フリードリッヒ二世が愛したプーリア — ブリンディシの城

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「プーリアにもどるときは、なぜかいつでも急ぎ足になる。私の領国の中で、帰ると決めたらこうも急ぎ足になるのは、プーリアしかない」(『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』下 塩野七生)

5月の終わりにプーリアに行った。
何度目だろう、と数えてみると、5度目であった。
その都度、少しずつまわるところが違う。
プーリアはイタリア半島のかかとと言われるけれど、正確には、
ふくらはぎの下あたりからブーツのヒールをまわって土踏まずを少し含む。
それだけ細長い地域に歴史都市や見ごたえスポットが散在しているので、
一度にその全てを網羅するのは不可能なのだ。

私の場合は重複も多いけれど、それでも今回は、
ブリンディシ、ターラント、チステルニーノ、バルレッタ、トラーニと、
念願の都市や博物館や教会を訪ねることが出来た。
が、旅を終えた後にあるのは、相も変らぬ心残りである。
この旅でもうプーリアは満足だろうと思っていたのに。

 

ブリンディシ

街に足を踏み入れるのは初めてであった。
何度も空港にはお世話になっているし、
一度は海上からローマの円柱を眺める機会もあったのだけれど。

メザーニェ門から旧市街に入る。
古代、ローマからやってきた旅人も、
中世にエルサレムに向かう巡礼や十字軍も、ここから街に入った。
門に突き当たる通りの名前は、今も当時と同じVia Appia、アッピア街道である。

門からサン・ジョバンニ・アル・セポルクロ(サン・セポルクロ)教会を目指す。
今回、まずはロマネスクの教会を見ようと心がけていた。
サン・セポルクロというのは聖墳墓という意味、11~12世紀にかけて、
十字軍から帰還した聖ヨハネ騎士団によって建てられた。

旧市街ですぐに気付いたのは、石畳の白さである。
街には古さがそのままのところと、修復してきれいになっている部分が、
たとえば同じ建物であっても、混在している。
足元も同じで、真新しい切り石できっちりと組まれた石畳もあれば、
四隅がすり減り、欠け、
石の面がそれぞれの角度に波打っているような石畳もある。
いずれも白い石ながら、サン・セポルクロに続く石畳は、
時代の色をまとって少しくすんだ、後者であった。

短いアプローチの奥がそのまま小さな広場で、
教会は、周囲の住宅に埋もれるように、ひっそりと、そこにあった。
そのひっそりとしたたたずまいが、そのまま静かな驚きとなる。
イメージしていたプーリアのロマネスクと、全く違うのだ。
シンプルに見上げるような平面のファサードもなければ、
バジリカ式の身廊が奥に長く伸びているわけでもない。
建物をつくる壁の全体が、低く丸く湾曲しているだけで、
その一部が、柱を二本置き、アーチの梁を載せたファサードである。

柱を支えるライオンは、かつてライオンであったのかどうかも定かでないほどに、
ノミの跡が摩耗している。
表情はすっかり失われたいるのに、わずかの凹凸と大きく裂けた口元で、
かつてのようには身動きも出来なくなった、
けれども忠実さは少しも衰えていない老犬が、
主人を迎えて笑っているかのようにみえる。
柱頭の、人が横に手をつないだ装飾も、入口左右の浅浮彫も、
一部が欠けたり摩耗したりしているのに、
入口上部のアカンサスだけは見事に手前にそりかえっている。
ここだけ修復したのだろうか。

内部のフレスコ画は、かなり傷んでいた。
時間によって崩れ落ちたのとはちがう痛ましさである。
聖人像の顔に加えられた直線的な傷跡や、
壁の一部の、弾痕に似た水玉模様のような傷には、
削り取ろうとする機械的な意思が見える。

随分昔、オストゥーニからレッチェに向かう途中、
サンタ・マリア・ディ・チェッラーテという修道院に立ち寄ったことがあった。
内部のフレスコ画が、やはり似たような傷を受けていた。
18世紀、トルコの海賊によって略奪された時の爪痕だと聞いた。

サン・セポルクロ教会の傷が同様のものなのかは、よくわからない。
少し調べたけれど、そこまでの解説は見つからなかった。

すぐ近くのサン・ベネデット教会を申し訳程度に覗き、
白い石畳をたどってドゥオーモ広場を抜け、古代ローマの円柱にたどり着いた。
柱の立つこの地点こそ、ローマから続くアッピア街道の終点なのだ。

見下ろす目の前はアドリア海、
アドリア海を渡った先はビザンチン(ギリシャ)、
そしてオリエントである。
ここからローマの軍団も、聖地巡礼や十字軍も、
東を目指して船出して行った。

円柱を海上から眺めたのは、ほんの四年前のことだ。
けれども、どこからその船に乗ったのかが、思い出せない。
というのも、その時は全て地元の業者が仕切るお任せの旅で、
バスでガンガン移動を繰り返すせわしなさに目がまわっていたのだ。

ただし、簡素な船で港内を「クルーズ」したこと、
白い円柱を眺めながら、その先に広がるアッピアの果ての街を、
ちゃんと自分の足で歩きたいと切望したこと、
そしてそのあと、立派なお城を訪ねたことは、よく覚えていた。

あの城は、どこの城だったのだろう。
船を降りると、軍服を着た姿勢の良い人が出迎えてくれた。
薄い茶色の石組の城には、掘を渡る橋にも、正面の門にも、
内部の広々した通路にも、どこにも崩れたところがなかった。
今も海軍の施設として、使われているということだった。

ミニ海軍博物館のような部屋をいくつか見学した後、
城のなかにあるレストランに案内され、
制服姿の人たちに交じってランチを食べた。
豪華ではなかったが、温かみのある、もてなしの食卓だった。

この城のことが気になりながらも、
今回私は、ブリンディシの城に足を向けなかった。
ホテルからメザーニェ門はほんのわずかの距離で、
門を右に折れずにそのまままっすぐ進めば、城があるのは知っていた。
だがその城については、ほとんど情報がない。
一般観光客には公開されていないし、
それほど見るに値するとも思えなかった。

城は、Castello Svevo、ホーエンシュタウヘン家の城、である。
一番高い、長方形の塔の部分は、フリードリッヒ二世が建てた。
その後のアラゴン家支配時にも拡張されているが、
ずっと、神聖ローマ帝国皇帝を排出した家名で、呼ばれてきた城だ。

帰国後、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を読み終え、
4年前のあの城のことをまた思い出した。
バーリで買ってきた『Puglia I Castelli』をめくると、
堀を渡る橋と門の構えが記憶にあった。
PCに移したまま放置していた写真でも、確認する。
私は四年前、ブリンディシのCastello Svevoに、行ったのだった。

今回もう少し欲を出して城の前まで行っていたらと、思わないでもない。
けれどもやはり、行かなくて良かったような気もする。

実は帰国するまで忘れていたことがある。
いや、こんなふうに書いていてやっと思い出したのだ。
ブリンディシに私は、ずっと遠い昔、ギリシャから大型船で、
着いたことがあったと。

船中で二日ぐらい過ごした記憶がよみがえる。
ヴェネツィアからウィーンに入り、
そこから三週間かけて東欧を下ってきた末に風邪を引いてしまい、
朦朧とした意識のまま、ブリンディシで船旅を終えたのだった。

下船の時、一人の男性がイタリア語で声をかけてきた。
具合が悪そうなのを見てか、どうしたの?と問うのである。
風邪引いちゃってさ、と答えると、
南イタリアでよく見かける、黒い縮れた髪の男性は、
そりゃ愛が足りないからだね、と断定した。

ああ、イタリアに帰ってきた。
いつもならニヤリとするだけで聞き流すお定まりの言葉に、
気難しい顔のギリシャ人クルーや、物静かで大柄なウィーンの人や、
言葉の通じないチェコやハンガリーやブルガリアの人々の間を通ってきたあげく、
風邪まで引いて重い脚を引きずっていたのが、
ぱちんと鬱屈がはじけたような、
嬉しさと安心と懐かしさの混ざったような思いに捉われた。

あのとき私はブリンディシで、
ローマまでの夜行列車を待つ間、どこかのレストランで、
ボンゴレのスパゲッティを食べて時間をつぶしたのだった。
確か港の近くだったような気がする。

いやあれは、レストランなどというしろものではなく、
船乗りや旅人たちの空腹を満たす港の食堂だった。
味は、大したことはなかった。
それでも、やはりしみじみと嬉しくて懐かしい味だった。
主人も、時間つぶしに居座る私に、やさしかった。
周囲には異国の人々の行き交う港町の猥雑な雰囲気も、
あったように思う。

だが四半世紀を経て、円柱の階段から海を眺めていても、
こぎれいな海岸通りに下って、
散歩する人たちに交じって海を左に歩き始めても、
そもそも自分が海を渡って同じこの街に着いたことさえ、
思いださないのだった。

唐突に、ローマにある、古代ミトラ教の聖所の上にローマ神殿が、
その上に中世の教会が立つ、サン・クレメンテという教会が思い浮かんだ。
教会内部は、新しい層から古い層へ、
地上から地下へと下っていくことは出来る。
けれども三つの聖所はまったく異なる時間を伝えてはくれるものの、
それらは決して混じり合ったりはしない。

私のブリンディシの記憶も、三層の教会のように、
あのブリンディシとこのブリンディシは違うブリンディシなのだ。
きっとどこまで行っても、混じり合うことはない。

k.t.0505 - View my 'Puglia2014/Brindisi' set on Flickriver

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