★ネットと愛国 — 在特会の「闇」を追いかけて
安田浩一 講談社 2012.4(2013.6 第8刷)
★ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学
SYNODOS 塩原良和 / 社会学
『ネットと愛国』を読んで、在特会や「ネトウヨ」が、
これまでの民族差別とは違ってきていることを強く感じた。
実際には自分はマジョリティーなのに「マイノリティー」と勘違いし、
差別する側にいるにもかかわらず、「差別されている」と思い込み、
ゆえに、マイノリティーが受けているわずかな保護をも、
「特権」として攻撃する人たち。
『ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学』で塩原氏は、
このねじれた差別感情を、後期近代社会に特有の
「傷つきやすさ」に根を持つとし、根本的な取り組みが必要と説く。
(← ヘイトスピーチ判決をめぐって 『ネットと愛国』他 1/2)
必要なのは社会の構造改革と想像力の回復
エスニック・マイノリティ向け社会政策の拡充がマジョリティの相対的剥奪感を高めてしまわないようにするためには、急激な社会変動によって増大した人々の「傷つきやすさ」の総量を低下させる、より根本的な取り組みが同時に行われなければならない。
すなわち社会全体の貧困や社会的排除の是正に向けた政策を整備することで、マイノリティの人々に対する反感の発生を抑制する試みである。たとえば近年の日本の外国人集住自治体には、貧困に直面している外国人家庭への支援施策を生活保護受給家庭をはじめとする貧困世帯全般への支援の一環として実施しているところがある。マイノリティへの支援施策がより包括的な社会政策プログラムと一体化して推進されることで、マイノリティの人々が「えいこひいきされている」「特権を享受している」という「反動としての反感」をある程度抑制できるだろう。そしてそうした取り組みから、外国人住民の直面する困難の独特な側面を認識しつつ、それを人々が貧困や排除に陥る多様な要因のひとつとして把握し、対処しようとする意識が広がっていく可能性もある。
マイノリティーに対する支援策と、マジョリティーのなかの弱者保護、
両者を包摂的に扱うことにどれほど短期的効果があるのかは不明だけれど、
いずれの底辺の底上げも、行なわれる必要があることは確かだ。
同時に、改革は社会制度だけでなく、人々の精神面でも急務である。
「傷つきやすさ」を抱えた人々が他者の「傷つきやすさ」の「独特さ」を想像することが、「100%はわかりあえない他者と1%でもわかりあおうとする」ギャップ越しのコミュニケーションを可能にし、そこから公正な社会に向けた変革への意思が生じる。それゆえマイノリティの社会的承認と包摂のための構造変革に取り組むことは、急激な社会変動によって擦り減らされてきた、人々の他者に対する想像力を回復していく試みと同時に進行されなければならない。それによってはじめて、レイシズムやヘイトスピーチ集団の「フォロワー」を減らしていくことが可能になる。ただしこのような働きかけは、他者を対話の相手とみなさず、象徴的・物理的に抹殺することのみを目的とする確信犯的なレイシスト・ヘイトスピーチ集団の活動を抑え込むには即効的な効果がないかもしれない。いま現在、こうした集団の脅威にさらされている人々を救うためには、より直接的な対応を検討する必要もある。
「公正な社会に向けた変革への意思」は共有できるか
在特会で評価できるのは、彼らが「行動する」ことだ。
「ネトウヨ」が目につくのも、彼らが発言を自己抑制せず、
でかい声で精力的にわめいているからだ。
たとえ実態はうっぷん晴らしの弱い者いじめであっても、
「敵」に面と向かって文句を言う、公に批判の声を上げる、
という「行動」の効果は相当高い。
ネット上での在特会喝采の一因は、この点にもあるだろう。
そしてそこに、彼らなりの「公正な社会に向けた変革への意思」があること。
まことに残念きわまりない、と思う。
彼らに、よーく考えてみてほしい。
あなたたちの「行動」が誰を利しているのかを。
マジョリティーの中のマイノリティーと勘違いした人たちが、
真のマイノリティーを攻撃する、という図式は、
誰にとって都合がいいのか ?
もし彼らが主張するように、「特権」享受者がいなくなった時、
その「特権」に回されていた分は、正しく彼らに回ってくるのか ?
不公平に扱われている、はじき出されている、何かうまくいかない。
『ネットと愛国』で安田氏が在特会の若者に見出した共通項には、
このようなものもあった。
彼らが対面している「生きにくさ」の原因は、
在日がいなくなり、「特権」が消え去っても、なくなるわけではない。
マイノリティーの排除を平気で行うような社会は、
「傷つきやすさ」と「生きにくさ」をより多く抱えた人の排除も、
平気で行うだろう。
かくして、彼らが求める「公正な社会」は、実現するどころか、
より強固な「不公正な社会」になって、彼らを飲み込むことになる。
単なる鬱憤ばらしと自己満足で終わるどころではない。
自らの首を絞める行為である、ということだ。
「公正な社会に向けた変革への意思」が求めていくところは、
「マイノリティの社会的承認と包摂のための構造変革」でしかあり得ない。
とすれば、在特会や「ネトウヨ」が攻撃している相手は、
実は共闘すべき同志であるのだ。
また、レイシズムが世界共通の唾棄すべき理念である以上、
どのようなヘリクツを並べようと、人種差別的な攻撃は断罪される。
国内の本音のフォビアがどれほどヘイトスピーチに承認を与えようと、
理念に基づく公な場での勝ち目はないし、国際社会からの批判も高まる。
ネットで検索してみると、反ヘイトスピーチや、
反在特会の論を張る人もけっこう多い。
気になるのは、時に彼らが、
批判している相手と同じような口調になっていることだ。
暴力は暴力を生み、差別は差別を生む、という法則が、ここに表れている。
ヘイトスピーチは、その方法論も含めて丸ごと、
ヘイトスピーチを行うものに投げ返されている。
「ネトウヨ/在特会」フォビアが、確実に形成されているのだ。
言葉の通じない確信犯はさておき、
「『100%はわかりあえない他者と1%でもわかりあおうとする』
ギャップ越しのコミュニケーション」の必要性は、
一方だけに求められるわけではない。
想像力の回復により「(ネトウヨ)フォロワー」を減らしていくことと同時に、
「公正な社会に向けた変革への意思」を共有するアプローチが、
何とか形成できないものかと思う。
では、確信犯対策として、あるいは「ネトウヨ」フォロワー減らしに、
法規制はどうだろう。
もちろん、ヘイトスピーチを直接的に規制する法を制定することの是非については法律学的に厳密な検証が必要である。たとえば米国における一部のヘイトスピーチ規制反対論は、ヘイトスピーチの規制が社会における言論の自由の発展を阻害し、それが結果的にはマイノリティ自身の利益にも反する結果になると主張する(飛田2004; 榎2006; 奈須2000)。しかし社会学的観点からいえば、日本ではエスニック・マイノリティの社会的承認・包摂がいまだに進んでいないことが議論の前提とされるべきだろう。そもそもエスニック・マイノリティの存在自体がじゅうぶんに知られていなかったり、彼・彼女たちが自分のアイデンティティを表明したまま対等で自由な言論をたたかわせることができる状況が確立していない日本において、レイシズムやヘイトスピーチをじゅうぶんに規制しないことはエスニック・マイノリティの社会的承認・包摂にとって深刻な障害となりうる(前田2010e, 2011bc; 有田2013: 131-156)。言論の自由とのバランスという論点にとどまらず、日本社会におけるマイノリティの社会的承認と包摂の推進というより広い見地からも、ヘイトスピーチを法的に規制しないことのデメリットは検討されなければならない。
(以上、ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学)
実に情けないことであるけれど、
日本の人権感覚は世界標準に比べてはるかに低い。
フランスで、難民申請が認められなかった女子中学生が授業中に連行され、
不法滞在だとしてコソボに強制送還される事件が起きた。
・15歳ロマの少女を学校行事中に拘束・送還、仏閣内に亀裂 (AFPBB News 10/17)
・ロマ少女の強制送還で論争=各地で高校生が抗議行動-仏
(時事ドットコム 10/19)
一連の経緯が報じられた後、「フランスでの就学を認めよ」と主張する高校生らが17日から各地で学校封鎖やデモを開始。AFP通信によると、生徒グループは18日に少なくとも全国で170校が休校や授業中止に追い込まれ、1万2000人がパリでのデモに加わったと主張している。
抗議の声に、19日にはオランド大統領が、
家族を除く本人だけなら再入国を受け入れると発言。
政府は「(身柄拘束のやり方は)不適切だった」とする調査結果を公表。
与党社会党のデジール第1書記は「家族全員の再入国を認めるべきだ」
と表明し、議論はさらに高まっているという。
ヨーロッパは、日本とは違って、多くの難民や移民を受け入れてきた。
今もアフリカの紛争国やシリアから、
多数の難民がヨーロッパを目指している。
難民や移民の生存権や教育を受ける権利は、
理念として、広く中高生にまで共有されているのだ。
ひるがえって日本を見ると、ネット上には、
強制送還何故悪い、不法滞在だから当然、という声が溢れている。
もう情けなさが沸騰して、出てくる言葉がない。
日本は「エスニック・マイノリティの社会的承認・
包摂がいまだに進んでいない」ことに加え、
目の前にある人権侵害にも、驚くほど鈍感なのだ。
重要なのは、エスニックに限らず、
マイノリティーに対するアイデンティティーの尊重と、人権尊重を、
教育をはじめあらゆる場で、訴え続けることだろう。
そのことの現実的対応として、法規制もありなのかもしれない。
無視される「民族教育権」と同化主義的レイシズム
ヘイトスピーチ裁判の判決は概ね肯定的に報じられたが、
判決が触れなかったものを指摘する声もある。
マイノリティーに対する「民族教育権」が無視されたのだ。
・「ヘイトスピーチ断罪判決」が触れなかったもの(2013/10/11)
判決後に開かれた、原告側の支援者集会でも「人種差別撤廃条例の流れで、彼ら(在特会)のヘイトスピーチが『人種差別』だと認められたことは大きい」(朝鮮学校の保護者の一人)と、条約を全面に打ち出した判決を評価する声が多かった。が、その一方で、原告側が、レイシストによるヘイトスピーチを断罪することと同様に、この裁判で求め続けてきた「民族教育権」の存在確認と、その侵害について、判決で触れられていないことへの落胆の声も少なくなかっ た。
「民族教育権」とは、自らが属する民族の言葉によって、その民族の文化や歴史などを学ぶことにより、人間とし て成長し、人格を形成していく教育を受ける権利のことだ。そして今回の事件の本質はまさに、その民族教育権に基づき、在日朝鮮人の子供たちが民族としてのアイデンティティーを育む場が狙い撃ちにされたこと――にある。
これは、日本の現実を見ると、なかなかハードルが高い問題だろう。
日本は「エスニック・マイノリティの社会的承認・
包摂がいまだに進んでいないことが議論の前提とされるべき」
というような段階だからだ。
ゆえに、「彼・彼女たちが自分のアイデンティティを表明したまま
対等で自由な言論をたたかわせることができる状況が確立していない」。
マイノリティであっても、彼らのアイデンティティーは尊重されるべきだ、
ということがきちんとした共通認識になっていないのである。
15日の朝日新聞の夕刊、「『同化』求めるのも、差別」で金明秀氏が、
レイシズムの二種類、即ち排外主義的レイシズムと、
同化主義的レイシズムについて書いている。
排外主義的レイシズムとは、日本の伝統や血統とは異なる集団を劣等視したり、互いの差異を誇張したりすることで排除しようとする態度で、多くの人にとっての一般的なレイシズムのイメージはこれにあたるだろう。一方、同化主義的レイシズムとは、異文化集団に日本社会の「普通」 で「正常」な文化への同化を強制する態度を指す。逆に言えば、「異常」で「奇妙」な文化を捨てさって、異質性が“見えない”状態にまで同化しないかぎりは対等な社会の構成員とは認めないという態度である。
欧米の多くの国で、「同化」はマイノリティーのアイデンティティーを脅かすということから、差別の同義語として理解されている。しかし、日本ではむしろ好ましいことだと考えられている。
実際にはヨーロッパでも、移民受け入れに同化政策を取っている国がある。
フランスはその筆頭であり、金氏の言うように、
同化=差別とすっきりと結論が出ているわけではないだろう。
同化といっても、100%平等なわけではなく、二重基準でもある。
そのような同化政策のほころびが、移民二世三世に、
民族的・宗教的アイデンティティーへの回帰を引き起こしている側面もある。
一方日本では、ヘイトスピーチには嫌悪を覚える人も、
同化主義的レイシズムに対する理解は低そうだ。
この社会が、他に例を見ないほどの同調圧力の強い共同体だ、
ということもあるかもしれない。
行動と言葉
それにしても、と私は、私も端っこにぶら下がっていた、
韓流ブームを思い出している。
ブームである以上、いつか収束していく。
異様なほどであった熱狂がうそのように醒めてしまうのも、
いずれのブームとも同じだ。
だが、イタリアブームが去っても、
TVの旅番組ではイタリアがダントツに目につくし、
イタリア料理店の多さは相変わらずだ。
同じように、韓流ブームで楽しい思いをした人たちは、
きっと「韓国好き」のままでいるに違いない。
在日に対しても、親近感こそあれ、悪感情はないだろう。
韓流ファンたちのエネルギーは、「行動」にもつながっていた。
それまで知らなかったパソコンの技を磨き、
ファンコミュニティーを作り、創造性や自己主張を獲得し、
これまでは出かけなかった海外旅行にと、行動の幅を広げた。
はたして彼女たちは、新大久保の歩道にプラカードを持って立ち、
テーマに同性愛者や障害者らへの差別撤廃も含まれた、
9月22日の「東京大行進」に参加しただろうか。
地方都市在住の私には、その後の彼女たちの動静があまり見えてこない。
そういえば、嫌韓流の声の中には、韓流ファンに対するフォビアもあった。
「ネトウヨ」は、在日や韓国を擁護する人たちをも、
「日教組」「北のスパイ」などと攻撃の対象にする。
嫌悪を覚える低劣な言葉からは、できれば目をそらしていたい。
彼らの悪意にさらされるのは恐怖である以上に、いい迷惑である。
まして、自分に向けられたものでなければ、
いちいちかかずらわるほど暇ではないし、
そんな消耗すること、やっていられない。
が、「ネトウヨ」たちはこれをやっている。
彼らにはこれが勝因であり、われらにはこれが敗因であろう。
在特会や「ネトウヨ」の「行動」や声高な主張には、
粘り強い、成熟した「行動」と「声」をもってあたるしかない。
(「『公正な社会に向けた変革への意思』を共有する」前提となる対話を、
はなから彼れが拒否しているとき、はたしてどのような言葉が可能なのか、
そうとほうにくれてしまうのをなんとか耐えつつ……。)
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