百年のツケは精算できるのか — イデオロギーとしてのイスラム

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シリア中部のパルミラ遺跡近郊にて 丘の上にそびえるのはアラブの城
2011年2月 シリア中部のパルミラ遺跡近郊にて

日本人が拘束され、アメリカ人ジャーナリストが斬首処刑されたことで、
いっそう「イスラム国(IS)」が注目されている。
24日のBS朝日「いま世界は」の特集で、
シリアとイラクをまたいだIS建国宣言の遠因として、
サイクス・ピコ協定(第一次世界大戦時の英米露による中東分断統治密約)
が解説されていた。
ISの主張は、100年前のこの不当な国境線を廃し、
分断されていた地域をカリフ制によって統一国家とすることである。
一国内の内戦をすでに超えているISの動きの背景について、
マスコミがお茶の間に伝えるのを初めて見たように思う。

ここで多くの人は、では彼らの統一理念となるカリフ制とは何だろう、
という疑問を抱くはずだ。
が、番組ではこの点については一切語られなかった。

カリフ制を説くにはイスラム法についても触れなければならず、そう簡単ではない。そこまでマスコミに求めるのは無理だという意見もあろうけれど、イスラムに対しては、そもそもそういうアプローチが存在しないのではないか。

日本(だけではないだろう)のマスコミに、9.11以降、アルカイダやタリバンの名は数多く登ったけれど、単にイスラム過激派、イスラムテロ組織、またはイスラム原理主義組織等の呼称が併せられるのみで、その主張や行動指針にかかるイスラムについて、噛み砕いた解説を見たことはなかったように思う。

かくして日本人は欧米視点フィルター越しの彼らの成した行為を知るだけで、その行為がどのようなイデオロギーや思考の果てに成されたのかに思い至ることが(自らをふりかえっても)出来ないできた。

これは意図的にイスラムを排しているというよりも、行為の背景や歴史経緯のようなものを説いたあとは(今回のサイクス・ピコ協定のように)、全ての行為は民主主義の法制度や人権・人道イデオロギーの枠組みの中で語ることが不文律となっているからだ。また、イスラムはキリスト教や仏教と同じ単なる宗教としてしか認識されておらず、政治イデオロギーや法制度として認められていない(生活規範としては多少認知されている)、ということもある。

ISの行為の漏れ出てくる断片は、私たちの理解の枠組みを大きく外れている。外れているものについてはとりあえず思考を棚上げするか、あるいは枠にあてはまらないので全否定する、という対応がある。でも、こんなことをしていていいのだろうか、というのが、最近の私の率直な思いである(日本でハラール認証ビジネスなる動きが出てきている点からも)。

かつて世界が西と東に別れて争っていたころ、私たちは西側にいても、東側のイデオロギーを(もう少しは)知っていた。オルタナティブな政治社会イデオロギーとしての一般的な評価すらあった。共感するにしろ反対するにしろ、自分なりの評価を下せる程度の知識を持っていたように思う。であればせめてイスラムに対しても、西欧民主主義とは異なる価値観で生きている人々がいて、その価値観の下に共同体を成し、西欧型の国民国家に今大きな疑問符を突きつけているのだ、という認識ぐらいは持つべきではないのか。

異なる価値観として認めて初めて、そう昔のことではない歴史体験のなかに、異なる価値観による社会や国家の在り方を力ずくで変えさせることは出来なかったケースを、思い出すことが出来る。だが、ベトナムの帰結として明らかであるこの教訓は、アフガニスタンでも、イラクでも顧みられることはなかった。

今また、シリアとイラクにまたがって国家たろうとする動きに対し、周辺国や欧米の、それぞれの利害や思惑によっての軍事介入が予想されるようになってきた。すでに様々な形で地域的に介入していたのが、今や対ISということで共闘し、公に戦端を開きかねないような状況である。
アメリカはイラクの空爆をシリアにも拡大することをほのめかし始めたし、エジプトやサウジアラビア、カタール、UAE、ヨルダンが、シリア問題解決を外相会議で話し合ったとも聞く。

これらの、オスマン帝国の解体によって成立し、その後それなりに安定している国々は、(程度の差はあれ)イスラムを国家運営に適用しながらも、自分たちの国を超えるイスラム共同体には反対である。当面IS国がシリアとイラクの一部に限られるとしても、イスラムのより正統的な(カリフ制という一点だけでも)理念による国家の自らに及ぼす影響を恐れているからだ。彼らはこの点において米欧と利害を一致する。

しかし、シリアにおいてISの伸長に抗することは、アサド政権を利することでもある。当のアサドも、反IS共闘を欧米に呼びかけているという(アラブ外相会談もアサドも、自分たちのイニシアティブを求めた上ではあるが)。今までの敵同士(米欧とアサド政権・イラン、イランとイスラエル、イスラエルと周辺アラブ国、イランとスンニ派アラブ諸国等)が新たな敵の出現に共闘するという中世的な図式が出てきた。

ここには、100年前のサイクス・ピコ協定に立ち返って問題を組み立てなおそうとする視点もなく、かつてのイデオロギー的対決には存在していた理念もない。せいぜいが、(自分たちの国の安定と利害を守るために必要な)紛争の終結を目指す、といったものであり、その紛争の原因となった問題の解決になど関心はない。

中東の悲劇は、両大戦後の問題が固定的に、しかも分断的に引き継がれたこと、それらの問題は独裁的な権力によって蓋をされていただけであって(親欧米であれば独裁は容認された)、その力が弱まるとたちまち噴出してくることにある。噴出した場合の周辺国と欧米の軍事介入は、本質的な問題解決どころか、人びとの暮らしやコミュニティーを破壊し、更なる混迷を招き、怨念を増殖させるだけだ。ここにまた、次の紛争の種が撒かれ、芽を出す。

こうして見ると、(理念を装った建前を脇に置けば)なんでもありのような欧米と親欧米アラブ諸国に比して、一人正当で正統な理念をかかげているのはむしろISではないのか、とも思えてくる。その時、彼らの理解の枠を超えた行為を糾弾するのにも、政治イデオロギーとしてのイスラムやイスラム法の知識や理解が必要になってくる。たとえば、彼らの「酷薄な厳罰主義」(中田考)は真にイスラム法に則っているのか、というような問いかけである。これらの知識がないと、ISはただの野蛮な殺人狂集団であるというような感情的な忌避感にしか達することができず、それはまた、本質的な問題に向き合う回路を遮断する。

IS国の処刑は許容できない。もちろんである。とすれば、イスラエルのガザ攻撃に対しても同様の姿勢で臨むべきであろう。今回のガザ攻撃に関しては、ユダヤ人の間からも、ホロコーストを生き延びた者として、ナチの民族浄化と同じ理論でパレスチナを攻撃するのは許容できない、それは正しいユダヤ教の教えでもない、という声があがっている。このような、行為の不当性を、その支柱となっている論理や理念そのものにおいて批判することが必要だろう。

このことが急務であると思うのにはもう一つ、ISへの外国人参戦者の増加もある。今やISの戦闘員5万人に対し、外国人は2万人であるという。多くは中東からの移民二世三世だろうと言われている。彼らは、民主主義国家が掲げる高邁な理念である自由・平等・博愛も人権尊重も、自分たちには適用されないというダブルスタンダードを身をもって体験し、怒りと絶望の結果イスラム回帰に至った人々だと言える。

欧米諸国が彼らの帰国を恐れて力で叩きつぶそうとしても、彼らの怒りや絶望を消滅させることはできないだろう。何故彼らが「イスラム国」に惹かれるのか、自らの国のありようを振り返ってみることなしに、真の問題解決はない。恐怖と嫌悪による排除では、彼らのイスラムは一層急進化するだけだろう。

イスラムはもはや、異なる価値観や宗教として全否定して叩き潰せるものではない。日常生活の行動規範を伴う特殊な宗教というだけでもない。1400年を通じて鍛え上げあげられてきた、強固な政治イデオロギーであり、法・政治制度でもある(ということが少しわかってきた)。今、それを認めるところに来ているように思う。理解の及ばない部分、理解を超える部分はある。けれども、理解できない部分を(互いに)抱えていくのをあたりまえのこととして引き受け、多元的な寛容を掲げ、包摂し、相手にもそれを求めていくしか、私たちに共存の道はないように思う。

けれども、現実を見ると、私の書いていることはあまりにナイーブだと思えてくる。ムスリム内部からの、IS国の行為をイスラム的に批判する人たちの声も、領域国民国家としての利害から発せられているような気がしてしまうし、米欧においては、そのようなアプローチの気配すら感じられない。

参考

ISに対抗し、宗教者が結集へ – 長谷川 良(アゴラ)(BLOGOS 8/27)
溶解始まる中東の秩序 (日本経済新聞 8/24)
国際社会とイスラム国(その2) – 水口章:国際・社会の未来へのまなざし –(8/23)
集英社新書『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-語録』書評 / 中田考「シリア、イラクで戦う相楽左之助」 
時事ドットコム:イスラム国「かつてない脅威」=対処にあらゆる選択肢−米国防長官 (8/22)
ドイツ・イタリア、イラクのクルド部隊に武器供与用意 | Reuters(8/20)
あらためて、カリフ制って何 ? (Provai.ciao 7/9)

 追記 8/30

参考にあげた『ISに対抗し、宗教者が結集へ 』をもう一度読んでみた。
イスラム教内で「あれ(IS)はイスラム教とは関係がない」という怒りの声が上がって”おり、”キリスト教関係者からは「宗教の名を使ったテロ組織に過ぎない」”、”「少数宗派の信者や異教徒を虐殺するISに対して、宗教界はISに対抗する国際戦線を構築すべきだ」という要望が聞かれ出した”、との内容である。

KAICIID(サウジアラビアの提唱で設立された「宗教・文化対話促進の国際センター」本部はウィーン)のクラウディア・バンディオン・オルトナー副事務局長は22日、「ISの非情な虐殺 暴虐をもはや傍観することができない。イスラム教指導者もISに対して明確に批判している。ISは蛮行をカムフラージュするために宗教を利用しているだけだ」と指摘し、「KAICIIDは近いうちに対IS決起国際集会を開催する」と発表した。ISに対抗するため、宗教者が総結集するというわけだ。

サウジアラビアのスンニ派の大ムフティー(イスラム宗教指導者の最高位)は先日過激なイスラム集団に対して「イスラム教スンニ派の教えと全く一致しない」と、ISに対して明確に距離を置く発言をしている。一方、世界最大キリスト教会のローマカトリック教会フランシスコ法王は18日、訪韓からローマへ戻る機内の記者会見で、イラク軍と米軍がISの拠点に空爆を実施したことに対し、「ISに対する国際社会の戦闘は合法的だ」と述べ、バチカンとしては珍しく武力行使容認とも受け取れる発言をしているほどだ。

宗派、教派の違いを超え、ISに対する批判の声が上がり、宗教者の間で連帯の動きが出てきたことはこれまで見られなかった現象だ。それだけ、ISが危険なテロ組織だということになる。21世紀のわれわれの前に、中世時代の武装集団が突然、近代的な武器を持って戦いに挑んでいる……。そのような錯覚すら覚えるほどだ。遅すぎることはない。宗教者は時を移さず、総結集し、ISに対して立ち上がるべきだ。

フランシスコ法王は、宗教対立ではなく対話を目指していたはずではなかったか。空爆の許容は、異教徒や異宗派者を処刑するISと同じ論理に堕することではないのか。これでは「十字軍」を口にしたブッシュと同じで、宗教対立構造を招きかねない。

「宗教を利用している」のはイスラエルもアメリカも同様で、ISに始まったことではないし、そもそもイスラムは政治と宗教が一体なのだから、厳格なイスラム法をかかげるISを「イスラムを利用」という言葉で批判するのは的外れである。「中世的」というのは私も感じたことだけれど、この言葉は、常々口にしている理念に平気で反した共闘戦線がISと闘う図にこそふさわしいと思う。宗教者も政治家と同じように、ISを「危険なテロ組織」と断定して思考停止して、そのうえに「立ち上げるべきだ」という言葉を聞くと、ここでもまた「十字軍」を想起してしまう。

というわけで、再読してさらに暗い気持ちになってしまった。

折しもトルコでエルドアン大統領が誕生した。これによりケマル・アタチュルクの世俗主義が終わる、とする声を聞いた。西欧型の政教分離民主主義を取り入れた成功例であったトルコで、ムスリム同胞団系のエルドアンがベール着用や飲酒制限の強化を打ち出しており、政治にイスラム色が強まる可能性がある、ということだろう。独裁長期政権を目指す改憲もささやかれている。

イスラム社会の大きな大きな課題がここにもあって、それはISをめぐる問題とも通じるものなのだと思う。エジプトの政変で再認識したのは、しっかりとした政治主体がイスラム宗教ネットワークと軍しかない、ということだった。世俗民主主義が軍事強権によって成り立つというねじれは、その背後に、イスラムの民主的な側面の未成熟を感じさせる。イスラム社会に西欧型民主主義をそのまま接ぎ木しても、必ずどこかに無理が生じるような気がするのである。

ただ、トルコは、自ら世俗主義を選択し、近代国家に生まれ変わった国だ。訪れて肌に染みるように感じたのは、東洋でもあり西洋でもある国だ、ということだった。両義性が、引き裂かれるのではなく、絶妙なバランスで混淆している国。その独自性が、中東のイスラム社会の大きな課題にどのような答えを出していくのか。

ところで思うのだが、ベール着用や飲酒は、イスラムの規範の中でそれほど重要な問題なのだろうか。軽微な逸脱であり、それほどの罪ではない、と聞いたのは、どこでだったか。神と個人の問題だから、他人がとやかく言わないのだとも聞いたことがある。モロッコでお世話になったドライバーは、自分も酒を飲むと言っていた。ただし、食事と一緒に楽しむためではなく、酔うためであると。私が一本のビールの小瓶を分け合おうとすすめたら、とてもこんな量では足りない、飲み始めるととことん酔うまで飲んでしまうから、と断った。

エジプトの若いガイドは、モスクの男女別がなぜ必要かと尋ねる私に、女性が隣にいると気になって真面目にお祈りが出来ないから、と答えた。どちらの話でも、禁忌は対象に対する欲望を抑制するのではなく、むしろ強烈にかきたてるのに役立っているのではないか。同時に、私たちがことさらこの二つの禁忌に拘る必要もないのではないか、とも思った。部外者の拘りが当人の拘りを増強するということがあると思うからだ。ヨーロッパのベール禁止にも同じことを感じる。

 追記 8/31

今日もまたISの蛮行のニュースが入ってきて暗澹たる思い。彼らの側のプロパガンダ用画像(元の行為だけでなく、ああいう画像を雑誌に掲載する感覚)も受け入れがたいし、米欧メディアの反ISネガティブ・キャンペーンにも、その真実の度合いをはかりながらも、同様の気持ちを抱く。

オバマは対IS有志連合を呼びかけている。ISと本気で戦うなら地上戦は避けられない、だがアメリカは地上戦で介入したくない。イラクでは政府軍に地上戦を任せることができるが、シリアではアサドと組むわけにもいかず、ゆえに有志連合に託す、ということらしい。有志連合としてはサウジアラビアとUAEの他に、トルコの名前が挙がっている。また、イギリスとオーストラリアがシリア空爆に加わる可能性と、9月初旬のNATOへの協力要請も報じられている。11月の大統領選中間選挙をにらんで、とのこと。
・対「イスラム国」で有志連合 米大統領が提案 (日経8/30)

少し前にヒラリー・クリントンが、昨年の化学兵器がらみでオバマがシリア空爆を断行しなかったことを、失敗だったと発言した。結果論でいえば、もしアサド政権の力を削ぐことで反政府勢力との停戦にまで持ち込めたなら、今のIS国の拡大はなかったかもしれない。だが、シリアもフセイン亡き後のイラクと同じになる可能性も大きく、そうなれば、バラバラになったコミュティー同士の紛争をかき混ぜるだけになったかもしれない。そこにISの伸長の余地はやはりある。

本当に嫌になるのは、彼女の発言も選挙がらみであることだ。強いアメリカ、人道無視と蛮行を許さないアメリカとして、他国に対しても断固たる(=戦闘)行動をとらないと票をもらえないというのは、考えたらかなり歪んだことではないか。しかもそれが、完全に非対称であること。国連の対イスラエル非人道決議には、まさに票のために拒否権を行使し続けている。

もう一つ、引っかかっていることがある。
ISの前身である「イラク・イスラーム国」は、2012年頃にはイラクでの支持を失い、ほとんど絶滅寸前だったという。息を吹き返したのは、シリアの反政府武装闘争に参加し、欧米や周辺反アサド国から武器と資金の提供を受けたからだと言われる。ISの消滅を救った国は、今、対IS有志連合を呼びかける国、呼びかけられた国に重なる。アルカイダとアメリカの関係がオーバー・ラップする。
(以前も参照した記事を再確認する。
カリフ制樹立を宣言した「イラクとシャームのイスラーム国」の過去・現在・将来髙岡豊 / 現代シリア政治

アフガニスタンでの対ソ連戦に参加したアルカイダを、アメリカは支援し、育てた。アルカイダの主義・主張を認めてのことではなかっただろう。であれば、9.11は起きなかったはずだ。あの地点から、今に至るアフガニスタン~イラク~シリア(リビアやイエメンも ?)の混乱が続いていると捉えることもできる。そして、アメリカの関与したことごとくの結果が、以前より悪い状況をもたらしているように見える。火に薪をくべ、時には油を注ぎ、それが大きくなりすぎたと言って山全体を焼いてしまおうとする。山は巨大なくすぶる熾火になる。

アメリカの占領政策が成功した国がある。日本だ。彼らは日本と日本人を非常によく研究し、天皇の戦争責任を不問に付した。不完全ではあっても、日本はそれなりの民主主義国になったし、経済発展もとげた。でもこの日本モデルは非常に特殊な例で、イスラムにはとうてい当てはまらない。なのにアメリカは、アフガニスタンで失敗したモデルをシリアで繰り返し、似たような形で二度目、三度目の失敗を招いているようにも見える。

気になるのは、現地の人々の様子が伝わってこないことだ。2011年からのシリアの死者は19万人、難民は300万人、国内避難者は500万人以上とも聞く。イラクの様子は、もっとわからない。ガザの人々の声を伝える土井敏邦さんのような報道が、シリアとイラクにも欲しい。

 

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