朝日新聞がエジプトの「クーデター/革命」について、
二つの意見を紹介している。
(耕論)エジプト、クーデターの是非
内藤正典さん、ヒシャム・エルゼメイティーさん(朝日新聞 7/31)
政変についての見方では真っ向から対立しているが、
将来に対する懸念は共通だったりもする。
軍のやり方を批判=同胞団寄りの見方をしているのが日本の研究者。
民主化のために他の選択肢はないという主張は駐日エジプト大使。
内藤正典氏は、都市エリート層や旧ムバラク政権生き残り層に、
クーデター待望論があった、という。
また、タハリールに集結した抗議デモを<未熟な民主主義>とし、
以下のように述べる。
タハリール広場の若者たちも、軍の介入を称賛している。民主主義が何であるかについて、残念ながら経験が不足していたと言わざるを得ない。大統領の退陣を求めるのなら、あくまで民意によって選挙で倒すべきだった。国民の期待があったからこそ政権を奪取したと軍は主張するが、詭弁(きべん)だ。
タハリールに集結したのは若者だけではなかったようだし、
2200万人の署名はどうなんだろうとも思うけれど、
エジプト(アラブ社会)特有の「路上民主主義」が未熟である、
という指摘には頷かざるを得ない。
だが、モルシ政権を選挙によって「民主的」に倒せたかというと、
これについては疑問だ。
また彼らの「路上民主主義」の論理を詭弁と決めつけるのにも、違和感がある。
つづけて軍について。
イスラム圏の軍はどの国でも最も世俗的な組織。だから世俗主義のエリートは、本質的に軍に接近しやすい。軍にイスラム主義に対する「とりで」になることを 期待してしまうのだ。だが、軍という組織は、世俗主義を守るために政治に介入すると同時に言論、思想、信条の自由を奪ってしまうものだ。
私も軍というのは完全な世俗派だと思っていた。
が、色々見聞きするうちに、エジプトの軍については、
もう少し複合的な見方をする必要があると思うようになってきた。
このことはあとで触れたい。
さて、内藤氏は、モルシ政権のやり方もまずかったと批判し、
90年代のアルジェリアの内戦状態のようになることを危惧しているが、
こんなことも言っている。
いまさら現実的ではないが、ムルシ政権に任期をまっとうさせ、その間にイスラム主義に対抗する野党勢力の組織化を進めるしか方法はなかったのだ。
あくまで、世界標準の「民主的」手段で事を進めるべきだ、
という主張に終始しているわけだ。
私も、野党勢力やリベラル左派の組織化と連携は、
モルシ政権誕生以前、誕生後、そして崩壊後のどの段階でも必要だと思うけれど、
問題はモルシ政権の下でその実現可能性があったのか、ということだろう。
モルシ政権の大統領宣言と憲法の中身を見ると、
大統領(とその背後にいる同胞団)への権力集中化はかなり露骨であり、
その露骨さと性急さが(これまで散々書いてきたことだけれども)、
反政権デモと署名活動につながったと思えるのだ。
つまり反モルシ派には、
このまま行ったらムバラク時代よりひどい独裁国家になってしまう、
という強い危機感があった。
この「路上民主主義」を、駐日エジプト大使エルゼメイティー氏は、
「極めて正当な要求」だった、とする。
6月30日の大規模デモでエジプト国民が示したのは、極めて正当な要求だった。それは早期の大統領選だ。なぜか。ムルシ大統領は経済の立て直しに失敗 し、治安、安全、経済、政治のあらゆるレベルで国を後退させた。ここは非常に重要な点だが、ムルシ氏は実際、国を統治していなかったのだ。エジプト人は昨年51%の支持でムルシ氏を大統領に選んだが、その際、ムスリム同胞団の秘密組織である指導部が背後から国を主導することを選んだわけではない。大統領 は、指導部のお墨付きなしに一つの決定を下すこともできなかったのだ。
これを、世俗派エリート層(あるいは旧ムバラク支持派)の弁だと
捉える向きもあろうけれど、
鈴木恵美さんが指摘するように、政治のトップにいる人も、
「路上民主主義」に対して一定の敬意を持っており、
その内実を問おうとする姿勢があるのだと、見ることもできる。
大使はこの政変を「クーデターだったのだろう」と認めつつも、
ただしそれは、「地上最悪のテロ組織に対するものだったのだ」と、
かなり強い言葉で擁護している。
暫定政権も同胞団をテロ組織と非難しているけれど、この非難は、
私たちには、ちょっと過剰な決めつけのように感じられる。
あるいは、同胞団強制排除や弾圧の口実のためのようにも聞こえてしまう。
何故なら私たちには、テロ組織というものがイメージできないからだ。
慈善活動で貧困層を支え、しっかりとした組織を持ち、
デモだって必ずしも暴力的なわけではなく、
「民主的」な選挙で勝った政党のバックボーンである宗教団体を
いきなり「テロ組織」だと言われても、すんなりと受け入れられない。
日本のマスコミや日本人の論調が同胞団寄りで、かつ軍に批判的なのは、
情報の少なさや偏りだけでなく、
上記のように同胞団や軍の実態や特殊性が、
日本人の平均的想像力の範囲外、ということもあるような気がする。
私はこの半年の情報をあさっていて、
同胞団が決して「民主的」な組織ではなく、
モルシ政権が「民主的」に政権運営をしてきわけでもないことを知ったし、
デモの衝突については、
過激な暴力対決に誘導しようとする人たちがいることも知った。
同胞団に武装集団がいることだけでなく、
ガサのハマスなど、国境を越えた武装勢力とのつながりも確かだと思う。
だが、大使がこれだけ強い口調で同胞団を「テロ組織」と呼ぶのなら、
少なくともその根拠を示さなければ、
エジプトをよく知らない人たちの賛同を得ることは難しいような気がする。
そして、同時に、同胞団と無関係なならず者のような過激分子がいること、
リベラル左派にも、ブラック・ブロックなる過激分子がいること、
さらには同胞団ではないイスラム過激派のことも触れるべきだろう。
とはいえ、次の提案には誰もが頷くと思う。
<宗教政党禁止を> 新憲法では、宗教上のマニフェストを持つ政党は禁止されるべきだ。イスラム政党があれば、コプト政党もできる。宗教紛争になりかねない。政党は外交政策、国内政策、社会保障などで判断されるべきだ。状況が落ちつけば、暫定政権が示した行程表に基づく議会が選ばれるだろう。次の大統領を選ぶまでには、リベラル、イスラム主義者双方が議会での論戦を通じて、より成熟するだろう。
が、これはおそろしく困難なことでもある。
エジプトの現状で、いきなりこのような宗教と無関係な政党を
簡単に作れるとは思えないからだ。
そういう層がいるにしても、地道に組織化し、政党として立ち上げ、
その政党への支持を、農村部や貧困層を含んだ広範な人々から取り付けることは、
そう簡単なことではない。
さて、軍は世俗だ、という内藤氏の指摘について。
昨日メモしておいたこの記事を読んだ今は、
う~ん、ちょっと違うのでは?と思っている。
・「イスラムの擁護者」としてのエジプト軍と、軍人のイスラーム
7/30日に朝日中東マガジンに掲載された小杉泰氏のもの。
そもそも、ムバーラク独裁の崩壊に至った「1月25日革命」にしても、民衆が自力で独裁者を倒したわけではない。民衆の抗議のたかまりに、軍部が介入してムバーラクをやめさせたのが現実である。
今回も、6月末からの広範なデモの高まりを背景に、軍部が前面に出てきた。民主主義ではなく、軍部が決定権を握っている構図は全く変わっていない。
私はずっと、エジプトは軍人の支配下にあるという立場をとってきた。
氏も、エルゼメイティー大使と同様、
軍がムバラクを見限ったのは、大統領を世襲させようとしたことにあると見る。
今回の政変も構図的には同じだと言う。同感である。
続いて、ただしエジプトの軍は決して「世俗派」ではない、
軍人の多くはまじめなモスリムである、と指摘する。
この点では、エジプトはトルコには似ていない。ムルシ政権は、現在のトルコのエルドアン政権のような穏健イスラーム路線をめざし、また国内で軍部との緊張関係にある点で似ている、と評価されてきた。しかしトルコ軍部が、トルコ共和国の「建国の父」アタテュルクを継承する世俗主義の護持者であるのに対し て、エジプト軍はいわばイスラームの擁護者であり、その点は正反対である。
実際には、私の知る限り、(エジプトの)軍人たちは自分たちの宗教としてのイスラームに誇りを持っている。また、イスラームが求める指導者への「忠誠心」と愛国的な忠誠心を重ね合わせていることが多い。
7月の政変でシーシ陸軍大将がムルシ政権を廃し、マンスール憲法裁判所長官を暫定大統領と宣言した時、ウラマー(イスラーム学者)を代表するアズハル総長は、コプト・キリスト教会の教皇と共に、そこに同席し、公的な支持を与えた。
軍人たちが宗教的信条や思想的論点の議論に加わることはないものの、彼らのイスラームは、ウラマーと1つの点で一致している。それは、国土防衛と法の秩序こそがイスラームが要請する第一の義務であり、それを果たすのが政府と軍の最優先の課題という理念である。
イスラーム史には、軍人統治者の例は枚挙にいとまがない。彼らはいつも「社会を安定させ、イスラームを守る」と誓って、ウラマーの支持を取り付けてきた。
したがって、現実はイスラーム対世俗という単純な二項対立ではなく、いくつもの立場からイスラームのあり方をめぐって争っている面が強い。
暫定政権が、私たちの想像するような世俗(政教分離)政権を
目指しているわけでないことは、
7月3日にマンスール暫定大統領が出した憲法宣言にも明らかだ。
その第1条に、驚くべきことが書かれている。
「イスラームは国教(国家の宗教)である」「アラビア語は公用語である」「イスラーム法の諸原則は、立法の主要な法源である」は、サーダート時代から憲法にずっと書かれていることであり、奇とするにはあたらない。
問題は、「イスラーム法の諸原則」の部分に「スンナ派の諸学派が認める」との限定が付加されていることである。言いかえると、エジプトのイスラームは「スンナ派である」と、初めて明言したことになる。
イスラムに根差した社会であることがまず大前提であること。
ただし、イスラームの在り方をめぐっての争いが、
これまでのエジプトの状況と変わってきたこと。
エジプトでイスラムと言えば即ちスンナ(スンニ)派であったので、
あえて限定する必要もなかったのが、このように宣言する必要性が出てきたこと。
そういえば、エジプトにも微増ながらシーア派が出現しており、
そのことの脅威が表だって語られるようになったと、
別のところで読んだ記憶がある。
またここには、周辺イスラム国の宗派的な思惑も絡んでくる。
憲法宣言は、シーシ国防相と軍部の意向を反映しているであろう。とすれば、軍人たちのイスラームも、いまやスンナ派であることを明言するような宗教性を帯びてきた。 総じて言えば、エジプトでも、中東全体でも、イスラームの是非ではなく、どのようなイスラームかが問われる時代に入ってきた。
大使は宗教政党禁止を提言しているけれど、
軍でさえ私たちの考える世俗とは異なる以上、
政党がまったく宗教を排したものになるとは考えにくい。
エジプトで、異なる宗教・宗派が、
政策で結びつくような政党が可能だろうか。
軍人には異なる宗教・宗派がいるだろうけれど、
それは、国防という絶対的な目的があってのことだ。
政治的信念や政策が、それだけの強い核になり得るだろうか。
話を戻すと、大使はこの先の懸念を次のように述べる。
最悪のシナリオはイスラム主義者が過激なジハード(聖戦)主義者の支援を得て、暴力に訴えることだ。軍が介入せざるを得なくなる。だが、もし暴力に訴えたとすれば、アルジェリアのように、彼らは最終的に敗者になるだろう。
くしくも内藤氏の危惧と同じで、アルジェリア化=内戦状態を恐れている。
ただし内藤氏は、
「軍が同胞団の幹部をさらに拘束するような強硬な弾圧に出れば、
イスラム主義者は過激化して」アルジェリア化すると、
軍の弾圧と同胞団の過激化の順序が逆だ。
が、これはもう卵と鶏のようなものではないかと思う。
一つだけ言えることは、同胞団側に多くの死者が出ることは、
暫定政権を決して利するものではない、ということだ。
良いことなど一つもない、と言っていいかもしれない。
同胞団の過激化に口実を与え、西欧社会からは非難を浴び、
民衆の支持も、暫定政権の正統性も薄れていく。
そして、この政変が「革命の第二段階」などではなく
ほら、やっぱり「クーデター」だったじゃないか、
という声を決定的なものにする。
たとえ武力衝突の結果が、
大使の言うように同胞団の敗北に終わったとしても、
エジプトの「民主化」にとって、失うものはあまりに大きい。
同胞団支持者に望むのは、流血を煽る勢力や一部の人々の言行を、
たとえそれが同胞団幹部のものであっても、冷静に見つめ、判断し、
自らの命と他者の命を大切にしてほしい、ということだ。
非イスラムの私がこんなことを言うのは大変失礼なことかもしれないけれど、
それがイスラムの教えに叶うことではないのか。
今日のニュースが、先日に続いて再びアシュトンEU外相がエジプトを訪れ、
モルシ氏に面会したと報じている。
エルバラダイ副大統領同席のもと、
モルシ氏は元気そうであった、という会見を行った。
このことで、膠着状態になんらかの動きが出てくるのかどうか。
エジプトの抱える問題は、単に独裁か民主化か、ということではなく、
ましてイスラム対世俗派などというものではもとよりなく、
人々の暮らしがどうしたらより良いものになるのかという、
現代の「イスラームのあり方」の根本を問い返すものである。
そしてこれは、今現在の全ての中東イスラム国家にとって、
共通の課題であるのだと思う。
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