK 3月15日 19時20分)

あると分かったのは1月中旬、『いまさら出せない』ので別のところにあったとのエクスキューズで出し、その後削除を命じた、という説明である。が、あるとわかったのは本当に1月なのか、とはだれもが抱く疑問だろう。これが10月に開示されていたら、11月の11次隊の派遣にはもっと大きな反対の声が上がったていただろう。

指摘しておきたいのだが、問題は隠ぺいや虚偽の報告だけではない、ということだ。「削除した」「記録がないから出せない」と言えば通ってしまうということそのものが、一番大きな問題なのではないか。そもそも、貴重な記録や情報は保管するのがあたりまえ、それは国民に開示されるべきもの、というのが大大前提ではないのか。

こんなことをやっていていいんだろうか、日本。おそらく自衛隊や防衛省内部にも、そう思う人たちがいるに違いない。だからぼろぼろと出てくる(森友学園といい、船が沈みかかっているような気がするよ)。

 

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