『共依存・からめとる愛』は、非常に深く考察され、整理されたものだった。
「共依存」が日本の女(とくに妻たち)にとって、
特殊でもなんでもない、普通の親子関係、夫婦関係の延長線上にあるということ、
それは支配・被支配の関係であること、
そしてそれは、特に家族のなかで、強者から弱者へ、
親から子どもへと連鎖していくから問題なのだ、ということ。
また共感したのは、
カウンセラーという仕事を選んだ自らを対象化している視点。
カウンセラーも、困っている人を助けることが使命であり、喜びであるという点で、
「共依存」に連なるものがあるという自己洞察。
それから、「共依存」を病気ではなくビョーキと書くこと。
つまり、(関係に関する)嗜癖など誰もが持っているもので、
特別に治療などと構えることなく、日常の中でやり過ごしたり、
うまくつきあっていけばいいのだという、肩の力の抜け加減。
(やり過ごすことが出来ない人のためのカウンセラーの必要性は、
この本を読んでよくわかった)。
『家族収容所』は10年ほど前に書かれたものの文庫化。
サブタイトルは当初、–「妻」という謎 だった。
こちらは怒りに満ちた書。
妻をここまで追い込む「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」に対しての。
(著者の怒りは、ずっと私が感じているものでもある。)
そのうえで、呪縛から逃れられない妻たちに、「しのぐこと」を伝授もする。
とっとと別れちまえばいいのに、
自己犠牲と支配・被支配が生きがいやアイデンティティーにまで至っていれば、
ことはそう簡単にはいかない。
まして経済的な問題も大きい。
ならば少しでもましに現実を生き延びるために、著者は「しのげ」と言うのだ。
これは現場で追い詰められたクライアントに接している著者ならではのスタンス。
確かにまずは「生き延びる」ことなのだ。
しかし悲しいなあ。
私の周りに、これがごろごろしている女の現実が悲しい。
でも、いずれの本にも、呪縛から抜け出した妻たち、
娘たちの事例が紹介されている。
それが希望。
『家族収容所』から・・・
なぜひとはひとを救いたがるのか。カウンセラーという仕事をしている私にとって、それは大きな命題になっている。
救いたがるのは、果たしてそのひと個人の問題だろうか。実は救うという行為が善であり、美しいことであるという支配的な見方が社会に蔓延しているからではないだろうか。そして救う行為は、男より女の側に、より期待されることが多い。
・・・
一夫一婦制を支えるロマンチック・ラブ・イデオロギーを深く信じ込んで結婚し、子どもを育てた。ところが現実は、浮気をされたり殴られたりして、傷つけられる毎日だ。家族の外に眼を向けても、自分を受け入れてくれる場所はない。実家にも戻れない。妻としてしか生きられない女性が、その立場さえもずたずたにされたときに、「夫を救う」という役割にしがみついて、さらには子どもを支配することで生き延びようとするのだ。
「夫を救う」の夫は、アルコール依存症だったり、
暴力をふるったりする加害者である。
それなのに、被害者である妻が、「私がいないと夫はだめになる」と、
救う側に転じるのだ。
逃げる(離婚する)どころか、しがみつくのだ。
これが「共依存」の図式だ。
この場合の救う対象である夫は、他とも簡単に入れ替えが可能だ。
たとえば、引きこもりや摂食障害の子ども、
カウンセラーにとってのクライアント、悩んでいる友人、
そして、助けを必要としている、すべての弱者。
違いは、弱者である自分(妻)が強者(夫)を救うという、
ややこしい図式をたどらなくてすむこと。
つまり、自分が強者の側に立てること。
特に女に、この道が開かれている、「期待」されている、という指摘は鋭い。
その「期待」があればこそ、女は、
他では得られない「力」をたやすく手にすることができる。
この「力」に容易にたどりつけるルートが用意され、
他の力を得る道が困難に狭められているならば、
女がこの「力」を手放したくないのは当然かもしれない。
けれどもここに、夫や子供に過剰に関与し、
あるいは誰かの役にたつこと、 つまり、
「絶対的善行」がアイデンティティーになっている人にとっての、陥穽がある。
ボランティアや慈善には問題ないように思うかもしれない。
救われる側にとっての実利は確かにあるわけだし。
けれども、そこで、何故自分は人の役に立ちたいのか、
と問いかけることは必要だ。
他者を救う行為が、自らを救う代償行為になってはいないか?
もしそうであるなら、そこで自足してしまうことによって、
内省においても、自らの関係における問題の改善においても、
先に進むことを妨げることになる。
そもそも、自分の問題を横に置いて、他者を救おう、
他者の役に立とうというのは、どこか倒錯している。
自己救済や自己承認のために、
他者(の弱さ)を利用するというのは、どこか歪んでいる。
「わたしたちに、相手の痛みなどわかるわけがないのだ」と、
信田さんも言う。
「わかってあげる」「救ってあげる」という傲慢さ、
そのことが気持ちいい、という自己中心性を、まずは自覚するべきだろう。
「共依存」という言葉が、あまりに安易に蔓延してはいないかと、
河野貴代美さんは『わたしって共依存?』で危惧していた。
「AC」(アダルトチルドレン)も同様。
これらの名づけには、名前をあたえられたことによって、
病名がわかった患者のように安心が得られる、という効果がある。
多くの若い女性が、母との関係の息苦しさを、
「ああ、こういうことだったのか」と理解し、心の重石が取れたように思うのは、
あながち悪いことではあるまい。
ただ、そのような画一的な言葉でくくってしまうのではなく、
個々の関係の中で、当たり前のように出現する問題として、
それぞれが解決と、より良く生きる道をさぐるべきだ、というのは頷ける
いずれにしても、ここがとても重要な視点、支点であることは確かだと思う。
ここを転換点にできればいいな、と思う。
「共依存」の母が夫から痛めつけられ、 息子と娘を痛め続ける姿、
家族の中で「共依存」が、 DNAレベルでコピーされていくのを、もう見たくない。
痛めつけられた息子と娘の生き難さは、すでに小説のテーマにもなっている。
「共依存」という言葉が生まれる、ずっと前から。
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