年頭から相次いで「イスラム国(IS)」に関する本が出版された。
日本では人質事件で一層注目されるようになったけれど、
それ以前からISは、今日的な日本の問題の変節点として浮上していた。
日本は今、70年の「パクスジャポニカ」を破り、
戦争が出来る国になりつつある。
いま自衛隊が派遣される可能性があるのは、中国でも北朝鮮でもなく、
アメリカが戦争を行っている地域、即ち「イスラム国」だからだ。
それゆえの、IS関連本の出版ラッシュなのだと思う。
『イスラム国とは何か』 常岡浩介・高世仁 旬報社/2015.2.11 ①
『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 内藤正典 集英社新書/2015.1.21 ②
『イスラーム 生と死と聖戦』 中田考 集英社新書/2015.2.22 ③
『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』 ロレッタ・ナポリオーニ/2015.1.10 ④
『イスラーム国の衝撃』池内恵 文春新書/2015.1.20 ⑤
『アメリカはイスラム国に勝てない』 宮田律 PHP新書/2015.1.30 ⑥
『「イスラーム国」の脅威とイラク』 吉岡明子 山尾大 編 岩波書店/2014.12.25 ⑦
集団的自衛権の行使容認が閣議決定されたとき、中東を知る多くの学者・研究者・ジャーナリストは、日本がアメリカが中東で行う戦争に巻き込まれることへの危惧を口にした。これまでアメリカの中東政策は決して正しくもなく、むしろ誤りの連続だったからだ。その中東地域と、日本は有効な外交関係を保持し続けて来た。日本が中東の戦争に介入して得るものは何もない。知る限りほぼ全ての学者・研究者・ジャーナリストは、そう語っていた。上記にあげた本は、このことだけでなく、「イスラム国」を軍事力でつぶすことは出来ない、という分析でも共通している。
①『イスラム国とは何か』は、実際に現場を見た人の話なので臨場感もあり、IS理解の入り口として興味深く読み進める。インタビュー形式でわかりやすいし、背景となる事件等も注で挿入されている。
取材はシリアとイラクにまたがるISのシリア側だけのことで、しかも一部の外国人戦闘員たちや司令官を通してのみ見えたものである。ただし、常岡さんは自身がムスリムであるし、イスラム世界を専門にしているジャーナリストなので、見える部分からの分析に説得力はある。ことに、ISがバース党とのハイブリッドであり、暴力による恐怖統治の手法がバース党とそっくりだという指摘は、私たちが抱いている、「イスラムの極端な解釈による暴力殺人宗教集団」というISのイメージに修正をせまるものだ。
ただし、これ一冊ではなかなか理解が及ばないかもしれない。何故なら、ISを知るには二つの事前知識が必要だからだ。まずはシリア・イラクとその周辺イスラム地域の、最低でもこの100年の政治状況の推移の概略である。それぞれの国が友好関係にあるのか反目しているのか、イスラムの二大宗派であるスンニ派とシーア派のどちらに属しているのか、国内での二派の割合はどうなのか、政治体制はどのようなもので、イスラエル(アメリカ・欧米)をめぐってはどういう立場を取っているのか、というようなことである。
加えて、イスラムに対する基礎的な知識が必要となる。地域の歴史や政治地図の理解もたやすいことではないけれど、これはさらに大変かもしれない。これまで私たちに与えられたイスラムについての情報やイメージを、まず捨てなければいけないからだ。これができないにしても、私たちが自明のこととしているいくつかのことが、イスラムでは違うのだ、ということだけは押さえる必要があると思う。
それは政教分離の不在(あるいは困難さ)と、国民国家を超えた「法」(宗教教義ではない)の存在だと、私は理解している。その内実を正確に掴めるわけもないけれど、とにかく、私たちが絶対として信奉している国民国家や、国(国民)が定めた法律や制度やイデオロギーとは別の「法」体系や規範があり、それらを基に生きている人たちがいる、ということは厳然とあるのである。
IS以外のイスラム圏の国は、近代領域国民国家として存在している。しかも、サウジアラビアやイランのように、イスラムをそのままを統治の柱に据えている国は少数で、ほとんどの国は西洋近代法とイスラム法の折衷で政治を行っている。けれども、全ての地域で、イスラムはなお宗教としてだけでなく、政治イデオロギーとしても存在し続けているのだ。政教分離こそ唯一の政治的に正しい在り方だという意見は、あまりに西洋近代を絶対視した見方で、とりあえず、これは絶対的なものではない、あくまで私たちが良かれと選択した制度であって、当てはまらない社会や、「良かれ」ではない社会もあるのだ、というあたりまでは頭をほぐす必要がある。
そうしてみて初めて、中東イスラム地域においては、何故イスラムが過激な政治イデオロギーになり得るのかに、アプローチできるように思う。そう、彼らは宗教的にだけ過激なのではなくて、まずは政治的に過激なのだ。
この事を踏まえてみると、ISだけでなく、あの地域の戦争(欧米の介入も含めて)が、宗教の対立でもなく、文明の衝突でもなく、政治闘争なのだということもわかってくる。部族や宗派の対立はあっても、それは宗教問題である以上に、権力闘争なのだ。私たちは政教分離と言いながら、この点で政教を分離した見方がなかなか出来ない。
この二つの前提となる基礎知識を得るのには、②『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』が良い。この本は、中東地域に欧米がどのような誤った関わり方をしてきたか、その帰結としての現況を、かみくだいて解説している。同志社大の内藤先生はムスリムではないのに、ムスリムを代弁するような著作が多い。中東地域研究者として、ムスリムでもなく、キリスト教徒でもないからこそ見えるものがある、ということだろう。ゆえに、私たち非ムスリムのイスラムに対する誤解も、具体的な例を引いて解説してくれ、まことにわかりやすい。
著者は、スカーフ問題のようなイスラムと欧米的な価値観との摩擦を、フォールドワークを通してずっと考察してきている研究者だ。『イスラムの怒り』や、『神の法 VS 人の法』など多くの著作で、欧米の移民政策のダブルスタンダードに、各国とも有効な解決策を見いだせないでいる状況と、その中で移民二世三世の怒りや絶望が飽和状態にも達している様子が活写されている。欧米からISに参加する若者たちの動機をたどるのに、重要な視点を提示しているとも言える。
また内藤氏は、NATOの一員でもあり、対IS有志連合に参加しながらも、国内の空軍基地の使用をアメリカに許さず、巧みな外交で欧米と渡り合っているトルコを日本は参考にすべきだ、という。そういえば後藤さんと湯川さんの解放交渉でも、内藤氏は最初から一貫して、日本はトルコに協力をあおぐべきだと主張していた。唯一中東地域で植民地化されず、自力で世俗近代化を遂げたトルコを専門としているだけに、その言説には説得力がある。
ISがこれまでの「イスラム過激派」と一線を画すほどの脅威であるのは、その暴力性ゆえにではない。けれども、ISの脅威ではその暴力ばかりが強調される。例えば、「邪悪」「残忍」「残虐」「卑劣」「血みどろの手」「悪魔」などと。これらの言葉が並ぶと、まるで安物のアクセサリーで飾り立てられたキッチュな見世物のようだ。だがこれらの言葉は、実際に一つの記事にちりばめらたものだ。(日経 2/6)。これらの言葉の羅列に「鬼畜米英」という言葉で戦意を鼓舞したかつての日本の姿が重なって見える。
ISは実際に斬首映像などをプロパガンダに用いているし、恐怖支配による統治をおこなっているのも確かだ。それが非道であることは言うまでもない。けれども、ISの本当の脅威は、これまでアルカイダといえども理念でしか提唱していなかった「カリフ国」を、実際に樹立したことなのだ。このことの重要性が、日本ではあまり報道されていないような気がする。カリフ制というと私たちの感覚や概念を超えてしまい、荒唐無稽で時代錯誤な狂信のように思えるからかもしれない。この点については、内藤氏の本にもきちんと解説されているけれど、ムスリムとしてはどのように見ているのかが知りたい。それには③『イスラーム 聖と死と聖戦』が答えてくれる。
中田孝氏はイスラム法学の専門家で、自身もイスラム教徒としてカリフ制再興を提唱していた。『一神教と国家』では、「制度疲労を起こしている」(内田樹)民主主義を問い返す視点としてのカリフ制について、内田樹と対談している。この対談の時点でのカリフ制再興は、国境を超えていく真のグローバリズムとしての壮大な構想ではあったが、領域国民国家が国際秩序を成す今日の世界では、アナーキーなユートピア志向であり、現実的にはオルタナティブな政治イデオロギーとして、EUのようなゆるやかな経済圏の統合のようなかたちで想起できるに過ぎなかった。それがわずかの時間の後に、不完全であるにしてもカリフ制国家が宣言されてしまったのだ(たとえ国際秩序が国家と認めないにしても)。
日本では人質事件以来、ISを「イスラム国」と呼ぶべきではない、という人たちがいる。そこには、政府がISILに統一したのだから国民は全員それに倣うべきだ、「イスラム国」と呼ぶのはIS支持だ、とする、まるで「人質救出失敗の政権批判はIS支持」と同様のむちゃくちゃな同調圧力があって、それには到底同意できなかった。
これとは別に、ムスリムの人たちからの、「イスラム国」はイスラムを代表していない、イスラムは暴力的だというイメージを抱かれるのは苦痛である、だから蔑称としてのダーイッシュと呼んでほしい、という声がある。イスラムは平和的な宗教だ、だから「イスラム国」はイスラムではない、と言いたい気持ちはわかる。イスラムフォビア(嫌悪・差別)は、何かある度に確実に高まる。ごく普通の平和的な市民であるムスリムたちは、ISの暴力や過激派のテロ行為による、もう一人の、長期にわたって甚大な被害を被る被害者だとも言える。
でも、このようなイスラムフォビアは、「イスラム国」と呼ばないことで終息するのだろうか。誤った悪化したイメージは正されるのだろうか。むしろ問題を覆い隠すようなことはないだろうか。相手をどう呼ぶかは、相手をどう規定するかということだ。本人が名乗る名前以外を、ことに蔑称や「単なるテロリスト」と呼びつけることは、問答無用なレッテル貼りであることを忘れるべきではない。ISにレッテルを貼って叩き潰せば、それでイスラム世界は平和になると、本気でムスリムの人たちも考えているのだろうかと、私は思うのである。
ムスリムの人たちに訊きたい。中東からアフリカに至るイスラム世界は、どうすれば平和になるのだろう。今噴出している暴力の原因は何なのだろう。どうすればそれを取り除けるのだろう。何故、「アラブの春」は暗転してしまったのだろう。ISが誕生する厳然たる背景と経緯があり、そこに外的な要因と内的な要因がある。それらの要因にイスラムは本当に無関係なのだろうか、と。
④『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』は、ISを「単なる過激派集団ではなく、グローバリゼーションと最新のテクノロジーによって成長した『国家』だと指摘(池上彰による解説)」している。著者の、「イスラム国はイスラムスンニ派にとってのイスラエル建国をめざしている」という分析をムスリムの人たちはどう捉えるのだろう。もし、「イスラム国」がイスラエルのように、外部には暴力は用いるけれども、国内に関してはイスラエルの対ユダヤ人統治並みの平穏さをもってしするとしたら、それは許容されるのだろうか。
イスラム政治思想を専門とする池内恵氏は⑤『イスラーム国の衝撃』で、「…下火になった左翼イデオロギーとも、日本のローカルなカルトであるオウム真理教のような新興宗教とも異なり、グローバル・ジハードの思想は、世界宗教の教義の一部を援用した、ある種の『グローバル・スタンダード』である。そのため、より長期的に持続するだろうし、カルトと論難して弾圧すれば、広い範囲のイスラーム教徒から反発を招きかねない」と見るが、これにムスリムの人たちは同意するのか。
中田氏は上記の著書で、ISをめぐる解決のひとつの方向を提示している。軍事力によって平和を得られないとしたら、これしかない、という方向である。ただし、現実的には無理だろうという気がする。それは、国際社会がカリフ制をどう考えるか、どのような形であれば容認・共存できるのかというような議論のたてかたを、少なくとも国民国家を主体としては出来ないだろうからだ。けれども、ムスリム一個人としてはどうだろう。「グローバル・ジハード」が「ある種の『グローバル・スタンダード』」であるのなら、それを超えていく『グローバル・スタンダード』が、イスラム自身によって模索される必要があるのではないか。
ISの登場で、あらためて、中東の紛争は「中東問題」というようなものはなくて、それは「中東における欧米(と言うことは世界の)問題」なのだ、ということが明らかになった。ISが提示してみせた「カリフ制」国家という一つの解、あるいは案は、欧米各国の国内問題にもリンケージして立ち現れてもいる。リンケージということでは、近代国民国家たる世界のイスラム国家57か国は、さらに恐怖しているであろう。その解や案を軍事力でつぶせないとしたら、対話と共存と平和をめぐって、ISはムスリムの人たちにとってこそ、大きな変節点であろう。
ISは周辺の大国サウジアラビア、イラン、トルコ等にとってより深刻な問題であり、よって表だった関与もそうでない関与も成されている。その周辺国の事情について押さえるには⑥⑦がお勧め。
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