『イヴの隠れた顔』

『イブの隠れた顔』アラブ世界の女たち
ナウル・エル・サーダウィ/村上真弓・訳 未来社1988.3(1977 カイロ)

長い英語版への序文の後、導入部で、6歳の頃の記憶が語られる。
自らに受けた「女子割礼」女性器切除の記憶である。
女性器切除は、父権制社会の女性の性と肉体に対する管理と支配の上で、
他に類を見ないほどの、痛ましい、
許しがたい悪しき慣習ではあるけれど、
この慣習にアラブやイスラムの「後進性」を重ね、
欧米が「先進的」であるとするなら、それはもうひとつの差別となる。
女性器切除をもって、欧米諸国がイスラムの女性差別を批判するとき、
彼ら彼女たちは、自分たちが同じ父権制の下に行使し、
行使されてきた同様の論理や慣習を忘れている。

欧米の女たちは、クリトリスの外科的な除去こそ受けていないかもしれない。しかし彼女たちは、文化的・心理的なクリトリデクトノミーの犠牲者である。「私の体から鎖をはずし、私の心に鎖をつけて」。ジグムンド・フロイトは、女性の心理学的・生理的な割礼を教え込んだ男たちの中でも、おそらくもっとも有名な人物であろう。女性の心理的な性質についての彼の理論の中で、フロイトは、クリトリスを男性器官、クリトリスにおける性行動を幼児的段階とみなした。そして、女性の成熟と精神的健康のためには、クリトリスにおける性行為から膣におけるそれに移行せねばならない、と主張した。
たしかに、クリトリスの外科的な切除は、その心理的な切除よりもずっと野蛮で残酷な措置に見える。しかし結果は、両者とも全く同じであり得る。結局のところクリトリスの機能が抹殺されるので、クリトリスがあろうと無かろうと同じだからだ。心理的な外科手術は、もっと悪質で有害かもしれない。なぜなら、体は大切な機能を失っているのに、完全であるという幻想を生み出しがちだからである。(英語版への序文から。1979)

確かに、女性の肉体の直接的な支配は他にもある。
サーダウィが指摘するように、中世ヨーロッパの貞操帯もそうだし、
中国の纏足もそうだと思う。

訳者も解説でこう述べる。

婚姻制度の枠外で処女性や貞操を失った、あるいは単にそう疑われた女を身内の男が殺害する風習は、ヴェールやハーレムや女子の割礼とともに、アラブの女の抑圧を象徴するものとして、しばしば引き合いに出される。しかし、これらの風習は、特定の人種や民族に固有のものでもなければ、特定の宗教に由来するものでもない。ハーレムもヴェールも女子割礼も、起源はイスラムよりもはるかに古いし、また地理的にもイスラムやアラブとは部分的にしか重ならない。

アラブ世界に向けられた西欧(日本も含む)の無自覚な視線、無知、
そして想像力の欠如に対するアラブ女性たちのいらだちを、
私たちは心に深く留めておかなければならない。
また、イスラム教(だけ)が女性差別の宗教なわけでもない。

特に宗教は、伝統的な社会では、研究者や真理探究者の努力を遮り、なぎ倒すためによく用いられる武器である。宗教とは今日、たいていの場合、経済と政治を牛耳る者たちの思いのままになる道具、支配者が被支配者を抑えるために用いる制度として使われるということが、私には次第にはっきりとわかってきた。宗教は、女、子供、奴隷を抑圧することによって歴史的に生まれ、維持強化されてきた父権制家族を永続化するために使われる、司法、教育、警察、さらには精神医学の制度と同じ目的に奉仕する。したがって、どんな社会においても、宗教と政治制度を切り離すことも、性と政治を分けて考えることも不可能である。(はじめに 1977)

けれども、イスラム教にに特有な「男と女が厳しく分離される隔離社会は、
性的な欲求不満と抑圧を生み出す」ことも確かだと、
私もアラブ・イスラム社会に出かけてみて思った。
禁止は逸脱への強い渇望を招く。
父権制による性道徳がイスラムによって強化され、
禁忌と罰則が一方的に女に課せられる社会にあっては、
性暴力は社会や家族の中のより弱い立場の女性に(あるいは異教徒、
たとえば外国人観光客に)、いとも簡単に向かう。
だがやはりこのことも、イスラムだけの話ではない。

三つの代表的な一神教以前の社会と文明における女たちの地位と状況について何も知ることなしには、なぜ女たちが宗教において低い地位に追い落とされたのかがわからない…。さらに言えば、イスラムに先立ち、イスラムの基本概念と教えの多くの面に非常に強い影響を与えた二つの宗教、キリスト教とユダヤ教に言及しないで、アラブ・イスラム社会の女性について考察を試みることはできない。また一神教よりももっと遠い、かすみがかった太古の諸宗教へのさかのぼることなく、一神教と、そこにおいて女たちが占めていた地位を論ずることも誤りである。

アダムとイヴの話はユダヤ教から生まれた。ユダヤ教では、女は罪深い、罪とは性である、という観念が起きた。そして精神(あるいは霊魂)と肉体の間の分離が聖別され、永久的な公認を受けた。ユダヤ教に続いて出現したキリスト教は、女と性についての価値と態度においては、偏見と硬直の鉄の足かせを鋳なおした。

イスラム初期の段階では、女は自由に動き回り、皆に顔を見せてもよかったのに、その後隔離(訳者注、男女が自由に混じらないこと)とヴェールが女に課されるようになった理由を理解することは難しいことではない。今日でさえも、いくつかのアラブ諸国はこの後期イスラム社会に発展した習慣をまだ維持しているが、隔離とヴェールは女の保護が目的ではなく、本来は男を保護するためであった。つまりアラブの女は、彼女の体と名誉と品行を無事に保つためにではなく、むしろ男の名誉と品行を守るために家の中に閉じ込められたのである。

さらにまた、男たちがそのような習慣を定め、女を正常な社会生活への参加から締め出す必要を感じたということは、男は強く女は無防備で弱い、という神話を打壊するものであるように思われる。男たちが女たちに対してそのような暴虐を加えたということは、彼らが女のうちにひそむ力というものを見て取り、それから自己を守るために防壁を必要としたのだ、ということを示している。

ファラオ時代の女についての記述は、実に興味深い。
黎明期には女たちが絵画や彫刻に頻繁に描かれ、
その大きさは男とおなじであったという。

しかし後になると、壁面の女性の寸法は縮小し始めた。これは、女が男に対して劣位になってゆくことを反映している。この変化は、第七王朝から第10王朝(紀元前2420年-2140年)にかけて広がっていった私有財産の出現に対応していることが知られている。

その後も、ハトシェプスト(紀元前1504年-1483年)やネフェルティティのように、
強い権力を持ち得た女王も出現しているけれど、一般的な女性の地位が高かったのは、
それ以前の「私有財産と土地所有が支配的になる以前の時期に限られる」。

アラブの女たちは、自分たちの独立性と積極的な特性を突然に失ったのではなかった。社会における女たちの状況は、社会経済的な変化に伴って徐々に悪化していったのであり、女たちは、古い既得権を失うまいと激しく戦った。時には、女たちが勝利を収めることもあった。しかしたいていは勝ち目のない戦いであり、父権制の勝利に終わった。

アッラーの使徒ムハンマの時代にも、女たちにはまだ権利と自由があった。

中世以前に生きたアラブ女性は、夫を選ぶ権利を持っていただけではなく、夫に反駁し、怒って顔をそむけることもできた。また、それなりの理由があれば、夫がどんなに重要な人物であっても、たとえそれが預言者ムハンマドその人であっても、夫と寝床を共にするのを拒否することもできた。今日のたいていのムスリムは、ムハンマドが彼の言葉のいくつかで、肉体的な必要としての性の充足のために、性戯の重要性を説いていることを知れば驚くだろう。
…ムハンマドは、前戯なしに性交し、女も満たされるようにする必要を顧みないことは男の人格を下げる、と強調した。

性について、西洋の思想との間にある著しい相違点の一つは、性的な充足の問題に対して両者が正反対の態度をとっていることである。イスラムでは、性の抑圧や昇華ではなく性の充足こそが、世俗・霊魂を問わず、人間活動の様々な領域において人々が働き、集中し、創造する能力を十分に発揮することに資する、と考えられている。

今日のアラブ女性は、1300年前に同じ地域に生きていた女たち、同じ大地の上を歩き、同じ空域を吸い、しかも拒否したり、抗議したりする勇気を持っていたあの女たちを今こそ思い出すべきなのだ。

そのうえでサーダウィは、イスラムの女性差別的な男女関係を記す。
ムハンマドによって重要なものとされていた性も、
いずれの父権的な宗教やいずれの父権的社会においてと同様に、
結婚制度の内部にだけ許されるものであったし、
逸脱に対する罰も同様に、女性により厳しいものであったけれど、
そこにはアラブ・イスラム的特徴もある。

イスラムが女と性の問題を扱う際の基本的な立場は、以下のように整理できる。
(一)男は女を経済的に扶養しているのであるから、女を後見すべきである。男はまた、理性、分別、経験、知識、宗教的信念という点においても、女より優れている。権威は男の権利であり、服従は女の義務である。
(二)男のエネルギーは、礼拝や宗教活動、血の追及に費やされるべきである。これは、女が家で男に仕え、食べ物や飲み物を用意し、掃除・洗濯をし、子供と老人の世話をすることに献身してこそ、可能になる。
(三)男が宗教活動、アッラーの崇拝、知の追及、社会活動に、澄み切った精神と心で専念できるよう、男の性欲は十二分に満たされておかねばならない。これはまた、宗教を保全し、社会を腐敗と崩壊から守ることも目的としている。性欲は結婚によって満たされるべきである。結婚の目的は、生殖のほかに、天国に約束されている悦楽を前もって体験することでもある。そうすれば、男は、善行を為して死後の世界で報われたい、と思うであろう。数人の女と結婚したり、女奴隷や妾を取ることによって性欲を十分に満たすのは、明白な男の権利である。しかしながら、マスターベーションは悪である。そして姦通はもっと大きな罪である。「婚資の持ち合わせがない人々は、神が恵みによって富ませたもうまで節制せよ」。
(四)女の魅力と誘惑する力は危険なもの、破滅の源である。男たちはこの魅惑する力から保護されねばならない。それは女を家の中に閉じ込めることにより可能である。男は、女の誘惑に屈服すれば、全滅の危機にさらされる。(略)
(五)女は、病気や死のような緊急な必要が生じた場合を除けば、家を出て、外の男たちの世界に足を踏み入れることは禁じられている。家の外に出るときには、体を完全に覆い隠さねばならず、魅力や男を魅惑しかねないものを外にさらしてはいけない。彼女の装身具は隠され、外生殖器は保全されねばならない。

イスラムは、男たちに結婚を奨励しただけでなく、それを宗教的義務だとみなしさえした。よく知られたアラブの諺によれば、「結婚は信仰の半分」である。男たちは、結婚するよう求められたばかりでなく、複数の妻をめとり、妾や女奴隷と暮らすなどして、ほとんど意のままに婚外性関係を持つことが許された。こうして男たちは、所有する女の数を自慢し、自分の性的な力を得意げに吹聴した。

男の性的な力は、アラブの気風(エートス)の一部となったが、それは男らしさにかかわるものであった。男にとって、自分が性的に弱いとか、不能だ、とかいうことが知られるのは、屈辱的なことであった。

ただしサーダウィは、このようなイスラムの男性優位性と女性差別は、
ムハンマドによるものではないということを、強調している。

予言者ムハンマドは、アラブ社会では通則となっている、こういった男の行動様式には従わなかった。彼は離婚した女や未亡人と14回結婚した。彼が結婚した女で処女だったのは、アイシャただ一人である。この点でもムハンマドは、今日の大多数の男たちよりもずっと進歩的で、はるかに偏見がなかったといえる。

我々がみたように、女の身分に対する社会の態度は、ムハンマドの死後急速に悪化した。

イスラムという宗教は、ムハンマドの死後、
彼がアッラーから受けた啓示であるコーランと、
彼の言行録であるハディースを編纂することによって今日に至っている。
その信仰とは、法や政治、経済活動、倫理や道徳、家族や男女関係、
つまり現実の社会生活の全てを、
この二冊の書物に記されたところに沿って実践するものである。
だが、人間の営みのあらゆる規範が、二冊の書物に記されているわけではない。
社会は常に変化してもいる。
イスラムの教えとは、二冊の書物に書かれた言葉、つまり概念を、
その時代、その社会の求めに従って解釈するものだ。

ということはつまり、21世紀まで続く女性差別的なイスラム解釈も、
その始源にさかのぼることによって誤りをただし、
女性の権利や自由、男女の平等という視点で解釈しなおすことが可能だ、
ということでもある。

実は先日、このような、イスラムに根ざしたフェミニズムを提唱している、
アフリカ系アメリカ人女性ムスリムの話を読んだばかりなのだ。
イスラムの女性が、信仰を持ったまま、
自分たちのフェミニズムを築いていける道がここにある。
イスラムの女性差別は、世俗主義の西欧的なフェミニズムだけでは、
切り崩していくことはできないだろう。
イスラムの女性差別からの解放は、
宗教か世俗主義かという二者択一では為し得ないように思う。

それでもやはり、女性差別性、排他性というものが、
一神教に備わった一つの強固な属性であるということは、
彼女たちも私たちも、忘れてはいけないと思う。

そのうえに、一つの疑問がある。
西欧キリスト教社会で男女平等への取り組みが進み、
一方イスラム社会ではあまり進んでいない(ように見える)のはなぜだろう。
サーダウィがこの本で描き出したように、
アラブ社会の女たちも声を上げてはいるのだ。
19世紀末頃からの植民地主義に対する解放や改革とからめて、
男性からも女性権利の復権を唱える者も登場している。
にもかかわらず、である。

この本を読む前から、不思議に思っていたことがある。
それは、私が親しんでいるイタリアにおいては、
古代社会から中世ルネッサンスを経た現代キリスト教社会が、
なめらかにではないにしても、連続的に繋がっているように見えるのに対して、
この二年間で訪れた中東やエジプトにおいて、
古代と現代は激しく断絶していると感じられることだ。
アラブ世界の古代はイスラムで途切れ、ただの遺跡として、
観光資源としてしか生き延びていないように見える。
シリアの古代パルミラのゼノビア女王や、
エジプトのハトシェプスト女王の系譜は、どこに消えたのだろう。
それらが「原始女性は太陽であった」という声にたどりつけないのはなぜか。

イスラムは、それ以前の古代宗教を徹底的に破棄したと、
最近読んだ本にあった。だからだろうか。
だが、異教の神の排斥や神像の破壊は、
中世キリスト教社会でも相当な激しさで行われたのだ。

なぜ、アラブ・イスラム社会には、古代復興、
ルネッサンスが訪れなかったのか。
イスラムルネッサンスという言葉を聞いたことはある。
イスタンブールのブルーモスクなどの建築に関してである。
ブルーモスクが古代ローマのアヤソフィアを継承しているという意味では、
確かにルネッサンスではあるけれども、
古代復興は建築以外の部分に及んでいるようには見えない。

ヨーロッパのルネッサンスとは、
中世キリスト教の宗教的抑圧からの人間復興なのだ。
これにより、神の絶対性を超える科学や哲学が生まれた。
ここから、社会や人間存在に対する合理的な解釈や意味づけが、
自由や人権や平等といった概念が育った。

それとも、このように絶対性を「疑う」という試みは、
イスラム社会にもあるのだろうか。
おそらく私が知らないだけで、とくに近現代には、
様々な試みはあるのだとは思う。
実際この点も、つい先日読んだばかりだ。

それでも、と、思考はぐるぐると回り、最初に戻ってくる。
私は、イスラムを否定せずに、
イスラムの中で女性の復権を図ることを支持しながら、同時に彼女たちに、
イスラムにある絶対とされるものを疑って欲しいと、思っているのだ。
唯一絶対の神の言葉=解釈の絶対性に対する疑義は、
かならずや、そのもととなる存在に対する疑義に、たどりつくはずだ。

イスラム社会の女性問題がやっかいなのは、
どこからどうアプローチするにも、宗教が張り付いてくることだ。
けれども、それをどうこう言っても始まらないだろうと、今の私は思っている。
なにせイスラム社会では、政治も法律も経済も、
すべてにイスラムが張り付いているのだから。

ただしその張り付き方は、国や地域によって大きく異なる。
同じ国でも、時代によって絶えず揺れ動いている。
一度は世俗国家を選んだイランに宗教革命が起こり、
エジプトにはイスラム政権が生まれた。
ところがそのイスラム政権は、今、民衆の厳しい審判にされされている。
イランの大統領選挙の結果もそうだし、
エジプトのアレキサンドリアやカイロで激化しているデモもそうだ。
トルコの、イスラム色の強化と強権支配に反対する示威行動も同様だ。
一方には、女子教育を否定するテロが続く、パキスタンのような国もある。

サーダウィは、エジプトの女性運動の二つの潮流、
否応なくヴェールを外して労働せざるを得ない貧困層の女性たちと、
教育を受けた富裕増の女性たちの断絶を描き出しているが、
同じ地域、同じ国の中でも、女たちの抱える困難は一様ではない。
ある者はイスラムを味方につけ、ある者はイスラムを外から眺める。

いずれにしても、まずは言葉である。
コーラン解釈の言葉、「絶対」に対する問いや疑いを開いていく言葉を、
女たちは持たなければいけない。

サーダウィはそのような先進的で先鋭な言葉を持つ作家だ。
エジプトにサーダウィがいることの意味は限りなく大きい。
私は「アラブの春」が始まったころ、アメリカのニュース番組で、
彼女の舌鋒鋭いコメントを聞いて驚いたことがある。
それだけ世界的な発言力をを持っているということでもある。
今年も、ムスリム同胞団が政権をとったことにより、
エジプトの女性の地位は後退すると、毎日新聞に寄稿していた。

終章「第四部 突破口」から。

西洋の産業社会では、宗教は国家から分離された。資本主義と技術の攻勢の前に教会の力は後退し、キリスト教と封建制に結び付いた神聖な諸価値の多くが破壊された。
しかしながら、たいていのアラブ・イスラム諸国では、宗教は国家から分離していない。多くのアラブ人思想家が、制度としての家族と、その歴史的な変化についての、客観的・批判的な分析を行うことを妨げている原因の一つも、ここにある。宗教について自由に考えることは、たいていのアラブ諸国ではまだ禁じられた危険な遊びである。それは、政治と政体について、特に階級闘争の問題にまで発展させて、自由に思考することが危険なのと同様である。これはまた、性と、性に関する問題についてもいえる。

三つの主題「神聖三部作」は、特に慎重に取り組まれねばならない。でなければ、全く触れないほうがよい。この三つとは、宗教と性と階級闘争である。アラブの知識人・思想家たちは、著作の中でこれらの問題を扱うのを恐れている。したがって、アラブないしイスラムの社会改革運動の多くは、社会の核心に触れない、表面的な修正をするにとどまるのを特徴とする。

この状況は、多くの者たちを利している。特に、多国籍企業の重役室に座るなり、西洋やいくつかのアラブの国の首都からアラブの人々の運命を支配するなりして、アラブ人民の富を収奪するのに忙しい者たちに武器を提供している。

それでも、アラブの思想家・知識人たちは、アラブの人々を苦しめる不正と抑圧を、一層大胆・率直に批判するようになってきている。アラブの女たちもまた、社会と、自分たちの生活を取り巻く諸問題に対して、新たな勇気をもって立ち向かうようになった。彼女たちは、解放によって、自分たちを縛っている鎖以外には何も失うものはない、ということを知っているからだ。

最後に訳者解説から引用しておこう。
アラブ・イスラム社会が、
なぜイスラム教の改革に後ろ向きなのかという理由が少しわかる。
ひとつは、ことは彼らだけの問題ではなく、
植民地支配とそれからの解放の道筋に、
イスラムが非常に重要な、イデオロギー的な意味を持っていたということ。
もうひとつは、実はイスラムでは、女はある種の安定と安全を得ていたから、
ということである。
このようにイスラムのシステムが十全に機能し、
その理不尽さより益のほうが大きいと女たちが思える社会であるならば、
彼女たちは異をとなえないだろう。

アラブ・イスラム諸国は、女性の解放という点では、矛盾だらけである。親欧的・親帝国主義の国が、時に女性の解放に熱心であるのに対し、革命や社会主義を標榜する国が、女に対しては反動的な立場を取り続けている場合がある。そのよい例はアルジェリアである。1962年、アルジェリアがフランスから独立した時、これでこの国の女たちも解放されるだろう、と多くの人が期待した。女たちは、連絡係や看護婦として、またヴェールの下に爆弾を隠して運ぶなど、反仏武装闘争で大きな役割を果たしたのだから。しかし、そうはならなかった。なぜか。132年に及ぶ過酷な植民地支配と八年間にわたる激しい反仏武装闘争が、一種の反作用、人々の防衛反応を生んだのである。イスラムだけが唯一の反抗イデオロギーであり、過去の伝統的な社会は、帰るべき理想とみなされた。植民地化により破壊されたものを回復することこそが重要だったから、それが疑問視されることはなかった。アルジェリアがフランスから独立すると、女たちは本来いるべきところ、家庭の中に帰っていった。そして再び伝統の中に閉じ込められあた。

実際、伝統的なアラブ・イスラム社会では、女は父権制拡張家族とコーラン法によって保護され、大きな安全を得ていた。女は父権集団に属し、父系の男の親族は、女の親族に対して、経済的・法的・道徳的な責任と義務を負った。女は、何があっても、一生、親族の男の誰かに扶養してもらえた。この親族の男の女に対する責任が、男の女に対する管理と監視の基礎でもあった。

二つ目の指摘には、イスラムになぜルネッサンスが興らなかったかの答えも、
含まれているように思う。
つまり、イスラムによる抑圧よりそのシステムの利便性のほうが高ければ、
誰も文句は言わないだろう、ということだ。
疑い、考え、正し、闘うことよりも、従うことによる安寧を選ぶに決まっている。

しかし、ゆえに、イスラムはやはりやっかいだと、思わずにいられない。
社会の成立と日常の営みにとって、
まるで血液のようになくてはならないものであること、
緩やかさ・寛容さと厳格さの、分かちがたい混淆、
権力や支配にいかようにも都合よく解釈できる融通性、
そして、世界との関わりの中で生にも負にも転化する、信仰に備わった力。

けれども今、アラブ社会がイスラムを捨てることはありえない。
エジプトのような、トルコのような、イランのような動きはあるだろうけれど、
イスラムの人口が増え続けていくことは間違いない。
もはや私たちは、イスラムの友人とどうつきあい、どう理解しあい、
どう心をかよわせながら生きていくかを、考えていくしかないのだ。

この二年で私は、イスラムが愛すべき友人であることを知った。
彼らとの友情を深めることが、私たちを豊かにしてくれるだろうこともまた。

 

 

 

 

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