少し時間がたってしまったけれど、
選択的夫婦別姓を求める署名に参加もしたし、
裁判結果についてなど、少しだけ。
最高裁で争われていたのは民法の同姓規定。
結婚時の改姓は夫婦どちらの姓でもいいとされながらも、
実際は96%が夫の姓を選ぶという現実があり、
男女同権や婚姻の自由に反し違憲である、という訴えであった。
これに対して、昨年12月16日、合憲との判決が出た。
(併せて争われていた女性の再婚禁止規定は100日以降は違憲という判決)
・残念な判決/5人の裁判官は違憲判断(change.org 2015.12.17)
・夫婦の姓「国会で議論を」 判事5人「違憲」とした理由(朝日デジタル 2015.12.17)
友人たちにchange.orgの署名集めを知らせると、何人かは署名してくれた。朝日新聞の取り上げ方も、かなり別姓に肯定的だな、と感じた。紙面のほとんどは、自分の姓を失う女性たちの苦痛や、事実婚や旧姓利用の煩わしさや不利益、それを女性だけが強いられる理不尽な怒りや悲しみで埋まっていた。同姓を選ぶ(選んだ)人たちも選択の自由はあってしかるべき、という意見が多かった。
別姓を求める声がこれほど大きく取り上げられたのは、初めてのことだったかもしれない。見回してみれば、事実婚や旧姓使用者は周囲に(国会議員や裁判官にも)ごろごろしているし、時代は確かに変わっているのだ。だから違憲判決が出るんじゃないかとの期待は、求める女性たちに高かった。ゆえに、何だまた(まだ)違憲かよ、といったがっかり感もわかる。
けれども私には、「やっぱりね」感が強かった。もう20年も30年も前からずーーーーと言ってることなのだ。国連に女性差別撤廃条約が制定されたのが1979年、日本の批准は85年。国連の同委員会からは、以来何度も法整備を勧告されている。が、日本は平気で放置してきた。
曰く、家族が崩壊する、家族の一体感が失われる、曰く、日本の伝統にそぐわない、曰く、子供がかわいそう、エトセトラエトセトラと、反対論者の声がでかい(数が多い、ではない)。それでいて少子化対策などと同じ口がほざいているのを長く眺めてきた身には、女性が結婚せず、しても子供を産まないのがしごく当たり前に見える。これだけ結婚制度と専業主婦に手厚い法律の下で結婚せず、子供を産まないのは何故か。単純に、結婚にも子育てにも、苦しきことのみ多かりき、だからだろう。
だいたいが、「家族が崩壊する」というのがちゃんちゃらおかしい。とっくに家族は崩壊してるってば。制度と形式の内側でね。おそらく反対論者の方々は、制度と形式こそ家族だと信じておられるのだろう。内実などどうでもいいのであろう。そこでうめき声をあげる個人の(妻や子供の)声など耳に入らないのであろう。
というような冷ややかな眼差しが、あまりに我が身に強固に備わってしまっているがための「やっぱりね」なのだが、憲法学者木村草太氏の判決に対するていねいな解説を聞き、ひねくれていた角度が少し矯正された。
・最高裁は選択的夫婦別姓に理解を示している(Videonews.com 2015.12.19)
10人の多数意見は一見すると選択的夫婦別姓を認めようとしない保守的な判決と読める内容だが、実際はその見方は間違いだと木村氏は言う。なぜならば、今回の裁判は選択的夫婦別姓の是非に対する判断を求めたものではなかったからだ。木村氏は今回の裁判は原告が「氏名を変更されない自由の侵害である」「男女の区別が不平等である」との論点設定で臨んだために、このような判決となったが、別の論点を設定していれば、異なる判決となった可能性が高いとの見方を示す。
最高裁が判決の中で指摘するように、男女のカップルが法律婚を選ぶかどうかは、当人たちの選択に基づく。自らの選択で法律婚を選んでいる以上、それは姓の変更を強制されたと主張することは法律的には難しいと木村氏は指摘する。また、96%の夫婦で女性が姓の変更をしているという実態があるとしても、法律では一方的に女性側に姓の変更を求めているわけではないため、これを男女不平等とする主張も法律的には通りにくいと語る。
しかし、木村氏は今回の判決を法律の専門家が読むと、最高裁は選択的夫婦別姓に対して格別な理解を示していると読める内容になっていると指摘する。論点の立て方を工夫すれば、最高裁は選択的夫婦別姓を認める用意があると判断しているとの見方が可能だというのだ。
木村氏は、今回はダメだったけれど、別の道を通ってアプローチすれば次は登れるんじゃないか、というような言い方をしている。もうひとつ、氏の指摘で大きく頷いたのは、事実婚の内実を法律婚と同レベルになるよう法律や制度(慣習や意識も、だよね)を整備していくべきではないのか、という点。
だいぶ前から、少子化対策には事実婚にもっと便益を与えるのが有効だ、という意見はあった。実際フランスでは、事実婚の制度上の扱いがほとんど法律婚と変わらず、手厚い子育て支援もあって、先進国中唯一少子化から抜け出した(2006年に合計特殊出生率が2.0を超えた)と評価されていたのだ(移民が出生率を押し上げているという説もあるが、他の移民受け入れ先進国で共通して出生率が上がっているわけではない)。が、日本ではこの意見に反応らしい反応がなかった。私も何回か口にしてみたことがあるのだけれど、日本ではあまりにハードルが高い、道が遠い、といった答えが多かった。
けれども振り返ってみると、事実婚はいつのまにか市民権を得るようになっていた。制度が個人の幸福を保障するのではなく、むしろ苦痛を強いられるのでこれを選択したくない、できないのだとしたら、その強いられた事実婚という状態の改善を求める権利は当事者にある。この場合の当事者には生まれてくる子供も含まれる。
この論でいえば、旧姓使用の不便さの解消も課題になる。使用容認のエリアを広げていくこと。旧姓使用の友人(妻の姓に改姓した男性)に、旧姓併記のパスポートをかちとった人がいる。旧姓で仕事をしている人が海外でも旧姓で通すためには、パスポートに最低でも併記は必須である。これが個別の裁量判断で許可されるのではなく、申請があれば無条件で記載されるようになってほしい。民間で獲得した幅が官公エリアに広がっていくことの効果は計り知れない。実態がほぼ夫婦別姓ということになれば、さすがに制度も見直されるだろう。
木村氏の提言では他にも、「事実婚」という呼称はおかしい、「民法婚」と「契約婚」とするのが良いだろう、とか、選択的別姓だけでなく、婚姻時に新たな姓を選ぶ選択肢もあっていい等、示唆に富むものが多く、あらためて若き憲法学者への評価と好感度が高まったことであった。
少子化対策について考えると、問題は単に労働力不足という産業経済にとっての脅威だけではなく、日本という共同体・国家のありかたと、共同体・国家と個人のかかわり方の両方で根本に横たわる問題があって(日本だけの問題ではないんだけれど)、話が深く、かつ広くなってしまう。でも案外ことはものすごくシンプルなのではないか、という気もする。
資本主義の行き詰まりやグローバリズムの弊害というと、じゃあどうしたらいいんだろうと途方に暮れるけれど、個人の暮らしを守るための制度がむしろこれを損なうためにあるのなら、それ、変えればいいんじゃないの、ということだ。
それができない日本には、こんな人も出現していた。
調べていて驚いた。1997年。日本人の、結婚届を出さないで子どもを生んだシングルマザーが、オーストラリアで「日本で婚外子を持ってシングルマザーで生きることは社会的迫害を受ける」として難民認定されていたのだ。どうやらその他にも日本が排出している難民がいるらしい。もっと調べてみたい。
— きのしたしげる (@shigeru928) 2016, 1月 9
真偽のほどはよくわからない。もちろんよほどのケースで、かつ本人の意志や能力の問題もあるだろう。でも、あり得ないことじゃないなあ、と思った。制度もそうだけれど、コミュニティーの包摂性に失望したとき、生存本能から他の場所へ逃れ出ていこうとするのは、私などよくわかるのである。
木村氏の解説はYouTubeにもあがっていたので、貼り付けておこう。
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