フランスの「テロ」では、思いがあちこちに錯綜している。
どう整理したらいいのか。
テロリストの目的は何だろうと考える。
この「テロ」は、成功だったのか失敗だったのか。
盛り上がるのは「私はシャルリー」と「表現の自由はテロには屈しない」、である。
引き起こした効果の大きさを見ると、
9.11と同様成功だったのだと、やはり思う。
もう一方の勝者はシャルリー・エブド紙だろう。
この勝者に、きっと、移民排斥とイスラム・フォビアが連なる。
表現の自由で守られるべき「風刺」についても考える。
「風刺」も「ペン」も(それを言えば「テロ」も)、
権力や国家や多数派の武器ではなく、
常に少数者である弱者が持つ、数少ない武器の一つではなかったか。
シャルリー・エブド紙は、イスラムとムハンマドばかりではなく、
キリスト教やローマ法王も戯画化していたという。
だが、キリスト教圏にして政教分離が国家的命題であったフランスで、
旧植民地からの移民が、建前の同化政策と現実のダブルスタンダードに引き裂かれ、
支柱としてのイスラムに回帰せざるを得ない社会状況がある中、
多数派のキリスト教と少数弱者のイスラムは、同列の風刺の対象たり得るだろうか。
少数弱者を攻撃する「風刺」は、真の意味で風刺なのだろうか。
イスラムの人たちがクリスチャンであるフランス人と同じように、
「風刺」を笑い飛ばせる、笑い飛ばすべきだ、という理屈は、通らないと思う。
FBでモロッコのミュージシャンが、「私はシャルリー」と表明してきた。
迷わず「いいね!」を押した。
非イスラムの「私はシャルリー」とイスラムにとっての「私はシャルリー」は、
明らかに意味が違う。
自分たちが大事にしている価値基準を侮蔑的に攻撃する「風刺」を支持するには、
痛みを伴う寛容が必要だからだ。
今回のテロが「喧嘩を売った」ことは確かだ。
だがそもそも、最初に喧嘩を売ったのは誰か。
彼らがその売られた喧嘩をこのように買ったとして、
それを非難する側は、どのようにこの喧嘩を買うのか。
9.11の喧嘩をあのように買ったこの結果の再生産を、もう見たくはない。
【参考】
「表現の自由」に名を借りた“暴力”(フランス「シャルリー・エブド」襲撃事件)
(土井敏邦WEBコラム 1/9)
これはテロでなく集団殺人事件だ Parisシャルリ・エブド襲撃事件を斬る-藤原敏史・監督
(FRANCE10 日仏共同テレビ局 1/11)
【イスラム・パリ銃乱射】”Je suis charlie”を掲げることは卑怯な行為だ
(はてな匿名ダイアリー 1/10)
1/12
“Je suis charlie” について。
上記参考サイトの最後にあげたブログ記事もあり、その後も「私はシャルリー」ついて考えている。筆者は、これは日本で言えば在特会が襲撃され、その暴力に反対だとして、「私は在特会」と掲げるのと一緒ではないのか、と問う。シャルリ・エブド紙のイスラムやムハンマドの風刺画はイスラムヘイトではないのか、という点についてはそれはあると思う。また、「私はシャルリー」を掲げる人びとの中には、イスラムヘイトや移民排斥を訴える人たちも当然紛れ込む。たとえ表現の自由への支持の表明ではあっても、諷刺画の内容に無批判なまま全面支持することは誤りではないか、というのも、もっともだと思う。社会が一気に「私はシャルリー」一色になるのも不気味だ。
筆者はまた、襲撃で犠牲になった警官がイスラム教徒であったことから、その警官の名前をかかげる「私はアフメド」を、これこそ表現の自由を守る標語だと紹介する。
「私はシャルリーではない、私は死んだ警察官であるAhmedだ。シャルリーは私の信仰と文化を嘲笑し、そして私(Ahmed)は彼のそれ(風刺)を行う権利を守るために死んだのだ。#JesuisAhmed」
この記事にはかなりコメントが付いていた。それだけ皆が興味を持ったということで、結構なことだと思う(たとえ消耗するようなコメントが多くても)。標語というのは、常に細部も背景も切り捨てるもので、その切り捨てられたものへの視点、及びその検証・考察は、特に今回の場合とても重要だと思うからだ。
だが、ことはそんなに単純ではないような気がする。まず、シャルリー・エブド紙は、在特会のように特定の国や集団だけを「風刺」の対象にしていたわけではない。また、シャルリー・エブド紙をKKKやナチスと同列に置くのは、根底に同質のレイシズムがあるとしても、極端な話だ。
難しいなあと思う。フランス人(以外でもほとんどの人)は、この件に関しては、差別的で不愉快な逸脱した表現も「表現の自由」として認める、それに対する暴力的な攻撃は許さない、この価値観は普遍絶対である、と言う。だがヨーロッパは、人種や性にに対する差別的言行に関しては法律で禁止している。私はシャルリー・エブドの諷刺画をほとんど見ていないけれど、おそらく、ユダヤ人を揶揄するような絵はないのではないか。
また、徹底した政教分離を掲げるフランスを筆頭にした世俗社会の価値観が、宗教に対する諧謔や揶揄を是とするものである以上、「私はシャルリー」に単純明確な共感を覚えこそすれ、下敷きにあるレイシズムにまで意識は届きにくいのではないか、とも思う(明らかなレイシズムという形で成された表現は別にして)。同時に、オランド大統領が直後の声明でも触れたように、このテロへの非難・抗議は、イスラムとイスラム教徒を排斥・攻撃するものではない、してはならないとの認識は、ある程度は共有されているとも思う。
昨日のパリの抗議集会には160万人以上が参加し、オランド大統領らフランスの政治家だけでなく、キャメロンやメルケル、イタリアのレンツィといったヨーロッパの首相たちだけでもなく、トルコやロシアの首相や外相に加え、ヨルダンのアブドラ国王、更には、イスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナのアッバース議長までもが招かれた。かなりに政治色の濃いデモンストレーションとなったが、あくまで抗議は「諷刺」やデモといった平和的手段にとどめておいてもらいたいと切に思う。
この勢いと支持を、武力攻撃の容認に結び付けることが、もう一つの危惧だ。9.11後の「テロとの戦い」は、さらにテロを増やしただけだった。「暴力に屈しない」は、「暴力では何も解決しない」、「暴力に解決を求めない」というメッセージであるべきだ。「私はシャルリー」を、そのような意味を込めた標語として育てていくことも、できるのではないかと思う。
パリのデモに参加したあと、トルコのダウトオール首相は、「ヨーロッパでイスラム教徒や移民を排斥しようとする動きが出ていることに懸念を示し、『宗教や文化の異なる人々が共存し、誰も排除されない環境が守られるべきだ』」と述べた(NHK)。
思想・信条・信仰・表現の自由を絶対とする自由主義の価値観と、神とムハンマドを絶対とするイスラムの価値観がどのように共存できるのか。二つの「絶対」が「絶対」を主張し続けるのなら、対立は深まるばかりだ。フランスの、イスラム教徒もフランス人として受け入れているんだからフランスの価値観に従うべきだ、という「絶対」も、「神」という「絶対」を疑えるフランス人なんだから、一度疑ってみたらどうだろう。
たとえ二つの「絶対」が平行線のままだとしても、「理解はできないし賛同もしないけれど、自分とは別の価値観があることは尊重し、受け入れる」しか、もはやないのではないだろうか。それくらい平和的な共存が、どちらの側にとっても必至なのだと思う。これが出来ないとなれば、同じ価値観の者だけが居住を許される移民排斥国家になるしかない。だがそれは、もはや自由主義の国ではない。フランス(欧米)的価値観の敗北であり、その意味で、テロの勝利なのだとも言える。だがそれで、テロリストたちは満足するのか。
それにしても、テロの目的とは何か。恐怖と怒りと憎悪を煽ることで達成されるものなど、果たしてあるのか。最初の問いに戻ってしまった。
【参考】
コメント『産経新聞』1月9日朝刊 (中東・イスラーム学の風姿花伝/池内恵)
コメント『毎日新聞』1月10日付朝刊(中東・イスラーム学の風姿花伝/池内恵)
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フランスも9.11後のアメリカと同じ道を行くのか。
即ち、対テロ撲滅に名を借りたイスラム圏国家への更なる武力介入と、
国内での検閲の強化。
もしそうなら、これは大いなる矛盾である。
諷刺という非暴力の武器を守るための暴力行使と、表現の自由の監視・規制。
これらがどういう結果を生むのかは、アメリカのその後が語っているというのに。
仏首相:「テロとの戦争に入った」…治安強化を表明(毎日新聞 1/14)
この記事では、フランスの選択が今後の世界情勢を左右する、とまで言っている。
テロがフランスに突きつけた重要な選択
人口に占めるイスラム教徒の割合がEUで最も高いフランスが、コミュニティー間の緊張や過激な政治思想に屈することになれば、他の欧州諸国はよからぬ教訓を引き出すことになるだろう。
現実的なレベルでは、2017年の次の選挙後にルペン氏が大統領に就いたら、恐らくEUが崩壊することになるだろう。ドイツがフランスの極右政府と協力できる道筋を描くのが難しいからだ。崩壊するEUと勢いを取り戻す極右勢力は次に、国家主義と民族的セクト主義が再び跋扈する欧州を生み出すレシピとなるだろう。
あれほど多くの世界の首脳が日曜の行進のためにパリへ赴くことにしたのは、恐らくフランスの出来事の重大さを認識したためだろう
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