カラフル・ウズベキスタン

出かける前のウズベキスタンの色のイメージは、青であった。
サマルカンド・ブルーという言葉もあるし。

確かにタイルの青はいくつもの色合いを誇っていたし、
空の青も素晴らしかった。

でも実際目にした色は実に様々で、
市場の果物の色鮮やかさそのものの、女たちが身にまとう色にも目を奪われた。

色彩が豊かということが、そのまま人々の内面の明るさを伝えている気がした。
だが、そればかりではない色もあった。

日本人抑留者と真っ赤なタイヤ

出 かける直前、ウズベキスタンに行くとFB友に伝えたら、ギャラリーをやっている彼女は、やはり長く(私も何度も足を運んだことのある)ギャラリーを経営し ていた亡きW氏のことを教えてくれた。W氏は第二次世界大戦後、ウズベキスタンに抑留されていて、他の日本人捕虜とタシケントの劇場建設に関わったとい う。W氏は無事帰還を果たし、後のナヴォイ劇場での團伊玖磨作曲のオペラ「夕鶴」の上演に同行されたとのことだった。

日本人抑留者がいたことも、かの地で亡くなった人たちの日本人墓地があることも知っていたけれど、体験者が身近にもいたということと、そのことをこのタイミングで知らせてくれる人がいたことにちょっと驚いた。内容も日本とウズベキスタンを結ぶ「いい話し」である。

ナヴォイ劇場は中央アジア随一の規模の、美しく、かつ堅牢な建物で、1966年の地震で他の建物が壊滅したのにこの劇場はびくともしなかったという。

と いうようなことは帰国してから調べたのだけれど、驚いたのは、FB友が教えてくれたYoutubeの動画も、検索で出てくる、建設当時の日本人とウズベク 人との交流や、独立後の大統領の親日ぶりなどを書き連ねるブログ記事などの多くが、「日本人てこんなにすごいんだ」式の自褒め記事だったことだ。そこで は、劇場が地震で倒壊しなかったのも、日本の優れた建築技術を証するエピソードとして語られていた。

確かに、捕虜としての労働であろうと、日本人の働きぶりは謹厳で、手先の器用さなど技術も優れていたのだろう。それがウズベキスタンの人たちの日本びいきの一端であることも、そうなのであろう。でも、あまりに美談調の記事を読んでいると、むしろ気が滅入ってくる。

だいたい地震で倒壊しなかったというけれど、それは末端の労働者たちの貢献というよりも、まず設計や工法や建材が優れていたからであろう。さすが地震国日本の労働者は…、というような論調で語られると、ちょっと違うだろう、と思う。

旧 ソ連からの独立後、大統領が、建設に携わった日本人の貢献を称賛するプレートを劇場に設置した。その際、「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」と指示 したと言われているが、これも自褒めに欠かせないエピソードだ。それだけ日本人が感謝されているのは嬉しいことではあるけれど、考えてみたら、非常に政治 的な「配慮」でもある。

それにしても、こういった「配慮」が可能だったのは、戦争中日本がウズベキスタンの人々を殺さなかったからであり、その一点が崩れたら成り立たないものだ、ということを忘れてはいけない。

ウ ズベキスタンの日本びいきで、フィンランドのことを思い出した。今どうなのかは知らないけれど、大昔、友人がバックパッカーでフィンランドに入ったとき、 皆日本人にとてもフレンドリーで、何度もトーゴーを知っているか、と聞かれたという。子供にトーゴーと名前を付けた、という人たちもいたそうである。トー ゴーとは東郷平八郎。彼が人気なのは、日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を破った提督だからであった。

フィ ンランドは東でロシアと接している。1800年代の初めから100年余りは帝政ロシア下の国であった。1900年代になると独立運動が活発化し、ロシアか らの弾圧も増していた。日露戦争は、独立運動が力を蓄えるに大きな力になったに違いない。その後ロシア革命を契機にフィンランドは独立を果たした。

ウズベキスタンも、1800年代半ばからロシア帝国の支配下にあった国だけれど、異なるのは、支配がソビエト連邦に継承されたことだ。独立はソ連崩壊まで待たなければいけなかった。

フィンランドといい、ウズベキスタンといい、日本にシンパシーを感じてくれるのは、私たちが「優れている」から(だけ)ではない。技術や商品が優れていることに対する好意や敬意以上に、彼らの側の事情がある。

私たちはナヴォイ劇場の前に立ってガイドの話を聞いていた。残念ながら工事中で、中には入れないと言われた。立て板に水のガイドの話は、炎天下、噴水の水とその向うのポップなソフトクリームとコークのカップを模した屋台の色に流れていった。

劇場を訪れる前、私たちは「抑圧犠牲者博物館」に立ち寄っていた。帝政ロシアと旧ソ連時代の抑圧と、その支配に抗して犠牲となった人たちを記念する博物館であると、名前だけで直截的にわかる。

壁際に犠牲者たちの写真や、彼らの詩集などが並べられているが、なんといっても目を引くのは中央に置かれた黒塗りの車だ。その車の真っ赤なタイヤだ。

赤 は今さっきペンキで塗られたばかりようなぼってりとした赤で、床に垂れて滲んでいるようにも見える。それが連想させるものはただ一つ、血である。これもま たなんという直截的な表象だろう。ガイドの説明を聞きのがしてしまったけれど、この車が犠牲者たちの犠牲そのものを単刀直入に表していることだけは理解で きた。

あとで調べてみれば、この車は思想犯や政治犯を銃殺刑に処すために刑場に運ぶためのもので、当時からタイヤが赤く塗られていたとい う。その刑場の上にあって、かつては禍々しい演出のために塗られた赤は、犠牲者たちの流れた血をたっぷりと吸った逃れようのないしるしとして、煌々とした ライトにさらされているのだった。

博物館を出て歩きながら、ガイドにナヴォイ劇場とW氏 の 「いい話し」をしてみたけれど、「うん、そうなんだよね」と簡単に答えてくれただけであった。彼らは抑圧された自国人の仲間に、日本人抑留者もカウントし てくれるかもしれない。けれども私たちの遠い知人やその父親たちは、抑圧のほんの末席にいたにすぎない。彼らの共和国の自由と独立と平和をかちとるのに、 血を流したわけでもなかった。「うん、そうなんだよね」という妥当な反応に、これ以上何も期待してはいけないと思う。

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