『アラブから見た十字軍』 — 千年のトラウマと今の争い

『アラブが見た十字軍』 アミン・マアルーフ 牟田口義郎・新川雅子/訳 
リブロポート 1986.4.20 (ちくま学芸文庫 2001)

著者の「史談」の巧みさもあって、予想以上に面白く読んだ。
「十字軍は西洋からの視点でしか語られて来なかった」のは、
1980年代も今も変わっていない。
これは十字軍だけのことではなくて、
私たちが「世界史」と言ってるものがそもそもそうなんだけれど。
その意味で、西洋ではない視点で物事を見るというのは、常に必要だ。
たとえば今のシリアやイラクとかも。

jyujigun3 レバノンのジャーナリストがフランス語で書いたこの本では、文中に十字軍という言葉はほとんど出てこない。イスラム社会で、十字軍勢はフランクと呼ばれていた。フランス人もドイツ人もイタリア人もフランクである。

一方中世イタリアでは、トルコ人もアラブ人もペルシャ人も、みな「サラセン」であったのだから、似たようなものではある。それに、当時はヨーロッパというくくりもなければ、今のフランスやドイツやイタリアという国もなかった。

それで、どういうふうに十字軍が結成されたかという説明もなければ、第何次、といった区分けも記されていない。ただ、侵略、占領、反撃、勝利、猶予、追放と、語られていくだけである。

このことだけでも、
イスラムにとって十字軍がどういうものであったのかが、見える。

当初、彼らには、フランクの聖都奪還という概念が理解できなかった。
宗教的(狂信的)な侵攻というものが理解できなかったのだ。

著者は十字軍を、
「イスラム世界と西洋の間に以後千年にわたって続く敵対関係の発端」
と記す。
ただしこれを、宗教対立とは書いていない。
というのも、特に最初の半世紀、イスラム側では、
フランクの侵略とその防衛戦争を、
宗教をめぐる戦いとは思っていないのだ。

これはイスラムが、ユダヤ教とキリスト教を下敷きにして出現した宗教だ、
ということもあるかもしれない。イスラム世界では、
唯一の神を信じ、その神から啓示を与えられた「啓典の民」として、
ユダヤ教徒もキリスト教徒も、ムスリムと共存が可能だった。

この頃、彼らの争いは常に領土をめぐってであった。
12世紀初頭のイスラム社会は、かつての統一帝国ではなくなっていて、
分裂した領国は絶えず近隣からの侵略に怯えていた。
最初の半世紀にイスラムがやられっぱなしであったのも、
これらの内戦と同時並行でしか、十字軍に対応できなかったからだ。

アンティオキアやトリポリといった重要な都市の攻防も、
都市の軍隊と住民だけの持久戦では、陥落で終わる。
例えば、イスラム世界の重要都市であるアレッポがフランクに攻められた。
救援を求められたダマスカスは、本来なら、
他都市にも同盟を呼びかけて救援に向かうのが筋であるように思える。
だがダマスカスは、アレッポの勢力が増大すのを恐れるあまり、
フランクと手を結び、アレッポ陥落を容認するのである。
彼らは、多くは骨肉相食むことになる勢力争いをけん制するためにも、
フランクに占領された十字軍都市をむしろ利用しようとした。
極論を言えば、彼らにとっては、異教徒に奪われた十字軍都市も、
ある時は敵となり、別の時は味方となる、
単なる別の勢力に占領された一都市にすぎなかったのだ。

もちろん、宗教的な反発は民衆の間にも広く存在したし、
その宗教的対抗心は、ふがいない領主たちに対する絶望と相まって、
次第に高まってはいく。
なかには己の領土の保持獲得だけで動く領主ではなく、
敬虔なムスリムとして聖戦を戦おうという領主も現れる。
けれども、それらが成果を上げ始めるのは半世紀を経た頃からであり、
最終的にエルサレムがイスラムの手に戻るのは、
1世紀後のサラディンを待たなければならない。

しかしこれも、宗教的な一体感や連帯感による成果かというと、
それだけでもない。
サラディンがエルサレムを奪い返すには、
まず分裂していたイスラム世界を、
特にカイロとバクダッドを政治的に統一支配することが前提であった。

この流れから、13世紀のフリードリッヒ二世の無血聖都奪還も、
見る必要があるだろう。
当時のエジプトのスルタン、アル・カーミルは、
弟が支配するダマスカスとのあいだにフランクの都市があるのは、
むしろ自領にとって有利であると考えたのだ。

だが、フリードリッヒがキリスト教世界から非難されたように、
アル・カーミルもイスラム世界から非難を浴びることになる。
いずれの世界も、外交的妥協とそれによる経済的安定や平和より、
宗教的な威信の獲得と異教徒の流血による勝利を求めたからである。

イスラムの対フランクとの闘いの旗印は、当初神でもコーランでも無かったが、
この頃には、フランクの聖都奪還に対抗して目覚めたかのように、
宗教による対立と抗争の色が濃くなっていた。

だが、押さえておくべきは、フランクにも、
宗教心だけによるのではない侵略と略奪の意志があったことである。
1204年のヴェネツィアの十字軍の矛先は、
ビザンチンはコンスタンティノープルであった。
今もサン・マルコ寺院の宝とされるブロンズの馬や聖母のイコンは、
このときの戦利品である。

ビザンチン・東ローマ帝国はキリスト教国である。
そもそも十字軍の発端は、ビザンチンの要請にあったのである。
そのビザンチン帝国攻略を、ヴェネツィアは十字軍参戦の条件とし、
略奪を果たした。

宗教的な衣の下にある領土・利権争いの内実は、
信仰心篤い人々の意識の表層には登らずとも、
政治という現実を動かしていく首長の立場であれば、
フランクであれイスラムであれ、見ていたということだろう。

では十字軍は、フランクとイスラム双方に何をもたらしたのか。
興味深い考察が、終章でなされている。

イスラムは、ギリシャ・ローマの遺産をアラビア語翻訳で保持し、学んでいた。
当時の文化・科学・技術は、西より東がはるかに高かった。
この「文化の移転」が、十字軍によって、今度は東から西にもたらされた。
やがてフランクの中世は終わり、ルネッサンスを迎え、
芸術や科学技術、思想や法律、政治制度が発達していく。

だが、約二世紀にわたる西からの侵略に勝利したイスラムに、
同様の発達は起こらなかった。何故か。
これはずっと私の素朴な疑問でもあった。

著者は、十字軍はフランクには飛躍をもたらし、
一方、アラブ・イスラム文明には停滞を与えたことの理由に、
それ以前から患っていたふたつの「疾患」をあげる。

まず、9世紀以来、イスラムの指導者たちのほとんどがアラブ人ではなく、
外からやってきた外国人、即ちトルコ人であったり、
アルメニア人であったり、サラディンのようにクルド人であったこと。
これにより、イスラムの文化的な発展が阻害されてしまった、という。

もっと重要なことがある。相当数の草原の戦士たちが、アラブあるいは地中海の文明と全く結びつきがないのに、定期的にやってきて、指導階級である軍部に同化する。以来アラブは支配され、抑圧され、ばかにされ、自分の土地に住みながらよそ者になり、七世紀以来始まった自分たちの文化的開花を追求することが出来なかった。フランクがやって来たとき、彼らはすでに足元がおかしく、過去の遺産で生きることに満足していた。だから、この新たな侵略者に対し、ほとんどの面でまだ明らかに先進的であったにせよ、彼らの衰退は始まっていたのである。

 

二つ目は、「安定した法制を組み立てることが出来なかった」こと。

エルサレムでは、継承問題は概して大過なく済んでいる。王国の枢密院が王の政治を有効に監督し、聖職者は権力争いの中で公認された役割を担う。

これに対し、ムスリム国家では、このようなことが全くない。どの国も君主の死に怯えていたから、どんな跡目相続も内乱を引き起こす。相次ぐ侵略がこれら諸国の存在自体を危機に陥れたのだと、このような現象の全責任を侵略のほうに転嫁すべきなのか。それとも、アラブ自身であるとトルコあるいはモンゴルであるとを問わず、この地域を支配した人民の遊牧的血統を告発しなければならないのか。…このような複雑な問題は一刀両断で裁くことができない。しかしこの問題は、二十世紀末のアラブ世界においても、ほとんど変わらぬ用語で提起されている—ということを、この際ひと言述べておくにとどめよう。

 

この本を読んでいて、これは千年前ではなく今の話しではないのか、
と思うことが多かった。

ところで、シリアはいま国が細分化され、互いに争っている。これほど将来性のある地域はほかにあるまい。教団にとっては、そこに忍び込み、一つの町を他の町と争わせ、一人の太守をその兄弟と争わせ、・・・。

これは、1103年の、暗殺教団というシーア派秘密結社の話だ。
敵を暗殺によって倒すことを教義とするこの教団は、
ただ殺すだけではなく、大衆の面前で殺す。その目的は、
デモンストレーションにより人々に恐怖を植え付けて支配すること、
及び、実行者を、逃げ延びさせることではなく、
暗殺直後の殉教に導くことである。

— 大きな争いの後、イスラムはまたもやいくつもの領国に分かれ、
聖都エルサレムは異教徒の領土となっている。
シリアやイラクでは宗派や民族が対立し、争っている。
「フランク」もやはり自分たちの「領土」の保守拡張のため、
自国の有利になる側を支援している。
ある地域では「領主」を倒そうとしている「暗殺教団」を、
別の地域では「暗殺教団」の反乱を押さえきれない「領主」のほうを — 。
これは21世紀初頭現在の争いの図である。
なんと千年前の図に、ぴたりと重なることか。
今の「フランク」では「聖都奪還」と「領土」が、
「民主主義の擁立」と「資本主義経済」に名前を変えただけである。

著者はアラブ・イスラム世界の停滞と長く続く混乱の原因に、
外的な問題だけでなく内的な問題があることを指摘している。
それは単に、「遊牧的血統」のひと言で説明できる類のものではない。
「安定した法制を組み立てることが出来なかった」とするならば、それは何故か。
フリードリッヒ二世はメルフィ憲章を、ローマ法を学んで練り上げた。
ギリシャ・ローマの文献を翻訳し、学んでいたはずのイスラムは、
何故ギリシャやローマの政治・法制度を学ばなかったのか。
イスラムがあまりに完成された(法や政治制度を含む)宗教であったからか。
市民階層の発展を促す社会・経済システムの問題なのか。
強権が部族宗派を束ねるコミュニティーが、あまりに安定的であったからか。
あるいはもっと異なる、何らかの要素作用によるのか。
「一刀両断」に裁くような答えは、
この本が書かれてから30年を経た今も、まだ出ていないように思う。
私の素朴な疑問は、あいかわらず疑問のままである。

 

イスラムの内的な問題を指摘しながらも、著者は最後に、
こう書かずにはいられない。

恒久的に攻撃されているムスリム世界では、一種の迫害感情が生まれるのを阻止することができず、これはある種の狂信者の中では危険な強迫観念の形をとる。1981年3月、トルコ人メフメト・アリ・アージャーはローマ法王を射殺しようとしたのであったが、手紙の中で次のように述べている。<私は十字軍の総大将ヨハネ・パウロ二世を殺すことに決めた>。この個人的行為を超えて明らかになるのは、中東のアラブは西洋の中にいつも天敵を見ているということだ。このような敵に対しては、あらゆる敵対行為が、政治的、軍事的、あるいは石油戦略的であろうと、正当な報復となる。そして疑いもなく、この両世界の分裂は十字軍にさかのぼり、アラブは今日でもなお意識の底で、これを一種の強姦(レイプ)のように受けとめている。

これはトラウマともいうべきものだが、
このトラウマはおそらく、オスマントルコの崩壊後、
「フランク」が両世界大戦を経てアラブ社会を分割統治したこと、
だましうちのようにイスラエル建国に手をかし、
西欧社会がこれを認めたことによって、よみがえった。
あるいはさらに傷を深めた。
その後も、「フランク」は傷を癒すどころか、
さらに広げてしまうようなことばかりを重ねてきた。

そのことの帰結としてだけではないにしても、残念ながら、
今現在のアラブ・イスラム世界は、この本が書かれた1983年よりずっと、
十字軍の時代に近いように見える。

 

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