『止まることなく』ポール・ボウルズ

ポール・ボウルズ作品集VI

この自伝は、「止まることなく」ではなく、「語ることなく」だ、
と言わているらしい。
確かに、4-5歳から晩年までと、膨大な時間を追想しながらも、
家族や親族、友人たちとどう過ごしたのか、
あるいはどこへ行ったのか、という記述の羅列に終始し、
ボウルズ自身の内面にはほとんど触れられていない。

だが、幼い頃の自分に対する父親の描写は、この限りではない。
まるで『氷原』(『真夜中のミサ』所収の短編)そのものだ。
父親の行いは、今なら立派に虐待の範疇に入る。
ここでボウルズははっきりと、
父に対しての許しがたい憎しみを言葉にしている。

祖母は一度、ポールが赤ん坊の頃、
父親が彼を殺そうとしたことがある、と明かす。
裸にしてゆりかごに入れ、それを寒風吹き込む窓の前に置いたのだ。
あれは妻を赤ん坊に奪われたと嫉妬したんだよ、と。

幼い頃から彼は、父親の中の、
殺意にまで至る暴力の鉱脈のようなものを、
自分に向けられたものとして、自らの肉体的な記憶として、
刻み付けてきた。

けれどもその記憶の描写は、自分が受けたものとしては驚くほど冷静だ。
父の暴力は、まるで感覚のある自分の肉体にではなく、
自分とは別の肉体に振るわれたかのように書かれている。
あるいは肉体は彼から切り離され、離脱した魂が、
それを部屋の片隅から観察しているようでもある。

ポール・ボウルズが描く暴力の原点が、ここにあるように思う。
人間とは、倫理や道徳の仮面を剥ぎ取ってしまえば、
非情な暴力を平気で振るい得る存在であり、
ときにその暴力には悪意すらなく、
復讐や強奪のためといった正当性や合理性すらない。

人間の暴力は、肉体だけでなく、精神への攻撃にも及ぶ。
場合によっては、他者の人生そのものを捻じ曲げ、破壊する。
暴力は、自己保存、あるいは自己優先の、
無邪気な心の動きによってもたらされたりもする。
その心の動きは、普遍的な解釈や理解を超えていて、
犠牲となった者は、なぜこのような目に自分があわなければいけないのか、
なぜ自分が生贄に選ばれたのかを、理解することが出来ない。

ボウルズは暴力を、感情を排した、
冷徹な描写を重ねることによって書く。
この冷徹さは、すでに幼い頃、理不尽な父の振る舞いを観察し、
耐え忍ぶ日々に、培われていたのかもしれない。

ボウルズの父に対する憎悪や反発は、
大学在学中に両親に無断でパリに遁走することで、
別の局面を迎える。
その後、生涯にわたって、中南米やヨーロッパ、アフリカ、アジアと、
まさに「止まることなく」旅をし続けたこと、
そして、モロッコのタンジールを拠点として生きたことが、
父と、父なるものの体現であるアメリカという枠組みを大きく超え、
独自の世界観を持つ作家ポール・ボウルズを生んだ。

もっとも、彼の豊かな想像力や物語の造形力は、
幼い頃から現れていた。
おそらく、生まれつき備わったものが、同年代の遊び相手もなく、
強圧的な父の言動を生き延びるなかで、育まれていったのだろう。

ある人には退屈であろう事実の羅列や、
親交のあった人びとの名前の羅列が、私にはなかなか面白かった。
登場する知人友人たちの数がおそろしく多いので、
相関図のようなものを頭に描ければいいんだけれど、
いつしかそれもあきらめ、ただ時間の流れと人の動きを追うだけとなった。
が、その友人たちの名前がすごい。
ガートルード・スタインに始まって、30年代から60年代までの、
そうそうたる音楽家や作家、芸術家が次々に登場する。

ボウルズはここでも彼らの内面には踏み込まず、
短い断片的なエピソードだけを連ねていく。
なのにそのエピソードが、その人物像の片鱗をくっきりと切り取っている。
彼らの姿は、これまで私が作品などから勝手に描いていたイメージと、
同じだったり違っていたりして、思わずにやりとしてしまう。
ガートルード・スタインはイメージ通りだったけれど、
アナイス・ニン、リリアン・ヘルマン、ジョージア・オキーフは違った。

ただ、読み終わったあとに、大きな空白が残った。
妻ジェインのことだ。
彼女に関しても、他の人たちと同じように(数は多いが)、
短い断片的なエピソードが語られる。

ボウルズは、「自分はジェインの影に過ぎない」と、
おそらく彼女の死後だろうが、言ったという。
これはどういう意味だろうか。

ジェインはポールより早く、作家として世に出ていた。
あるときポールは、
自分は他人の作品(戯曲)に曲をつけることはしているけれど、
自分の作品をつくってはいないことに愕然とする。
そして自分の作品を生業である作曲ではなく、
幼い日々に書き続けていた小説で作り上げようとする。
短編集を出し、やがて長編『シェルタリング・スカイ』が誕生する。

(彼の自伝を読んだあとでは、『シェルタリング・スカイ』は、
まさに書かれるべくして書かれた作品だとわかる。
他の長編が生まれることになった背景も、興味深い。 )

だが、ボウルズが作家として着実に作品を完成させ、
評価を勝ち取っていく影で、ジェインはなかなか書くことが出来ない。
「書くことは辛い」とジェインが嘆く理由を、
ポールが理解したあるエピソードが語られる。
だが、彼女が書けないのは、彼女の書くスタイル、つまり、
小説を書いていくときの姿勢やこだわりゆえにだろうか。

ボウルズは自分の書くことにのめりこんでおり、
彼女の辛さによりそうでもなく、
さらに深く理解しようとするわけでもない。
実際にどうだったかはわからないけれど、少なくとも自伝に、
そのような姿を見つけることは出来ない。

脳卒中やうつ病などを経て、ジェインの心身は蝕まれていく。
ポールは妻の治療に手を尽くし、心を痛めているけれど、
それは発病後のことであって、発病に至るジェインの姿も、
その過程をポールが気付いていたのかも、ほとんど見えない。

こんなことがあった。ポールが長い旅に出る朝のこと。
出発時間が迫る中、パスポートが消えてしまう。
荷物をほどきなおし、家中を探しまくって、彼はそれを、
ジェインの箪笥の、きれいにたたまれた下着の下に見つける。
彼は出発し、ということは、彼女の声なき声はポールに届かず、
はるかな時間を経てのち、このような形で思い起こされる。

ボウルズの自伝が出た翌年の1973年、
ジェインはスペインの精神病院で死んだ。
56歳だった。

ここで高村高太郎と智惠子を思い出すのは、的外れだろうか。
ポールとジェインは、実は世間一般の夫婦とは異なったカップルだった。
二人ともが同性愛者であり、モロッコでもそれぞれに愛人がいて、
それを認め合っていた、というのが通説だ。

自伝には、二人の性癖についての記述はまったくない。
ポールの愛人ヤクービの名前は頻繁に出てくるが、
従者のように旅に同行するモロッコ人の若い画家としてしか、描かれていない。
ジェインの愛人は名前すら記されず、女友達と書かれているだけだ。

けれども二人は、互いの性癖にもかかわらず、
深い絆で結ばれた夫婦であった、と言われている。
そうだろうと、私も思う。

ポールはジェインの創作を励まし、出版にも尽力しているので、
ジェインの作家としての成果や評価は、ポールとは関係のない、
本人の資質の問題にすぎないと、言えるかもしれない。
それでも、ポールが、旅をすることによって、
異なった土地や人びとにインスパイアされ、
作家として花開いていった一方で、同じ時間や同じ土地、
あるいは同じ旅の道筋が、ジェインにとっては逆に、
書く意欲を殺ぎ、それどころか、
内面の崩壊へと彼女を押し流して行ったのではないか、という疑念を、
拭い去ることはできない。

ポールがジェインの小説をどのように評価していたかは、語られない。
だが、印象的なエピソードが挿入されている。
アナイス・ニンは、ジェインの小説に対する批判的な批評を書き送ってきた。
その後偶然出会ったときも、ジェインの小説のどこがいけないのかを、
長々と語ったという。
またジェインに、あなたの作品は小説ではない、これこそが本当の小説だと、
インド人女性作家の小説を送りつけてきた人もいた。
ジェインはどちらもとりあわず、その小説を手に取ろうともしなかったが、
ポールはそれを、面白かったので一気に読んでしまった、と記している。

かつてパリで、ガートルード・スタインは、
若くして発表したポールの詩を、これは詩ではない、と評した。
後日、あの詩を書き直したか、と聞かれ、そのままだと答えると、
スタインは、ほらね、あなたは詩人じゃないことが証明された、と言う。
本物の詩人だったら、あんなふうに言われたら、
すぐに自分の部屋にこもり、書き直していたはずだ、と。
このエピソードとからめると、ポールは暗に、
ジェインは本物の小説家ではなかった、と言っているようにもとれる。

私はまた、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を思い出した。
ナジャは作家にとっての「ミューズ」ではあったが、
「ミューズ」はあくまで客体でしかない。
「伝説」もまたしかり。
「伝説」となったジェインの主体は、どこに行ったのだろう。
彼女を覆う痛ましさが、空白の向こうに残った。

この自伝を読んで、何故私がボウルズに惹かれるのかが、
一層よくわかった。
彼の核をなすのが旅だからだ。

ボウルズのような旅、開高健のような旅、
つまり、一度出かけたら帰ってこれないだけでなく、
元の自分にすら戻れないような何かを体感すること。
そのような旅にあこがれ、駆り立てられるものを内に抱えていること。
旅が、生まれた土地や出自や関係への帰属に対する拒否、
あるいは遁走としての手段であり、目的でもあること。
そして、なぜかはわからないけれど、ここではないどこかに、
自分のために用意された場所があるのだという、根拠のない確信。
そこでこそ自分は、他では得られない真なるものを、
掴み取ることができるはずだという予感。

だが、旅に憑かれた者はやがて、
自分がいずれの場所でも異邦人でしかないことを知る。
彼は周縁から周縁を経巡ることしかできず、
あるいはどこかへ行く途上で果てるしかない。
ここに至ってようやく、夢想や予感が手ひどく裏切られたことによって、
彼は逆説的に、真なるものの苦い姿を知ることになるのだろう。

だからこそ、ボウルズがガートルード・スタインに薦められて、
はじめてタンジールを訪れたときの描写は、限りなく甘く胸に迫る。

わたしはただちに強い興奮に襲われた。まるで陸の風景が近づいてくるにつれて、体の内側に仕掛けられていた装置が作動するかのようであった。はっきりとした念を抱いていたわけではなかったが、地上のどこかしらには、他のいかなる場所にもまして魔法の魅力を湛えた場所があると、心の隅では理由もなく信じながら、そのためにこの世界に自分が存在しているのだと思ってきたのだった。ロマン派と同じく一生のうちにいつかは魔法の場所に寄り来たり、その場所の秘密を紐解けば、叡智と恍惚ばかりか、あるいは死でさえも我がものとすることはかなうのではないかと、漠然とではあるが、いつも心に想い描いてきた。そして今、山並みを前に風の中に立ってみると、心の奥で装置が動き出すのが感じられた。まるでいまだ問われていない問いの解答だけを、一足先に鼻先に突きつけられているかのような気がするのであった。

 

これでポール・ボウルズ作品集全6巻を全て読んでしまった。
未読のものがもうないのかと思うと寂しい。
願わくば、『シェルタリング・スカイ』を、四方田氏のような訳で読みたい。

参考サイト
http://www.kirikoclub.jp/book/bouse/bouse-top.html

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