真の検閲が始まった?! この臆面のなさ、まじでやばくない???

kenetsu

愛知トリエンナーレ「表現の不自由展・その後」の中止に関して、
第三者検証委員会が「不備を整備して再開を目指すべき」と報告。
大村知事が再開を目指すと答弁。
文化庁が補助金を出さないと発表。

何!? この臆面のないあからさまな懲罰的検閲!

change.org:文化庁は「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金交付中止を撤回してください。

つくづく思うのは、この政権は懲罰や報復的な措置を、実に臆面もなく、何の恥ずかしげもなく平然と取り行う政権だということ。ホワイト国外しはまだどこかヒトゴトでいられたかもしれないけれど(実は被害を被るのは韓国や日本の関連産業だけじゃなくて、ひいてはもっと多数の両国民でもあるのだが)、これはやばいんじゃないのか。もろ自分ゴトだと思う。

こんな政権を支持してる人が多いこの国については、半ばあきらめている。たくさんのことが棄損された。でも皆がそれでよいのなら仕方がない。もうリカバリーできないことになっても、自業自得。

 

9/28

と、半分はあきらめていても、残りの半分をあきらめられずに少しだけアクション。検証委員会の報告書を読んでみた。

あいちトリエンナーレのあり方検証委員会中間報告(PDF)

 

A4で49ページを読むのはしんどかったけれど、新聞報道には出ていない部分が目を引いた。たとえば問題の少女像について。会長(知事)は実物展示の取りやめか、もしくはパネル展示にとどめられないか、と要請していた。「不自由展・その後」の実行委員は、少女像を出展しない「不自由展」はありえない、と拒否。もうひとつ、「不自由展・その後」のキュレーションは実行委員に任せてなるべく介入しない、というのが芸術監督のスタンス。監督も会長も最終的には「不自由展・その後」に譲歩して、全面的に彼らのキュレーションをのんだ。

一つの結果もそこに至る経過を見ると印象が変わってくる。金は出すが口は出さないと言いながらも、まったくおまかせであるわけはない。日本の嫌韓モードは高まってきていたし、少女像は嫌韓輩の嫌悪と忌避を一身に浴びるシンボルとなっている。混乱回避を思っての要請だと理解はできる。が、知事はその後一貫して芸術への政治介入を批判、否定している。可能なら避けたかった騒動に対して、裁判にまで訴えるという。

何故津田さんが作家の側でなく知事の側に立つのかが解せなかった。何故、会長である知事が展示を取りやめると言い(実際取りやめは知事の要請)、それに芸術監督が作家とともに反対するという図式にならなかったのか。

それこそ政治に屈したという形になってしまうから、ということと、少女像展示で知事が譲歩し、その後はずっと(展示判断については)擁護し続けているからだろうと、報告書を読んで思った。

けれども、結果的に政治的圧力に屈したことに変わりはない。正確に言うなら政治があおって嫌韓ネトウヨ輩が乗った圧力に、ということだろう。報告書には、「不自由展・その後」をめぐる政治家の言動も報告されている。協賛団体を含む抗議先のリストや抗議の仕方など、繰り返し電凸を煽る投稿を続けていた政治家さえいる。これ、アウトじゃない!?

結果、抗議は会場だけでなく、県庁の関連部署だけでもなく、支援協賛団体61社にまで及んだ。中には、学校や福祉施設に火をつける等、暴走するテロ脅迫もあった(電凸攻撃は8月1か月で、電話、メール、FAX 合計10,379件 )。

報告書は政治家である知事が会長を兼務する点を不適切と指摘している。確かに今回も民間人が会長であれば、「政治に屈した」ということにはならなかった。津田さんも作家の側に立てただろう。

ただしこの報告書には、若干の違和感もある。津田さんに対しての批判には頷ける点も多い。が、芸術監督としての能力や経験に不足があったとしても、その津田さんは選ばれ、任命されて監督になったのだから、すべてを個人の責任にかぶせるのは違うと思う(最後のまとめでは、「あいトリ」の組織的欠陥も指摘されているが)。

それよりもひっかかるのは、「ジャーナリストとしての個人的野心を芸術監督としての責務より優先させた可能性」という表現である。

「あいトリ」のテーマは「情の時代」だけれど、もうひとつのテーマは「差別」だと、開催前の津田さんと東浩紀の対談を聞いて思っていた。個人的には、「不自由展・その後」は政治的イデオロギーというよりも、「あいトリ」への女性クォーター制の導入(アファーマティブアクション)と同じ、反差別の視点からの選択なのだと感じた。そのチャレンジグを「野心」と言えばその通りかもしれないけれど、果たしてそれは否定されるべきことなのか!?

数々の危惧がある「不自由展・その後」を公共の美術館で開催することを強行することに「県民の理解は得られない」とまで報告書は書くのだけれど、私は理解している。理解している人が多いから、補助金カット反対に署名も集まる。

ただし、まとめでは不備不測の数々を指摘しながらも、「あいトリ」のコンセプトや監督のチャレンジングは評価し、入場者数からもおおむね成功としている。さらに、「不自由展・その後」取りやめは検閲であるとする海外の報道を列記したうえで、このままでは世界からの日本美術展への出展は減るだろうと、日本美術界にとってのリスクの大きさを危惧、「条件が整い次第、すみやかに再開すべきである」と結論付けた。

全体的には、とても妥当な検証だと思う。きっと文化庁はこの報告書は読んでいないに違いない。

表現の不自由展「条件を整え再開目指したい」 大村知事(朝日新聞 2019.9.25)
あいちトリエンナーレに対する補助金の取扱いについて | 文化庁
補助金不交付「裁判で争いたい」、愛知県知事が反発(BuzfeedNews 2019.9.26)

 

9/29日

愛知県が電凸の音声を公開した。(→その後削除されたとの報、後述)
「犯罪になるかもしれないけれど」「力づくでやるしかない」「それでも(実力抗議を)やりたい」と。

どれも聞くに堪えない不快で攻撃的で加虐的な「ご意見」。しかも誰もちゃんと鑑賞しての意見でないことは明らか。偏った思い込みと誤った情報に基づくステレオタイプ。

でも、これを聞かされ続ける担当者はきついだろうなあ。彼らは明らかに被害者。もしPTSDになったら、彼らに対して加害責任を問われてもしかるべき。「ガソリン缶持ってお邪魔する」は明白な脅迫で犯罪だけど、この手の言動もそのまま放置したらいかんだろう、と思うレベル。

あいちトリエンナーレ2019に寄せられたご意見等

 

これも貼っておこう。

アート界のM字カーブやセクハラ、津田大介が芸術祭監督をやったら見えたこと(BUSINESS INSIDER 2019.4.2)

津田大介×青木理×安田菜津紀×堀潤 あいトリについて 2019年8月26日 J -WAVE JAM THE WORLD

 

9/30日

電凸の音声の公表は、愛知県が本気で再開を目指すということだと思ったし、電凸や抗議に対する対処方法がプロ的なやりかたで固まってきたのかな、とも思った。けれども、これほど迅速に話が進むとは思っていなかった。

中止になった企画展「表現の不自由展・その後」の実行委員会が展示再開を求めた仮処分の審尋が30日、名古屋地裁であり、展示を再開する方向で、芸術祭実行委員会側と和解した。

芸術祭実行委会長の大村秀章・愛知県知事はこの日朝、記者会見を開き、①犯罪や混乱を誘発しないように双方協力する②安全維持のため事前予約の整理券方式とする③開会時のキュレーション(展示内容)と一貫性を保持し、必要に応じて(来場者に)エデュケーションプログラムなど別途実施する④県庁は来場者に(県の検証委員会の)中間報告の内容などをあらかじめ伝える――の4条件を示した。大村氏は、来場者への事前説明などを行った上で、中止前の状態での再開に前向きな姿勢を示していた。

「表現の不自由展」再開へ 時期は10月6~8日で協議(朝日デジタル 2019.9.30)

 

今日目に付いたこの記事も面白かった。ニューヨークのグッゲンハイム美術館の犬を使ったインスタレーションで、動物愛護の立場からの抗議に屈し、展示を取りやめた事例を対比させての論考。

グッゲンハイム美術館の自己検閲の背景には、ふたつの“自由”の衝突がある。ひとつは表現の自由、もうひとつはそれを批判する自由だ。このふたつの“自由”は、どこまでがフェアかという線引きが予め存在するものではない。両者が衝突しながら線を引くのはいわば宿命づけられている。重要なのは、その線引きが創造的な結果を生むか否かである。それは社会における開かれた対話の有無、すなわち社会の寛容さにかかっている。

社会に対話の場がなければ、先述したふたつの“自由”の衝突は、一方的な暴力と略奪に終始する。グッゲンハイム美術館の事象と《表現の不自由展・その後》は相似形なのだ。

今回の一件は、もはやアートの世界、表現の自由にまつわる事象の域を超えている。日本の社会がいかに不寛容なものになっているかという喫緊の社会課題を浮き彫りにした事象だと言えるだろう。文化機関やメディアは、社会との対話をいかに行っていくか、その方法をいかに模索していくかが「ポスト・あいトリ」環境における重要な役割になるだろう。

現在続いているネット上での議論では、ポスト・あいトリ環境においては文化機関が「あいトリの二の舞」を恐れて萎縮し、アート界自体が後退するのではないかという意見が目立つ。言い換えれば、美術館などの文化機関が、とことんまで安全が担保された“サファリパーク”のような場所になるのではないかという危惧である。まったく退屈な話だ。

しかし、アーティストはヤワではないのだ。たとえこれから日本に管理の行き届いたサファリパークのようなアート展が続出したとしても、アーティストらは、より一層反抗し、創造し、皮肉をぶちまけるだろう。彼ら彼女らは決して囲って“飼う”ことのできない、野生の創造主なのだ。「あいトリ」は、日本のアートにスティグマを焼き付けたと同時に、アーティストに契機をもたらしてもいるはずだ。

「あいトリ」は、表現の自由を巡る、この社会の不寛容さを露呈させた。しかし社会的不寛容は、そして検閲は、アートの本質から何を奪えるというのだろうか? アーティストを萎縮させ、アートの進歩を阻むか? 逆だ。新たな社会課題が生まれれば、アーティストは必ずそれを表現し、世に提示する。これまでに誰も見たことのない方法で。そうして多くの人々の、世界の捉え方を変えてみせるのだ。

とどのつまり、検閲がアートから本質的に奪えるものなど、なにもないのだ。

検閲は、アートから何も奪えない:「あいちトリエンナーレ」を巡る議論と、ふたつの“自由”の衝突
WIRED 2019.9.30 森旭彦氏寄稿

 

もうひとつ、ちょっとチェックしたので書いておこう。
冒頭に紹介した補助金不交付決定の撤回を求める署名数は現在(9月30日5時台)で92,000人ほど。一方、同じCHANGE.orgで、「NO‼日本ヘイト!表現の自由を隠れミノにした日本ヘイトは許せない! 補助金にタカる売国奴は許すな!」という署名集めも行われている。こちらは現在43名。

補助金不交付決定の撤回のほうは2日ほど先行しているけれど、それにしてもぶっちぎりの差である。電凸の彼らはマメに電話やFAXやメールを送るけれど、ただ名前を書くだけというのはあまり好みではないらしい。相手を面罵したりできないのでカタルシスもないし、やった気がしないのだろう。でも、絶対数が少ないということが可視化されるので、この署名集めはとても意味があると思う。

もうおひとつ驚いたのは、補助金不交付決定の撤回への支援金を送った人の多さ。総額はわからないけれど、人数が署名者数の半数を超えているのだ。300円からという敷居の低さもあるだろうけれど、少しでも拡散させたい、支援者を増やしたいと思う人がこの割合でいるのはすごいことだよ。

 

10/1

電凸の音声がその後削除されていたという。検証委員会が内容を確認するために公開したもので、検証が終わったので削除した、とされている。弁護士は、法律的には違法とされる可能性は低いが、公開の必要性は疑問だし軽率だった、とのご意見である。

不自由展への「電凸音声」公開→削除 クレーム当事者、愛知県、法律家…それぞれの見解を聞いた
(J Cast ニュース 2019.9.30)

個人的には、「検証のため」を超えて公開の意味はあると思っている。彼ら彼女らの感情的な、そしておそろしくそっくりなロジックと言い口を聞いて、ごく普通の人がどう感じるか。文字起こししたものとは違う不快感とざらつき感を絶対感じるはずだから。

なぜ皆異口同音に応対する職員に「あんた日本人なの?」と聞くのか。「いえ違いますけどそれが何か?」と答えたらどういう反応が返ってくるんだろう。「地球人で、人間ですけど」と答えたらどうか。

クレーマーと電凸についての考察は別記事で。

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