これはジャズじゃないって? でも面白かったよ 『セッション』

session

映画としては面白かった。
ハイテンションが緩むことなく、最後のカタルシスまで突っ走る。

いつものように観終わってから公式サイトを覗く。
「星一徹と飛雄馬がジャズの星を目指した映画」というレビューがあって笑った。
確かにそんな一行で言い切れてしまえるのがこの映画で、
つまりものすごくシンプルな映画なのだ。
シンプルな直球勝負が常軌を超え、力を獲得した映画。
すごい映画とは、「よくこれだけのことをこんなふうに描けるよな」
と感心させられる映画のことで、間違いなくデイミアン・チャゼルは
そういう映画を撮れる監督ということだ。

こんな鬼教師は現実にはいない、いや陰湿なのはいる、というようなことはどうでも良くて、映画の中に燦然と実在していればいいだけの話である。もちろん、 J・K・シモンズの鬼教師フレッチャーはリアルに実在していた。現実以上にリアルだったかもしれない。今年のアカデミー賞助演男優賞だという(映画そのものも編集賞と録音賞を受賞)。

これもいつものことながら、観終わってから映画評をぱらぱらと探し読みする。すると酷評と高評価の両方があり、結構盛り上がっている。これも面白い。酷評はジャズのプロで、こんなのジャズじゃない、というもの。彼は怒っているのだ。ジャズを格闘技映画のネタにしやがって、と。

私は別段ジャズに拘りがあるわけでもないし、知識も耳識もないし、ましてビッグバンドのジャズはあまり好みじゃないし、これはジャズじゃないと言われてもよく分からない。分からないけれど、確かにジャズではないような気はする。それ以前に、これは音楽じゃない、つまり音楽についての(音楽を楽しむための)映画ではない、と思う。

フレッチャーはアンドリューに、「おまえには音楽をやる理由があるか?」と問い、「僕には音楽をやる理由がある」と答えるシーンがある。ここが引っかかっている。音楽を選んだ理由はフレッチャーの口からもアンドリューの口からも具体的に語られることはない。何故ジャズなのか、ということもまた。

二人とも何かに憑りつかれてはいる。でもそれは音楽にではない。憑りつかれるとはそういうことだ、というふうに言うことはできる。憑りつかれてしまったときには、それは音楽やジャズという具体的なものを超えた何かになってしまうのだ。その何かは純粋な美や善や悪や憎悪というふうにより分けることのできない、混沌としたわけのわからないものなのだ、と。でもでも、観る者は彼らが「憑りつかれている」ことを、それがやむにやまれぬことだと納得はしたいのである。この映画にイマイチ感情移入できないのは、ここを自明のことのようにしてきちんと描かないですませているからかもしれない。

憑りつかれた者が「理由はあるか」と問い、まだ(そこまで)憑りつかれていないアンドリューが即座に迷いなく「理由はある」と答えるのはわかる。でも、それをフレッチャーがよしよしと頷いて終わりというのがどうにも宙ぶらりんで治まりがつかないのだ。

とあれこれ考えてしまうのも面白い。ただし音楽的な余韻は残らない。だから観終わると皆自分のお気に入りの音楽が聴きたくなるらしい。私は XJapan の「紅」と、まったくテイストの違うボブ・マーリーが聴きたくなった。

 「セッション!(正規完成稿)~<パンチドランク・ラヴ(レス)>に打ちのめされる、「危険ドラッグ」を貪る人々~」( naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME)
菊地成孔先生の『セッション』批判について (映画評論家町山智浩アメリカ日記)
町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意)( naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME)
『セッション』菊地成孔さんのアンサーへの返信(映画評論家町山智浩アメリカ日記)
話題騒然のジャズ映画(?)『セッション』、絶対支持宣言!(宇野維正の映画『セッション』論評)
“論争の的”の大ヒット映画『セッション』への疑問(石黒隆之/J.SPA!)

映画『セッション』公式サイト

町山さんのこの映画を応援したい熱い気持ちと、菊地さんのこれはジャズじゃない(テクニックの問題じゃなくて)というこれまた熱いジャズ愛と。お二人の論争はかなり話題になったようだ。私には、いずれにも頷くところがあった。

この映画には、脚本の甘さとか、テーマの掘り下げが浅いという瑕疵もある。お約束のようなカタルシスを味わうことはできるけれど、それはすーっと引いてしまい、何かが足りないなあ、という思いが残る。でも、この映画にはそれを上回るストレートな魅力があって、その魅力はまさに、菊地さんが怒っている部分に宿っているのではないかと思う。ジャズを徹底的に素材にしたこと。それが監督のなかにあるジャズへの挫折や恨みだとしても、ジャズという素材を用いてひとつの感情の物語が濃密に語られたことは確かなのだ。

上記のリンク先記事の一つが紹介していた画像をここにも貼っておこう。アンドリューが憧れていたジャズ・ドラマー、Buddy Rich(右) と Ed Shaughnessy のドラムセッション。なんて楽しそうに叩いてるんだろうね。でも、これはこれ、あれはあれ、なんだよね、きっと。

で、次々にBuddy Rich見てると、やっぱりこれって格闘技だよなあ、と思ったのでした。

 

  • トップへ戻る
  • カテゴリアーカイブ
  • HOME

コメント

メールアドレスが公開されることはありません。* は必須項目です。


*


*