「夜叉ヶ池」に同期する”今”

SPACの「夜叉ヶ池」を観た。
初めて触れる泉鏡花の世界だ。
民話のなかの、自然界の人ならざる者たちとの共棲に、まったく違和感を覚えず、
それを楽しんでいる自分がいた。

原作も読んでみた。

宮城聡の演出が、すんなりとこの戯曲に乗っているのがわかった。
舞台そのままの絵が浮かんでくる。

終演後の監督のトークで、人ならざる者に全て女性を配したと聞き、
宮城聡の感性と知性にあらためて信頼を覚えた。
この作品にある、犠牲となる弱き者に寄り添う姿勢と、
その弱きものが異形の姿に転じて持つ力に対する評価に、共感した。

見終わってすぐに思ったのは、福島のことだった。
冒頭映し出される字幕に、「時 現代」 と記されているように、
「夜叉ヶ池」のテーマは時代を越えた今にも厳としてある。
この国の自然と人間、社会の構造的な問題はあちこちに綻びてあるけれど、
原子力問題の取り返しのつかなさを、
日常の具体的な事例として生きなければいけなくなってしまった今、
この作品に、漠然とした警告ではなく、
痛切な批判を重ねあわさずにはいられなかった。

村には、夜叉ヶ池と竜神(蛇神、白雪姫)にまつわる伝説があった。
竜神が池を離れると洪水となり、村も谷も全て水の底に沈んでしまう。
あるとき、竜神と村人との間に、ひとつの掟が定められた。
竜神は、村で日に三度鐘がつかれる限り池から出ることはない、
洪水も起こらないと約したのだ。
この掟のもと、どれくらいの間村は安らかに生き延びてきたのか。

鐘つきの晃は、東京から民話を集めるためにやってきた学徒だったが、
40年鐘楼を守ってきた老人の死に立会い、
美しい村の娘百合のために鐘つきの役を継ぐことになる。

寂れた庵の前には、夜叉ヶ池を源流とする小さな泉が湧き、
晃と百合は、貧しいながらも満ち足りた日々を送っていた。
百合のために世捨て人のような暮らしを選んだ晃だったが、
彼のなかには、百合だけでなく、
村とそこに住む人たちを守っているという、自負と充足もあったはずだ。

だが、日照りに苦しむ村人たちは、もはや竜神との約束も忘れ、
百合に雨乞いの生贄となるよう強要する。

偶然この地を訪れた晃の親友、同じく民話を訪ね歩く学円を巻き込み、
大立ち回りとなるのだが、晃を守ろうとした百合は、自分が犠牲になると、自害してしまう。
この結果に晃は、その日最後の鐘をつくことをやめる……。

自然への畏怖、自然との共棲を忘れた村人のエゴイズムが、
弱者に犠牲を強いた結果のカタストロフ、洪水が訪れる。

これまで何回も上演されてきたSPACの人気作品ということだが、
宮城聡は、3.11後にこの作品を演ずる意味を考えたと言う。
以前は洪水の場面で、人々が溺れ苦しむ様子が演じられたようだ。
今回そのシーンはカットされ、最後まで(他の役者挨拶が終わるまでも)、
晃と百合が重なりあって倒れている、(まるでピエタのような)静かな美しい姿を、
スポットライトは照らし続けた。

ちなみに原作はこうだ。

晃 (鎌を上げ、はた、と切る。どうと撞木(しゅもく)落つ。)
途端にもの凄(すさまじ)き響きあり。――地震だ。――山鳴(やまなり)だ。――夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。真暗(まっくら)な雲が出た、――と叫び呼(よば)わる程こそあれ、閃電(せんでん)来り、瞬く間も歇(や)まず。衆は立つ足もなくあわて惑う、牛あれて一蹴(け)りに駈(か)け散らして飛び行(ゆ)く。
鉱蔵 鐘を、鐘を――
嘉伝次 助けて下され、鐘を撞(つ)いて下されのう。
宅膳 救わせたまえ。助けたまえ。
と逃げまわりつつ、絶叫す。天地晦冥(かいめい)。よろぼい上るもの二三人石段に這(は)いかかる。
晃、切払い、追い落し、冷々然として、峰の方(かた)に向って、学円と二人彫像のごとく立ちつつあり。
晃 波だ。
と云う時、学円ハタと俯伏(うつぶ)しになると同時に、晃、咽喉(のど)を斬(き)って、うつぶし倒る。

白雪。一際(ひときわ)烈(はげ)しきひかりものの中(うち)に、一たび、小屋の屋根に立顕(たちあらわ)れ、たちまち真暗(まっくら)に消ゆ。再び凄(すさまじ)じき電(いなびかり)に、鐘楼に来り、すっくと立ち、鉄杖(てつじょう)を丁(ちょう)と振って、下より空さまに、鐘に手を掛く。鐘ゆらゆらとなって傾く。
村一同昏迷(こんめい)し、惑乱するや、万年姥(まんねんうば)、諸眷属(しょけんぞく)とともに立ちかかって、一人も余さず尽(ことごと)く屠(ほふ)り殺す。――

竜神である白雪姫は、人間どもは魚や田螺や泥鰌になって泳いでいると笑い、
これで剣が峰の恋人に会いにいけると喜ぶ。
そして「お百合さん、お百合さん、一緒に唄をうたいましょうね」と呼びかける。
ここは原作に同じだが、エンディングの印象は少し異なる。

たちまちまた暗し。既にして巨鐘(きょしょう)水にあり。晃、お百合と二人、晃は、竜頭(りゅうず)に頬杖(ほおづえ)つき、お百合は下に、水に裳(もすそ)をひいて、うしろに反らして手を支き、打仰いで、熟(じっ)と顔を見合せ莞爾(にっこり)と笑む。
時に月の光煌々(こうこう)たり。
学円、高く一人鐘楼(しょうろう)に佇(たたず)み、水に臨んで、一揖(いちゆう)し、合掌す。
月いよいよ明(あきらか)なり。

おろかな人間どもに、なお魚となって生きる道を残した泉鏡花、
それもあながち不幸ではないと思うようになった、と宮城聡。

一面的な結論を避けることも必要かとは思う。
東北の津波の被害者は、おろかな人間の罪を贖う犠牲者などではない。
けれども、敢えて凄惨なイメージを残す選択もあったのではないか。
人間の傲慢さのひとつの帰結として。

それでも鏡花の世界では、溺れた人々も魚という自然の一部となり、
晃と百合は竜神の仲間として、新たな命を得るのだから。
消えるのは(おろかな)人間だけという、強烈なメッセージを打ち出したエンディングを、
しばし私は夢想した。

音楽は「マハラ-バタ」ほどではないけれど、とても心地良かった。
村人たちが非情な暴力で百合に迫る場面では、
手に持って打ち鳴らす平太鼓が効果的だった。
それらを包含し、全体を覆うおおらかな独特のリズムが、
SPACの舞台の大きな魅力であることは確かだと思う。

最後に鐘について。
この舞台には、鐘も鐘楼も出てこない。
さんざん考えた挙句、「消してしまうことにした」と監督。
鐘は確かにシンボルに過ぎないし、
特に最後の生々しいカタストロフの場面が回避された以上、
鐘楼から切り落とされ、水に沈む鐘はいらないのかもしれない。
けれどもそのことによって現れた「見えない鐘」はどうなったのか。
意識化された「見えなさ」を、見たかったような気もする。

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