よくこんな映画を作るよな!『歓びのトスカーナ』(日本語タイトルはひどいけど)

よくこんな映画を作るよな!『歓びのトスカーナ』(日本語タイトルはひどいけど)

もうほんとに胸の底にずしんと来た。
笑いもあるし、思わず一緒にガッツポーズとるところもある。
ほんと一緒に旅した感じ。久しぶりのロードムービー。

イタリアらしい、人間に対する深くてあったかいまなざしがあって、かつ痛快でもある。今年のナンバー1かも。

イタリアって精神病院を全廃した国なんだよね。ひどい施設もあるだろうけれど、こういうコミュニティ施設が実際トスカーナにあるところがすごい。

 

 

2019.5.29

ずっとトップページに置いたまま1年と8か月。その後あまり映画を観ていないせいもあるけれど、この映画を上回る映画に出会わないというのもある。

なのにイタリア好きの知人友人で観た人がいない。皆にお勧めしているのに、観たよという声も聞かない。先日イタリアの精神医療改革をけん引したバザーリアについての講演を聞いたんだけれど、講師も含めて会場にこの映画を知っている人がいなかった(感触として)。

精神医療で開放治療のようなものに興味がある人にこのタイトルでは届かないし、イタリア好きにもベタすぎて響かない。残念だなあ。

ところで何故イタリアでは(公的)精神病院を全廃できたのか。講師である高田和文先生は成功の要因として以下の4点をあげていた。

a) (バザーリアの)強い意志と固い信念、深い哲学(青年期の投獄体験、実存主義哲学への造詣)
b) 人とのつながり、ネットワークの形成(夫人フランカ、協力者、行政官、アーティストたち)
c) 理論より実践を重視、現場主義(拘束衣・白衣の廃止、文化活動・イベントの実施など)
d) 批判・抵抗への粘り強い対応(出所者による殺人事件、失踪・死亡事故、裁判への出頭、住民の不安と抵抗・講義、メディアのネガティブ・キャンペーン、など)

同業者の抵抗や反発も強かったのではないかと尋ねたら、それはもう…というお答え。段階的にとはいえ、よくぞ全廃にまでこぎつけたものだと思う。バザーリアがすごかっただけではなく、改革を受け入れたイタリア人もすごい。高田先生はそのイタリア人の思想、精神性を指摘していた。

a) 人間中心の考え方(ルネッサンスの人文主義が現代まで受け継がれている)
b) 自由の精神(イタリア人には自由が大事で、束縛や拘束を嫌う。バザーリアの「自由こそ治療だ」もイタリア人的な発想から生まれたスローガン)
c) 芸術への愛と美的感性(社会的影響力を持つ芸術家・文化人の協力で大きく前進し、一般の人々が受け入れる土壌がつくられた)

イタリア人の精神性に改革成功の背景を見ることに深く頷いたのだが、もうひとつ、個人的にはイタリア人の他と異なることに対する寛容さもあるように思った。「普通」とか「一般的」とか「こうであるべき」といった枠や規範や「常識」を重視し、そこに当てはまらないことや人を排除しようとする傾向が強い日本と違って。

そのような感想を述べると、高田先生は「でも今は移民排斥が強くなってきているので(寛容さはそれほどはない)」と指摘したあと、「時代も良かったのかもしれませんね」と言われた。そうかもしれない。

バザーリアがトリエステで改革を実験的に始めたのが1970年代、WHOなど世界の注目を浴びながらイタリアが公立精神病院の段階的廃止を法制化(バザーリア法)したのが1978年。全廃が1999年。もう20年も前のことだけれど、確かにそういう時代だった。

ちなみに、日本は現在精神病床が主要国中最も多く、入院日数も最長とのこと。これにも驚いた。彼ら彼女らは隔離され、目に見えないから、私たちは知らないでいるのだ。

一年前、友人がショックな出来事に遭遇してPTSDになり、一人でいられなくなって(おいておけなくなって)三日間入院したことがあった。毎日見舞いに行った。初めて入院病棟に足を踏み入れた。外来とは厳重に隔離され、境の扉の厚さと施錠の重々しさに仰天した。

彼女には眠るために薬が必要だったし、カウンセリングなども必要だった。治療は必要だった。でも、もし病院以外で彼女を受け入れてくれる場所があったら、隔離拘束病棟は不要だった。彼女の姉は病院の継続入院には反対したけれど、彼女を引き受けることは拒否し、「一人でしっかりやりなさいよ(これ以上迷惑かけないで)」と帰っていった。一人で「ちゃんと」できないのなら長期入院にサインする、という脅し文句を残して。

家族が引き受けるべきだとは思わないけれど、心に深い傷を負った人にもう少し寄り添う気持ちはないのか、とは思った。結局彼女は私を含む何人かの友だちをカウンセラーのようにして、時間という薬の治療を継続している。でも、もし地域に、バザーリアが開いたような「サービス」があったら…。

この間見ていて思ったのは、彼女に必要なのは薬ではないということ。一時的な精神安定や睡眠のための薬は、彼女の傷を治すものではない。薬は、起きた現実を受け入れて、一人で生きていく力を取り戻す役にはたたない。

もしかしたら宗教は役に立つかもしれない。受洗後に大きな心の痛手から立ち直り、後半生を安らかに生きた人を知っている。でも何を支えにするかを選択するのも本人だし、その何かにどう出会うのか、というめぐりあわせもある。

夫は自らの体験から森田療法を勧めた。私も森田療法を取り入れたクリニックのカウンセリングを勧めてみたけれど、結局友人にはピンとこなかったようで、ネットの占いと、あれこれ違う意見を言う友達に振り回されて空回りしているように見える。

空回りというより遠回りか。それでも少しずつ元気を取り戻してきているんだけれど、必要としている人に必要な「サービス(治療)」がどうもうまくマッチングしていない、ということだけは実感として感じた。でも日本てこうなんだよな、というのもすごくある。

病床がそれだけ多いというのは、日本には精神的な問題から社会生活を営めない人がそれだけ多いということ。治療を必要としている人が多いということと、この人たちを家族やコミュニティーから排除して良しとする人が多いということ。加えて、引きこもりなど家庭に隔離(を余儀なく)されている人と家族がいる。このような国が精神病院をなくすことはできるのだろうか。ひとつだけはっきりしていること。日本人はイタリア人にはなれない…。

 

  • トップへ戻る
  • カテゴリアーカイブ
  • HOME

コメント

メールアドレスが公開されることはありません。* は必須項目です。


*