もう書きたくない、書くこともない、と言いながら、ずるずると書いている。
慰安婦問題は橋下発言によって、
世界を相手に問題提起のような形で浮上してしまって、
いったいこの議論の帰結はどこへ行くのだろうかと、思っていた。
今、ねじれ、折れ曲がり、さらに本質から遠ざかるような動きと、
ゆえに一層高まる本質論的な批判(世界からの厳しい声も)の、両方がある。
朝日の慰安婦問題検証記事は、あれだけの特集なのに、脇も詰めも甘かった。その後の記事も同様で、あげくに池上さんのコラム掲載拒否である。コラムは、批判の高まり(社内からも)もあってか、一転して今日の朝刊に謝罪付きで掲載された。
誤りを認めて謝罪する姿は、特に強者が弱者に対して真摯に向き合う時、美しいものにうつる。反対に、誤りや非があるにもかかわらずそれを認めず、謝罪どころか居直るような姿は、とくに弱者を相手にした強者の場合、とても醜いものだ。今回の朝日の謝罪と掲載は、かろうじて後者の醜さを免れた、といったところか。
朝日の慰安婦問題に関する最大の非は、誤ったデータで記事を書いたこと、ではない。誤報という報道の問題と慰安婦問題がドッキングしてしまったことを、長く放置してきたこと、二つの異なる問題を切り離す努力をしないできたこと、に尽きると思う。その結果、朝日新聞攻撃に慰安婦問題が利用され、同時に、慰安婦問題攻撃に朝日新聞が利用されることになった。
ことに、朝日攻撃に慰安婦問題を利用する行為は、生身の人間が受けた過酷な現実を単なる材料として扱うその無神経さに、見聞きするたびに胸が悪くなる。
今回の検証特集が目指したのは、この二つの問題の切り離し、ではなかったか。だが、試みが成功したとは言いがたい。その失敗の上塗りのような行為が、池上さんコラムの掲載拒否であった。
キーワードは「謝罪」だろう。池上さんは、誤りを訂正するのに謝罪がなければ「試みは台無しです」と書いている。だが、朝日がひっかかったのも、ここであるように思う。まずは「謝罪」をめぐってクリアにしておかなければいけないことがある。
検証記事が出てから、朝日は謝罪すべきだ、という声を多く聞いた。彼らの求める「謝罪」がどのようなものであるかというと、朝日新聞の「誤報」のおかげで問題が世界に認識されるようになり、日本の恥が世界にばらまかれた、またこのことによって世界と韓国の慰安婦問題化と批判が高まり、日本の外交に悪影響を及ぼし国益を損ねた、この罪に対して謝罪するべきだ、ということのようだ。
ここにはいくつもの歪曲と誤認がある。まず朝日の慰安婦問題の記事のうち、データが誤っていたことはあったけれども、慰安婦が国家管理の下に「本人の意に反して」性行為を強要されたことは確かで、行われた行為も、慰安婦の存在も、誤ったデータがあろうがなかろうが消せはしない、ということである。
また、このように「謝罪」を求める人たちが、悪しざまに朝日をこき下ろしながらも、世界は朝日新聞を見て日本を知ると主張するのも笑止である。世界がそんな安易な情報収拾しかしないはずは無かろう。また、朝日の誤認記事が慰安婦問題にどれほどの影響を与えたかについては、そんなものあってもなくてもほとんど変化はなかった、と多くの人が検証してもいる。
百歩譲って、たとえ朝日の慰安婦問題記事によって世界がこのことを問題化するようになったとしても、それは、隠されてきた歴史の闇にスポットを当て、救済されないでいた人々の存在を明るみに出したという点で、むしろ報道機関としての功績にカウントすべきことである。
また、外交問題になっているのは、日本が「誤りや非があるにもかかわらずそれを認めず、謝罪どころか居直るような姿」を取っている(ように見える)からであり、国益を損なうのは、相変わらずの人権感覚の低さを露呈するようなことばかりが目につく日本の現況によってのイメージ悪化である。政府は河野談話を引き継ぐと公に答弁しているのに、何故そこに過去の誤りに対する真摯な姿を読み取ってもらえないのか。そのことをこそ検証するべきであろう。
さて、問題はこのひとたちが「謝罪」すべきとする相手は誰なのか、ということである。朝日の読者であろうか。それとも慰安婦たちであろうか。私には、この人たちは、朝日を批判している「自分に謝れ」と言っているように聞こえる。外交だの国益だのを持ち出しているが、彼らは同時に「慰安婦はウソ」と平気で言い放つことで外交を損ね、国の恥(慰安婦問題という過去の恥を認めないことは今現在の恥である)をばらまいている点において、外交や国益を口にする権利を持たない人たちである。彼らが謝って欲しいのは、自らが信じていた(信じたい)、ねつ造された歴史を朝日が否定しているからであろうし、韓国・朝鮮に対するヘイト感情からいって、彼らの味方をする(ように見える)朝日の態度が許せないからである。
この点において、「そんな謝罪などできない」という朝日は正しい。おそらく、池上さんのコラム掲載拒否も、日々、上記の文脈で「謝罪すべきだ」とつつかれている朝日が、「謝罪」という言葉に過剰反応したのではないかと、私は推察している(掲載拒否そのものが言論と表現の自由という観点からあるまじき行為だ、という前提は揺るがないけれど)。
もちろん、朝日は謝罪するべきであった。淡々と、誤りに対して訂正と謝罪をセットにしたうえで。さらに謝るべきは、慰安婦に対してであろう。報道と慰安婦問題を切り離せずにきたおかげで、的外れな慰安婦攻撃を招くための材料を、こんなに長きにわたって提供し続けたことについて。
このことからも朝日には、問題の本質的な議論に慰安婦問題を導く義務があると言える。足元をすくわれるようなことばかりやっているヒマはないだろう。
池上さんはコラムを、こう締めくくっている。
朝日の記事が間違っていたからといって、「慰安婦」と呼ばれた女性たちがいたことは事実です。これを今後も報道することは大事なことです。
でも、新聞記者は、事実の前で謙虚になるべきです。過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか。
冒頭近く、「誤りを認めて謝罪する姿は、特に強者が弱者に対して真摯に向き合う時、美しいものにうつる」と書いた。何故かと言えば、それが弱者が強者に対するよりも勇気が必要であり、難しいからだ。たとえば、親が子供に対して、教師が生徒に対して、会社が社員に対して、企業が消費者に対して、新聞社が読者に対して、国が(他の)国民に対して。
強者は、この誤りや非は簡単ににぎりつぶせるのではないかという悪魔の誘惑をしりぞけ、弱者の批判や抗議の声の大小に、無視できるかどうかを値踏みすることを自らに戒めなければいけない。そして、朝日に求められたこの勇気は、慰安婦問題においてまさに国に求められている、ということを再確認したい。朝日に「謝罪しろ」という人たちは、同様に国にも「謝罪しろ」と叫ぶべきである。
最後に、他紙についても、公平を期して少し書いておこう。「誤りに対して謝罪を求める」は、言うまでもなく、他のメディアに対しても求められるべきだ、ということである。
慰安婦問題に関して、朝日は一貫して報道の非を批判されてきた。データの誤りや用語の誤用で報道の内容全体を否定され、更には、その事実そのものが無かったというような、ひどく粗雑な批判である。だが、それらをもって、朝日の誤認や誤用よりもはるかに悪質な、意図的な歪曲や言いがかりに近い誹謗中傷記事、慰安婦問題の否定記事が書かれた。これが、ブロガーや批評家の言説だけではなく、産経新聞や文春などのメディアで行われてきた。そのことの非は、朝日の誤認と同レベルの事実関係においてと同様に、さらにそれを超える悪質な誘導記事として、記者のモラルだけでなく、報道の質と報道機関の姿勢を問うべき次元で、問題視されなければならない。
彼らがいかに慰安婦問題を本質からずれた地点に導いたか、いかに本質的な部分を覆い隠してきたか、そのことでいかに外交関係を悪化させ、国益を損ねてきたか、またいかに、韓国・朝鮮ヘイト層に養分を与え、その育成に資してきたか、検証する必要がある。ただし彼らは、朝日のような自己検証は出来ないであろう。自社内からの自浄ツィートも期待できそうもない。彼らは、自らがヘイトする主体であるからだし、恥と醜悪をさらしても平気でいられるタイプの強者であるからだ。
朝日が、朝日攻撃をする週刊誌広告掲載を拒否したことが問題になっていた。だが、今朝の朝刊には堂々とこの手の広告が複数載っている。その攻撃文字の醜さ。それはヘイトスピーチの言葉が醜く、それを口にする人の姿が醜いのと同じだ。朝日はそれらの記事の誤りに、いちいち反論することが出来ない。同じ土俵でののしりあってどうする、という話しだからだ。ゆえに、同じ切り口で、同じ口調で相手の非を突くことも憚られる。かくして、モラルも矜持も勇気もない輩のヘイトの毒が、巻き散らされる。つくづく醜く、恥さらしな日本の姿である。
・(池上彰の新聞ななめ読み)慰安婦報道検証(朝日新聞 9/4)
・「慰安婦検証記事」をめぐる池上彰と朝日新聞、それぞれの愚行
(kojitakenの日記 9/3)
・池田信夫氏に見る「従軍慰安婦」強制性を否定する歴史修正主義
(Everyone says I love you ! 2013.1/6)
・「慰安婦」問題を知ろう (WAM)
・慰安婦問題の本質は何か?(Fight for Justice)
従軍慰安婦問題の本質とは何か
第一に「軍隊が女性を継続的に拘束し、軍人がそうと意識しないで輪姦するという、女性に対する暴力の組織化であり、女性に対する重大な人権侵害であった」こと、
第二に「人種差別・民族差別であった」こと、
第三に「経済的階層差別であった」こと、
第四に「国際法違反行為であり、戦争犯罪であった」
(『従軍慰安婦』吉見義明)「永田町の政治家達は、次の事を忘れている。<慰安婦>とされた女性達が、強制されたかどうかは関係ない。日本以外では誰もその点に関心がない。問題は、慰安婦たちが悲惨な目に遭ったということだ」(マイケル・グリーン/ブッシュ政権時の国家安全保障会議上級アジア部長)
付 9/5
慰安婦問題についてのリンクを二つ追加。
池上さんのコラムについてまだすっきりしないものがあって、何だろうと考えていた。掲載拒否と謝罪掲載の経緯にではなく、記事の内容についてである。池上さんのコラムは、『池上彰の新聞ななめ読み』として、主に、あるテーマのニュースを各新聞がどう伝えたかを横断的に論考し、併せてその記事で伝えるべき一番重要なポイントを抽出してみせるものだ。また、報道とはどうあるべきかを、個別の例を引いて提言する記事も多い。今回は後者である。主張そのものは、これまで池上さんが一貫して述べていることと一致している。
記事の中で一番目につくのは、「せっかく勇気を奮って訂正したのでしょうに、お詫(わ)びがなければ、試みは台無しです。」という一行である。前段では、何故誤りとわかった時点で訂正しなかったのか、という点を一番厳しく批判しているのだが、朝日の試みの成否はまるで「おわび」の有無だけにかかっているように取れる。けれども、朝日慰安婦問題特集記事の一番の不備は、そこに「お詫(わ)び」がないことだろうか。
池上さんのコラムにいつもあった、問題の本質はどこにあるのか、という視点がないように思う。あるのは、朝日の問題処理のまずさの指摘だけである。これまでの池上さんであったならば、この特集が目指すものが何であり(何であるべきであり)、そのためにはここが不足している、と鋭く突いたのではないだろうか。
巷には、朝日の特集記事を受けて、一部「謝罪しろ」コールが起きている。たとえ池上さんが朝日のせっかくの特集が活きていない点を残念に思い、そのために敢えて「おわび」を強調したのだとしても、「謝罪しろ」派は我が意を得たりと読み解くだろう。
何よりも大きな違和感は、慰安婦問題において、何故あいも変わらず大きくずれたところでこんなふうに大騒ぎになるのか、ということである。ひと言でいうと、この朝日たたきは異様である。そのことの異様さを指摘する声があまり聞かれないことの異様さもある。
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