年賀状を作る気力が出てこなくて、つい他のことに逃避してしまう。
いつか解放される日がくるんだろうか。
たとえ仕事を辞めても、なかなか止められないような気がする。
その理由は、もらわないことの寂しさ。
儀礼とわかっていても、気持ちは割り切れない。そんなものだ。
朝日のオピニオンで、斉藤環さんが、
安倍政権はヤンキー社会の拡大を映し出すものだ、と言っていた。
なるほど、ヤンキーねえ。
橋本・石原人気も、そういうことだとすると頷ける。
「私がヤンキーと言っているのは、日本社会に広く浸透している『気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ』という空疎に前向きな感性のことで、…」
「自民党の憲法改正草案が天賦人権説を否定している話題になっていますが、義務を果たした人間にだけ権利が与えられる、秩序を乱さない範囲で自由を認めるといった発想は、まるでヤンキー集団の掟のようです」
「ヤンキーには、『いま、ここ』を生きるという限界があって、歴史的スパンで物事を考えるのが苦手です。だから当座の立て直しには強いけれども、長期的視野に立った発想はなかなか出てこない。自民党が脱原発に消極的なのは、実は放射能が長期的に人体に及ぼす影響なんて考えたくないからじゃないか。『まあどうにかなるべ』ぐらいにしか捕らえていない節がある。原発は廃炉にしても100年スパンで臨まなければいけないので、もっともヤンキーにはなじまない課題です」
「ヤンキーは反知性主義… 徹底した実利主義で『理屈をこねている暇があったら行動しろ』というのが基本的なスタンス。 …『決められない政治』というのが必要以上に注目されたのもそのせいです。世論に押されて実はヤンキー化しているマスコミがその傾向を後押しし、結果、日本の政治が無意味な決断主義に陥っています」
このあと、今中学校ではやっているという『南中ソーラン』(初めて聞いた)の話がつづく。
中学生の反社会性をうまく吸収するダンス運動みたいなもの?
彼らが成長すると、ヤンキー政党を支える磐石の支持母体になる、ということらしい。
なんというか、全てがこれひとつで説明できてしまっていて、怖いくらいだわ。
で、「100年やそこらでは変わらないでしょうね」だって。
つうことは、私は、福島原発の収束も、原発ゼロの世界も見られず、
ヤンキー国民とヤンキー政治に、
ずーっと情けなさと怒りに身悶えしながら死んでいくのか。
それがいやなら、目先の情けなさと怒りにめげることなく、
死んだあとに続く100年の計の知性を信じて、
地道に日々を送るしかない(でも、ときどきは、「ばかやろー」と叫んでもいいよね)。
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