★違和感のイタリア 人文学的観察記
八木宏美 新曜社 2008.9
去年の11月に読んだエッセイ。
下書きリストの中から、これだけはお蔵入りさせたくないという一冊。
長くイタリアの大学で教えている著者ならではの観察で、
やはり印象深かったのは教育の話。
おりしも日本では教科書検定強化(政府見解の記載を強制)が出てきているし、
(追記/教育制度改編の動きは、3月の関連法案提出が具体的となってきた。1/30)
それと対比させると非常に興味深い内容なのだ。
ある高校では、ファシズムについては網羅的に64の解釈を教えていた。まず社会党のマッテオッティ殺害事件までの、ファシズム台頭期の解釈として、社会党系の階級闘争的解釈、ブルジョワ自由党系の解釈、カトリック人民党系の解釈、アナーキー派の解釈、共産党理論家グラムシの解釈、国際共産党の解釈、共産党党首トリアッティの解釈、そしてファシズム内部の認識、ファシズムの対外的PR、当時の一般の世論、新聞の論調をあげ、次にファシズムの最盛期の同様の様々な政治的立場の解釈に加え、アメリカのジャーナリズム、イギリスのジャーナリズム、フランスジャーナリズム、ドイツジャーナリズムの視点、アメリカの学者、イギリスの学者、フランスの学者、ドイツの学者などの代表的解釈をあげ、戦争中の解釈、ムッソリーニ失脚後の論調の変化、戦争直後の解釈、50年代の解釈、60年代の解釈、80年代の研究、90年代の研究、現代の最新の研究、さらにファシズム時代の亡命者の解釈など特定グループの解釈から、特別の切り口のもの、例えば、ジグムンド・フロイドの影響を受けた心理社会学的視点の解釈(第一次大戦が多くの権威を破壊し自由へのあこがれを生み出し、ファシズムは、集団的な自由への願望と恐れのリアクションで、平均的人間の本性[サディズム、残忍さ]が表面に現れ、絶対権力への服従[マゾ]の形態をとった)とするものまで、常識的なものから、イデオロギー理論に当てはめたもの、特権階級の反動だとするもの、スターリンとムッソリーニを同列で論じるもの、ムッソリーニ個人の産物だったとするもの、イタリア独立戦争リソルジメントの中産階級台頭の続きであると位置づけるもの、資本主義の末期症状だと位置づけるもの、詳細な原典資料とともにありとあらゆる説を教えている。
これは単なる一例に過ぎないが、この高校に限らずイタリアでは絶対に一通りの説明で終わらせず、立場によるいろいろな見方、いろいろな解釈を教えるのが基本である。立場が違えば見方が違うのが当たり前だという前提に立つから、絶対にありえないのが、”歴史認識の一本化を図る”という発想だ。レジスタンスの盛んだった地域には必ず、地域レジスタンス研究会があるが、そういうサイトを覗いてみても感心するのは、まったく反対の意見のサイトのリンクを張っているの見かけることである。
興味深いどころか、感動すら覚える。
一つの解釈を押し付けるのではなく様々な論を併記し、
それらを学ぶ者に比較検討させ、自らの意見を練り上げることを課す。
高校生の知力・能力をここまで信頼していること。
イタリアでは、この積み重ね、この思考訓練の上に大学がある。
かたや日本の高校教科書はどうか。
教科書検定制度をめぐっては、自民党教育再生実行本部の特別部会が(2013年)6月に「多くの教科書は自虐史観に立つなど問題となる記述が存在する」と指摘。歴史問題を確定的に記述しないことなどを求めた中間まとめを安倍晋三首相に提出していた。
自民党の中間まとめに従い、同省は(1)通説的な見解がない場合、特定の事柄や見解だけを強調せず、バランスよく記述する(2)政府の統一見解や確定判決がある場合、それらに基づいた記述を取り上げる-などの見直しを検討した結果、新たに盛り込む方針を固めた。
同省は教科書検定基準の見直しについて「検討作業中で明らかにできない」としているが、改定されれば、沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)のほか、南京事件や従軍慰安婦問題などに関する記述が影響を受けるとみられる。
・文科省、教科書に政府見解の記載要求 検定改定へ
(琉球新報 2013.11.13)
「特定の事柄や見解だけを強調せず、バランスよく記述する」と言うけれど、
では、世界史的に共有されている近現代史の解釈を、そこに入れ込んでいくのか。
東アジアだけでなく南アジアや欧米での解釈や原資料を、
(たとえば靖国神社成立の歴史経緯と様々な見解を)真に並列的に提示するのか。
そんなことはしないであろう。
ねらいは、「自虐史観」の修正(世界からは「歴史修正主義」と見做されている)
だけであろう。しかも政府統一見解一本にまとめること。
教育の国家統制は教科書検定制度その他ですでに進められているけれど、
それがますます強まることは確かに思える。
そもそも、「自虐史観」という一方的定義言語を政権与党が使うこと自体、
異様なことである。
この教育理念に排除されているのは、
人間は思考の果てにそれぞれの見解や生き方を組み立てるべきであり、
様々な見解や立場を持つ人どうしが認め合って社会は成り立っている、
という共通認識である。
日本の教育は、成熟し、独立した大人を育てるのではなく、
思考・判断力では子供のままに据え置くこと(しかもそれは統一されているべき)を、
目指しているようにすら思える。
これをさらに強化するのが日本の受験システムであろう。
ちなみにイタリアには大学受験はない。
高校の卒業試験に合格すれば、(普通高校の場合)大学入学の資格を得る。
この試験は選択式ではなく記述式で、最後に口頭試問がある。
学生は教師とさしで1時間(くらいだったと思う)議論をしなければいけない。
そのためには何十もの解釈を踏まえて自分の見解を構築し、
それを説得力ある弁論として展開できなければならない。
このマトゥリタ(卒業資格試験)は、人生で最大の難関と言われる。
試験に通った学生たちの喜ぶ様子をTVニュースで見たことがあるが、
それほど大きな関門なのである。
ちなみにマトゥリタとは成熟と言う意味。
つまり、つめこみの知識ではなく、自分の意見・解釈・批判を持ち、
それを自分の言葉で表現することができて初めて、
若者は大人になったとみなされるのだ。
しばらく前にOECDが調査した大人の学力テストというのがあった。
日本が24か国中トップでイタリアは23位だった。
・OECD 成人学力調査国際比較ランキング表
この順位に、そうだろうな、と思った。
日本の教育はああいう「大人」の能力を高めるに優れてはいるよな、と。
でも、それで喜んでいていいのだろうか。
大きな力が、力に任せてごりごりと動いている今の日本で、
この国に決定的に欠けているものが、
欠けているがゆえに私たちを連れていく恐ろしい場所が、
あるように思えてならない。
★1/30日追記
安倍政権が、今でさえ右傾化と国家統制色が色濃い教育現場を、さらに完璧に陥落しようとしている。「道徳教育」の強化、日本の近代史の修正…。
スポンジのように柔らかな若者の頭に、偏狭なナショナリズムが埋め込まれていく。
・教委制度見直し本格化 政治主導狙い、権限を首長に
イタリアと日本、あまりの違いにめまいすら感じる。この帰結がどう転んでいくのか、想像するに恐ろしい。
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