「安保法制」で私たちが失ったもの、この先の議論に向けて

「安保法制」で私たちが失ったもの、この先の議論に向けて

「安保法制」が路上民主主義を覚醒させたと、
19日未明、参院強行採決直後に書いた。
もの言う人たちの出現は本当に喜ばしいことだ。
けれども政権は、この法制をこのようなやり方で通していく過程で、
私たちから多くのものを奪ってもいった。
「戦争法制」とも呼ばれる法が施行された結果、
未来において何かが失われるのではない。
既に多くのものが失われたのだということを、まず確認しておこう。

失われた民主主義のセーフティーネット

違憲である法を数を頼りに決めていくことは、なにより立憲主義や立法主義を損なうものだと誰もが批判していた。が、それだけではなく、安倍政権はこの法制の審議・採決への道筋で、民主主義の大事なルールを突き崩してしまった。Videonews.comで神保哲夫はこれを「民主主義のセーフティーネットが突破されてしまった」として、以下の4点を挙げている。

  • 内閣権限の濫用
  • マスコミへの介入
  • 閣議決定による解釈改憲
  • 採決の強行

内閣権限の濫用については、あまりマスコミで言及されていないように思う。これは内閣が有する内閣法制局長官の任命権を利用して、「安保法制」に非を唱えない人事を行ったこと等を指す。だがこれまではどの内閣もこの権限を行使せず、政権権力の暴走に対してのセーフティネットたり得てきた。それが突破されてしまった。

内閣に任命権がある以上、これは違法ではない。けれどもこれまでの政治家には、このような独裁的な手法を是としない暗黙のルールがあった。宮台真司は言う。ゆえに、「法律にダメって書いてないんだからいいじゃん」と行使してしまう政治家が現れるまで、そのような政治家が現れるとはだれも思ってもみなかったのだと。

マスコミでは同じくNHKの人事に介入した。民法への恫喝に近いクレームもあった。参院審議中にも、安倍首相は露骨なメディア選別でプロパガンダを広めることに力を注いだ。

解釈改憲のごり押しの理の無さは、日を追うごとにクリアになってきていたし、法案そのものの瑕疵も、法としての文言の不備も、拡大解釈の危険性も、参院審議でより明らかになっていた。

存立危機という言葉には何の意味もなく、アメリカの要請だけで発動する法であることも、米艦警護は赤ちゃんを抱いたお母さんが乗っていなくてもやるのだということも、ホルムズ海峡にどこかの国が機雷を撒くような中東情勢でないことも、ずるずると、あるいは追及の果てに、認められていった。

集団的自衛権の行使容認閣議決定後、この法案が出された頃、安倍首相は何と言っていたのか。イラストボードまで出してのプレゼンテーションは、あれはいったい何だったのか。そのような批判をかわすかの如くの強行採決であった。

「突破」された民主主義のセーフティネット(Videonews.com 2015.9.19)

 

上記番組でも紹介されているが、16日に行われた横浜の公聴会での意見陳述で、弁護士の水上貴央氏から異例の質問が飛び出した。この公聴会は参院での慎重で十分な審議のためのものなのか、それとも採決の前の単なるセレモニーなのか、と委員長に問いただしたのだ。もしセレモニーであり茶番であるのなら、私は言うべき意見を持たない、と。鴻池委員長は、これを否定できなかった。

水上氏の危惧のとおり、16日の特別委員会では公聴会公述の説明すらなく、強行採決が行われた。その強行採決が異例の強硬さで行われたこともまた、しっかりと記憶しておこう。委員でもない自民党議員や、そもそも国会内に入れないはずの秘書らが鴻池委員長を「かまくら」のようにブロックし、委員長の言葉すら聞き取れない状態であるにもかかわらず、佐藤議員(ひげの隊長)の起立せよという腕を上下させる指示によって、採決が行われたのだ。議事録の作成も不可能な騒然さであった。

これについて、野党が採決阻止のために実力行使を行い、それを阻止しようとして自民党がブロックしたというニュアンスで産経・読売などは報道したようだ。が、録画を見ればそれは誤りであることはわかる。海外メディアは佐藤氏が民主党の小西議員にこぶしでパンチしている写真を載せているが、これは、佐藤氏が殴ったのか、あるいは委員長防御でただ腕を伸ばしただけなのか、というようなこととは関係なく、言論の府である国会にふさわしい採決の仕方ではなかった、という象徴的な「絵」としての掲載だろう。

このように国会の存在意義そのものが、法案強行可決で損なわれてしまった。こんな決め方が許されるのなら、そもそも国会は何のためにあるのか、ということである。

・東京新聞:広がる署名3万2000筆 安保法議決「認められない」:社会(TOKYO Web) 9/26

「お任せ民主主義」が阻害してきたもの、招いたもの

もともと議会制民主主義には限界がある。宮台真司がどこかで引き合いに出していた、「選挙の時だけは民主主義だが、選挙が終わればあとは奴隷制」というルソーの言葉が気になっていたので、少し調べてみた。

主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない。一般意志はそれ自体であるか、それとも、別のものであるからであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは、何ひとつとして決定的な取りきめをなしえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれば、自由を失うのも当然である。」(『社会契約論』ルソー/桑原武夫、前川貞次郎訳 岩波文庫 1954年 岩波文庫)

「主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない」は強烈である。そしてここも。「人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。」18世紀に批判されたイギリスの状態が21世紀の日本にぴたりと重なる。
(「一般意思」はルソー思想だけにとどまらないとても大事な概念だろうけれど、面倒だから深い入りはしない。大雑把に、「人民によって形成・析出された政治社会的な合意」というような解釈で読んだ。)

直接民主制は小さな共同体でしか機能しないから、代議制や議会制は民主主義のやむを得ない制度ではあるけれど、ルソーが示した概念は、民主主義というからにはここを忘れてはいけないという、根っこのようなものだ。けれども、戦後70年の歪みがこれ以上ないほどのねじれ度を露呈した「安倍安保法制」強行採決に至る経過で、日本には残念ながら民主主義の根本概念は根付いていなかったことが証されてしまった。

私たちの国の憲法も「主権在民」を謳ってはいる。けれども当の主権者である人民にも、私たちが選んだ政治家にも、ルソーの言う「人民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは、人民の使用人でしかない」という意識は限りなく希薄だ。

安倍首相は「総理大臣の私が言っているんだから(正しい)」という言い方を平然とする。国民はあきれながらも、「使用人」の傲慢さを弾劾するまでのことはしない。支持率という控えめな意思表示数が動くだけである。ゆえに彼は「主人」である人民をなめまくっている。

安保法制は何故これほどまでして今国会で採決されなければならなかったのか。この点は衆院強行採決後の安倍首相TV出演時にもコメンテーターから問われていた。答えは、それだけ国際情勢が緊迫しているから、というようなものだった。けれども、ホルムズ海峡の機雷は非現実的だと首相自らが認め、直後には米中会談が控えていた時点で、どこが緊迫していたというのか。

真の答えは、アメリカの議会での安倍首相の、夏までの可決を約束したスピーチであろう。自衛隊も事前に米軍と同様のことを協議していた。アメリカの軍事予算は既に「安保法制」による日本の軍事費負担増を織り込んで削減されている。今さら先延ばしになどできない、ということだろう。

が、一貫して国民の反対は過半数を超え、今国会での成立反対は6割7割に迫り、政府の説明不十分は8割にのぼっていた。何故安倍政権はこれをアメリカに対する盾にしなかったのか。吉田茂他歴代の自民党政権のように。

安倍政権の思考は真逆なのである。彼(ら)は今を逃したらこのような法律は通せないと踏んでいた。アメリカで約束し、アメリカが法案成立を既成事実として政策を決定しているこの事が、国民の理解を得るまで決定を先延ばしすることよりも優先された。国民に対してアメリカを盾とした、ということだ。

内田樹の研究室/共同通信で配信されたコメント(2015.9.19)

「使用人」が一般意思に沿った政治を行っている限り、路上民主主義は不要である。けれども彼らが一般意思を大きく踏み外した道に人民を引きずって行こうとするなら、次の選挙まで待つまでもなく、一般意思は主張されなければいけない。だからこそ、SEALDsのような路上民主主義の覚醒が意味を持つ。

イタリアを相手に長い時間を送ってきて、当たり前のこととして慣れてしまっているけれど、それが日本には全く存在しないと、あらためて気付かされたことがふたつある。一つはストライキである。かつては日本にも(賃金闘争に限られていたにしても)ストはあった。それがなくなったのはいつからだろう。デモが息を吹きかえしたからには、ストも同様であってしかるべきと思うけれど、その気配さえない。

先進国の憲法では、人民の抵抗権が明確に保障されている。国民/住民投票もしかりである。日本にはこれらが人民の権利であり義務でもあるとの明確な規定やしくみ以前に、一般意思としての合意すらまだ十分ではないように思う(福島原発の事故の後、イタリアでは国民投票で脱原発があっさりと可決されたが、日本の住民投票運動は頓挫したままである)。

もう一つは政治談議である。イタリアでは誰にでも行きつけのバールがあるし、お気に入りの広場があって、そこでの日常的な会話の一つが政治である。サッカーリーグの勝敗予想やファッションやバカンスの情報交換や、家族友人の近況報告と並んで、老若男女が政治談議に花を咲かせている。

翻って日本では、むしろ政治の話を避ける傾向が強い。なににつけ自分の意見を述べるのが苦手な日本人であるが、特に政治的な意見を表明するに強い抵抗感がある。否、抵抗感だけでなく、そんなことを言うと突出した変な人間だと批判される、ネット上で口にすれば炎上するかもしれない、という恐怖感すらある。同調圧力を上回る内面的ストッパーがあまりに強いのだ。このことも抵抗権に対する合意形成を阻害している。

また、デモはダサい、それで何が変わるのか、感情のはけ口に過ぎない、などというネガティブな物言いも出ている。もし先進国と呼ばれる民主主義国家でこのような発言が政治家の口から出たら、その政治家は政治生命を失うほどのことなのに、日本では平然と口にされる。

こうしてみると、「失われた」と書いてきたけれど、それはもともとなかったのだ、ということもできる。このことを実感する場面は、個人的な話になるが、つい最近の友人とのやり取りでもあった。日本はここまで「お任せ民主主義」が根強いのかと、うなるように思い知らされたのだ。詳細はここでは書かないけれど、この「お任せ民主主義」がいかにルソー的な民主主義の根本概念の定着やその成熟を阻害してきたかということを、今回あらためて思ったのである。

「安倍安保法制」が成立してしまった今、大切なのは、この法律でむしろ平和と安全は遠のくとする廃案運動と同時に、日本の安全保障は本当にこれでいいのか、という本質的な議論だろう。そのために必要なのが、ルソーの言う「一般意思」こそが民主国家の主体であるという自覚と、政治に対するコミットメントが日常化するような(まずは行動の前提となる)意識変革ではないかと思う。

だからこそ、路上民主主義とともに、あたりまえに、日常的に、自分の言葉で政治の話をすることを大事にしていかなければいけないと思うのだ。

「安倍安保法制」強行採決が民主主義のセーフティネットを破壊してしまった結果、私たちが再構築しなければいけないものは増えてしまった。しかも、ルソー的な民主主義の地盤は、もともとが脆弱だったのがさらにぐずぐずに緩んでしまった。地盤を固め、セイフティーネットをひとつひとつ作り直すという行為が、あるべき日本の安全保障の議論と同時に行われる必要がある。目的への道は遠ざかってしまったし、要する労力もさらに膨大となった。けれども、道筋がくっきりとクリアになってきたのも確かではある。

高橋源一郎が探し続ける答えとは… 「民主主義と真剣に向き合ってみたら、この国にそもそも存在しなかった」(週プレNews 7/14)

まだ何も終わっていない!? 国会の”内”と”外”で静かに進む「安倍倒閣」の動き ある憲法学者が明かしたプラン | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社] 9/23

  • トップへ戻る
  • カテゴリアーカイブ
  • HOME

コメント

メールアドレスが公開されることはありません。* は必須項目です。


*