塩野七生/著 新潮社 2013.12.20
いつか書くんじゃないだろうかと、思っていた。
フリードリッヒ二世という中世のルネッサンス人は、知れば知るほど、
七生好みといってもよい魅力的な、傑出した男だからだ。
ゆえに、これまでも様々な著作に登場してきてはいた。
前作の、『十字軍物語』で第六次十字軍を読んだときには、
フリードリッヒ二世だけに焦点をあてた一作がないのが、
不思議に思えるほどだった。
だから続いてフリードリッヒで上・下二巻が刊行されたとき、
やっぱりね、と思ったのだ。
それでも、上巻冒頭の、読者に、を読んで驚いた。
45年前、処女作「ルネッサンスの女たち」を出した直後に、
これから書いていきたい人物として、
フリードリッヒの名をあげていた、とある。
ということは、塩野さんは、チェーザレ・ボルジアより前、
カエサルよりずっと前から、フリードリッヒ二世に「目をつけて」いたのだ。
フリードリッヒ二世は、確かにカエサルを思い起こさせる指導者だ。
国家運営に対する開明的で明晰で合理的な構想力とか、
持続する意思とその実現遂行能力のずば抜けた高さとか、
わけ隔てのない能力主義者で、既成の概念に捉われずに人材を活用し、
またそれらの人々から支持され、慕われたこととか、
たくさんの女を愛し、そして愛されたこととか。
本人はローマ帝国初代皇帝であるアウグストゥスにあこがれていた、とあるが、それまでの価値基準を超えていくフロンティア性において、ローマ帝国の設計図を描き、進むべき道筋を明確に示したカエサルに匹敵する、と思う。ただしローマの帝政は、カエサル一人の力だけでなく、カエサルの養子アウグストゥス(塩野七生をして史上最適の後継者指名と言わしめた)の力によって、盤石のものとなった。
フリードリッヒ二世は、14歳で勝手に成人宣言をやってのけたときから40年以上、一人でカエサルとアウグストゥスと、二人分の仕事をしなければならなかったのだ。
フリードリッヒはローマ法を学び、キリストの、「神のものは神に、カエサル(皇帝)のものはカエサルに」を中世に再構築しようとした。人間の法による統治国家を目指したのだ。「メルフィ憲章」は俗語であるイタリア語で記され、誰にでも読めるようにと配慮された(塩野さんはその後のイタリア語とイタリア語文学の成熟にもフリードリッヒの功績を上げている)。
ただし、一人の肉体、一人の生には限りがある。
カエサルとアウグストゥスが長く続く帝国の礎を、たとえ凡愚な指導者の下でも崩れないように設計構築できたようには、フリードリッヒは、イタリア半島とその北のドイツをまとめ上げ、それを持続させることは出来なかった。
宗教の時代であったこと、その第一人者を敵にまわしたこと
困難の第一は、なんといっても、カエサルが相手にしたのが元老院という世俗の既得権益保持集団であったのに対し、フリードリッヒが終生かけて闘ったのが、世俗の価値観を超えたところに立つキリスト教ローマ法王であったことだろう。
しかも法王は、フリードリッヒが父から継承権を得たイタリアの北の神聖ローマ帝国と、母から与えられた南イタリアシチリア王国の間に、法王領を持つ。世俗の利害と宗教による全的な支配権を守り抜こうとする代々の法王の、死に物狂いの闘争心はすさまじい。中世キリスト教世界では、この「神の代理人」と真正面から武力対決し、一気に権力構造の転覆を図るのは不可能なことであったし、フリードリッヒもそれを望んだのではなかった。
第二は、たとえ法律を誰でも読める言葉で書いたとしても、そこにこめられた法治国家の精神を、深く、広く、浸透させることができなかった、ということだろう。
その法治国家の根幹である政教分離は、分離を果たした人間には至極当然のものだし、誰でもその理を簡単に理解できると思うかもしれないが、神(及びその代理人及び教会)が絶対、できた人々には、理路や合理をいくら説かれても、そう簡単に呑み込めるものではない。
側近中の側近であるシチリアの大司教ベラルドは、聖職者であるにもかかわらず、フリードリッヒと同様、法王から「破門」されても平然としていたが、このような心性は、フリードリッヒを頂点とする帝国と王国の、どのあたりにまでいきわたっていたのか。
フリードリッヒはナポリ大学を宗教から切り離した学ぶ場として、有能な官僚を育てる場として、創設した。医学にはサレルノ大学をあてた。また才能ある若者を出自にかかわらず登用し、身近でエリート教育も行った。文芸も科学も奨励した。改革を目指す場合(だけではないけれど)いずれも重要な施策である。けれども、これらの教育啓蒙活動がその時代の国民の血となり肉となるほどにいきわたるのも、そう簡単なことではない。
それでも存命中に、理想はほぼ完成形をとりつつあった。法王はローマから逃げ出し、法王のバックアップで抵抗を続けていた北イタリアのロンバルディア同盟も切り崩し、押さえつけることに成功していた。ただしそれは、フリードリッヒというカリスマの力によって、であった。
フリードリッヒが目指す安定継続的な法治国家は、中世においては未だ、フリードリッヒのような強力な統治力を持つ君主の下でしか、機能しなかったのである。ということは、安定はひとえに君主の強力なパワーに依り、継続は同等かそれ以上のパワーを持つ君主が、権力の空白なく君臨し続けることにかかっている。この矛盾と限界を超えてフリードリッヒの精神が根を張り、花開くには、時間に加えてまだ大きな何かが足りなかった。
ただしその精神は、近代国家にたどり着く前に、200-250年後のフィレンツェで大輪の花を咲かせる。
その話しの前に、塩野さんがこの本であまり触れていない、神聖ローマ帝国というものについて、少し考えてみた(参考/『神聖ローマ帝国』菊地良生 講談社新書 2003.7.20)。
(神聖)ローマ帝国という幻想あるいはくびき
ふと、フリードリッヒが受け継いだのが、南イタリアのノルマン・シチリア王国だけであったらどうだろうと、思った。何故なら、現ドイツとなる神聖ローマ帝国と南イタリアの間には、アルプスという自然要塞だけでなく、法王領と北イタリアの自治都市(同盟)という敵地が横たわっていて、行き来するだけでも大変な困難を伴ったからだ。また、シチリアで育ち、プーリアを愛したフリードリッヒも、必要のある時にしか南イタリアを離れない。彼が本拠としたのは、あくまでシチリア王国であった。
だいたい神聖ローマ帝国というのが、よくわからない呼称である。西ローマ帝国は5世紀に滅びてしまい、ヨーロッパはゲルマン系の諸部族に分割統治されたり、それらが東ローマ(ビザンチン)帝国に取り戻されたり、イスラムに占領された南イタリアがあったり、ヴェネツィアや北イタリアには共和国や自治都市が存続していたりで、かつてのローマ帝国に匹敵するような世界帝国は、(現在に至るまで)出現していないのだ。
あったのは、古代ローマを継ぐのは自分たちだという自負、あるいは願望か。だが、何よりもまず、中世という混乱期に皇帝の承認権という形で、地上の権威と権力を最大のものにしたキリスト教法王の勝利を、あげなければならない。混乱ゆえの宗教の時代であればこそ、法王のお墨付き=正統性は、権力の保持にも大いに益はあった。ただし、この神聖ローマ帝国は、ドイツの封建諸侯を束ねたものでしかない。それがローマ帝国を名のる以上、どこよりもイタリアが領域に入っていなければおさまりが悪い、ということはあっただろう。
フリードリッヒの困難の際たるものは、この神聖ローマ帝国と南イタリアを、気候風土も政治文化も人々のメンタリティーも、何もかもが異なる遠く離れた地域を、一つの理念のもとに統一帝国とすること、だったのではないか。共和制から帝政への移行を図るカエサルにもアウグストゥスにも、国の統一はすでになされていた。フリードリッヒは一人で二人分の仕事どころか、統一と改革という2つの大事を同時並行でやるしかなかったのだ。
神聖ローマ帝国皇帝位は、ドイツ諸侯による選任と、前皇帝の反旗によって法王が考えを変えたことにより、フリードリッヒに与えられた。シチリア王国の王位を一旦は捨てて(生まれたばかりの息子に与えて、つまり捨てるふりをして)皇帝となる。だが、順序は逆で、シチリア王が皇帝位も欲しがった、ではなく、皇帝となってもシチリア王国を手放すつもりはなかった、ということだろう。
いずれにしろ、シチリア王だけであることは、フリードリッヒの出自からも、時代の要請から言っても、あり得なかった。彼にはこの選択しかなかったのだ。だが、それでも…と、私は考えてしまう。
もしフリードリッヒが、父王たちが残したシチリアを、アウグストゥスがカエサルから受け継いだように受け継いだ後、王の空白によって乱れていた国の立て直しと、その発展にのみ力を注いでいたら、と。
それだけ、ノルマン・シチリア王国が、失われるに惜しい国に思えるのだ。キリスト教徒の王の下、ギリシャやイスラムの宰相や官吏機構が機能していた国、頑迷な宗教支配から自由であろうとした国、経済的にも文化芸術的にも豊かであった国、進んだ東方世界との交易・交流で最先端であった国は、もしかしたらその後も、ヨーロッパの辺境ではなく中心として、力を持ち得たのではないか。もし、ルネッサンスを超えて、近代にも通じる構想力を持った君主が、もう少し多くの力を、もう少し長く注ぐことが出来たなら。
彼の後継者たちは、それぞれの奮闘にもかかわらず、神聖ローマ帝国との統一だけでなく、シチリア王国すら守れずに終わった。確かに交易はジェノバやピサやヴェネツィアや、さらにはスペインやポルトガルの時代になる。手工業も商業も、北で発展していく。しかしシチリアの凋落は、フリードリッヒの死によって勢力を盛り返した法王の肝いりによって、シチリアを制覇したフランスアンジュー家と、それをナポリに追いやり、占領国家を築くスペインアラゴン家の下で進むのである。開明的であった異民族、異宗教、異文化の共存は失われ、それによって潤っていた経済も低迷し、シチリアは収奪されるだけの大地となる。
塩野さんが、フリードリッヒ以前のノルマン・シチリア王国について簡単にしか書いていないのは、だから少し残念だ。それで私は棚の奥から、『中世シチリア王国』(高山博/著、講談社現代新書)を引っ張り出して、再度読んでみたりした。
中世のなかのルネッサンス
中世という時代は、私にとって、古代ローマとルネッサンスの間の、イマイチよくわからない時代で、言及の軸(すなわち政治的な軸)が北ヨーロッパに移っていったこともあり、とくにイタリアの中世は非常にぼんやりとしたままであった。諸勢力は複雑に入り組んでいるし、法王派と皇帝派の叙任権闘争というのも、単なる権力闘争とその結果の勢力図としてしか、頭に入ってこなかった。
『海の都の物語』には中世とルネッサンスが書かれているけれど、あれはヴェネツィア共和国という特殊な一千年の歴史として読んでしまった。
『ローマ亡き後の地中海世界』と『十字軍物語』で、やっと中世イタリアの輪郭が見えた気がした。けれども、中世が地中海をはさんでイスラム世界と対峙した世紀だった、というのはわかるものの、舞台は地中海沿岸と聖都イスラエルの奪還をめざす中東であったために、イタリア半島の全体はどうだったのかが、これまたはっきりしないままであった。
塩野さんはフリードリッヒのこの本を、中世モノの「真打ち」と定義している。もちろん、彼が生きた13世紀前半でもって、中世の全体が見えるようになるわけではない。けれども、中世末期にこのような指導者が生まれたこと、生み出す力が中世にあったこと。それが、ぼんやりとしていた私の中世の一角に火を灯してくれたことは確かだ。そしてこの輝きが、遠いルネッサンスを照らし出す、ということも。
フリードリッヒ二世が生まれる前から、シチリアは、キリスト教徒に加えて東方ビザンチンのギリシャ正教徒だけでなく、アラブ・イスラム教徒も暮らすコスモポリタンな世界であった。正しくは混住ではなく、それぞれの居住区があったらしいが、三つの文化技術芸術は混淆し、その粋は、パレルモのカテドラルやいくつか教会を見て歩くだけでもよくわかる。ラテン・キリスト教の教会が、内部はビザンチンの黄金のモザイクで飾られ、イスラムのモスクのようなドームをいただき、アラブ邸宅風の回廊や庭園を持っているのだ。
今では12世紀ルネッサンスと呼ばれる、非中世というか、脱中世的な世界は、シチリアだけでなく、スペインやヴェネツィア共和国にも見ることができるという。スペインにはアラブ・イスラムの国があり、ヴェネツィアはアラブ・イスラムとの交易による開かれた都市国家であった。
当時はヨーロッパよりは格段に進んだ文化を持っていたイスラムの人々から、シチリア王国はすでに、灌漑技術やオレンジの栽培など、多くのものを取り入れていた。農業生産も、交易による商業活動も、技術に加えて芸術も発達した国で、フリードリッヒはあらゆる知識を吸収して育つのである。彼はラテン語にギリシャ語、イタリア語にドイツ語やフランス語、そしてアラビア語をも話すマルチリンガルになる。
ローマが滅びた後、古代の彫刻は破壊され、壮麗な宮殿も神殿も、巨大な劇場や浴場も、建築資材として切り崩され、持ち去られ、残ったものは土に埋もれていった。強固な石でさえそうなのだから、文献、即ち言語によってのみ伝えられる法や思想・哲学が失われるのは、さらにたやすい。しかしそれらは、イスラム世界にアラビア語翻訳という形で残されていた(9世紀のバグダッド、アッバース朝カリフによって、ギリシャ語の文献をアラビア語に翻訳するために「知恵の館」が設けられた、等–『中世シチリア王国』)。
代々の王たちに倣い、フリードリッヒも、アラビア語で残されていた古代の文献を、積極的にラテン語やイタリア語に翻訳させる。もし古代という教科書がこのように二重の橋渡しで残されなかったとしたら、果たしてルネッサンスはどうであっただろう。
ルネッサンスは、イスラムという一神教世界が、古代ギリシャ・ローマという多神教の文化文物を保護保存したことと、それらの遺産を、イスラムとの摩擦と戦いではなく、イスラムとの共存によって受け継いだ国々があったことと無縁ではない。フリードリッヒもまた、大きなものを残した。先端的な東方世界の英知と古代の理念を合体させた法律や、城や、書物として。また、終生キリスト教絶対主義と闘う姿も、歴史に刻印された(たとえその後のキリスト教社会で過小評価されたとしても)。
フリードリッヒによる第六次十字軍も、彼の残した成果のひとつである。フリードリッヒが無血外交でエルサレムを奪還した十字軍遠征は、自らアラビア語で交渉に臨み、イスラムのトップと友人とも言える信頼関係を築く、知の人の勝利であった。これは、十字軍という「聖戦」史のなかで異彩を放つにとどまらず、今に至るまでの、異なった宗教世界、異なった文化価値世界との共存の事例としても、その持つ意味は大きいのではないか。この部分、『十字軍物語』に詳しく書かれているため、本書では簡単に触れられているだけだ。併せて読むとさらにわくわくとした気持ちになる。
ヨーロッパがルネッサンスを経て政教分離社会を獲得できたことに、今もまだ政教の分離と一致に政治が揺れているイスラム社会が大きな役割を果たしたという歴史の連関の不思議。また、フリードリッヒのキリスト教絶対主義との闘いも、法王の「アヴィニョンの捕囚」などを経て、世俗の権力との間のパワーバランスを変えていく。
今、地中海をぐるりと囲む国々の困難と共存の困難に、この歴史的な事例を重ねるてみる。すると、中世末期からのフリードリッヒ二世という輝きが、現在と未来をも照らしてくれるようにも、思えてくる。
この本には、フリードリッヒの肖像が中世的な挿絵程度しか紹介されていない。人間が神の後ろに追いやられた時代、ローマ皇帝たちのリアルな胸像や、ルネッサンスの首長たちの肖像画のようには、フリードリッヒの絵姿は残っていないという。それをわずかに伝えるのは、一枚のコインの横顔、そしてバルレッタの城(市立博物館)に残る大理石の胸像。この胸像は、ハードカバー表面に、暗闇のなかに、狭い、淡い光のように印刷されている。その像は、鼻を含む顔の一部が削り取られ、だがかえってそのことによって、今にも何かを訴えかけてくるような、一度見たら忘れられない、不思議な表情を浮かべている。
塩野さんのこの本は、数少ない皇帝の像に、姿かたちの整った一体を加えた。中世末期を「生き切った」ことによって、時代を超えて輝き続ける、皇帝フリードリッヒ二世の像として。
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