「森友学園」で怖いのは、疑惑(不正)がなければ開校していただろうということ

船が沈みかかっているような気がする。
驕れる平家久しからずというか、命運もいつか尽きるというか。
それとも、ただの希望的観測か…。

さんざん言われてきたことを繰り返すつもりはない。9億が1億になった土地取得の疑惑である。誰が口利きをしたのか、忖度だったのか、賄賂はあったのか、というようなことである。問題の本質はそういうことではないだろう、と思っていた。いや問題ではあるが、ことは国有地の単なる不当売買だけなのか、ということである。

16日、「(小学校建設にあたって)金の流れは逆」とのニュースが流れてきた。籠池氏の口からは「安倍首相から寄付」との発言が飛びだし、これを受けてようやく氏の国会への証人喚問が決まった。いきさつや真偽のほどが明らかになってくると期待したい。

思っていたのは、もし学園がすんなり9億円で土地を取得していたらどうだったのか、ということである。総理夫人はそのまま名誉校長で(公人でも私人でもどちらでもよい)、順調に小学校は開校となり、生徒たちは教育勅語を唱和し、外国人出ていけ、と叫んでいたかもしれないのだ。どうして皆そのことに恐怖しないのかが、不思議でならない。

「愛国」教育を推し進めるに、教科書の記述に関与するなどという遠回りなやり方ではなく、もっと直截的な場が欲しいと思う人たちはいるだろう。「日本会議」はもちろん、おそらく安部総理夫妻もそう思っていたのではないか。だから「逆」はあり得ると、私は思う。むしろそれを織り込んでの開校だったのではないか。

籠池氏や協力者が、あまりに目に立つ、かつ制度や倫理を無視したやり方でことを勧めてくれたのは、その意味でむしろ良かった。政治家や官僚が国民の財産や政治を私物化している度合いが過ぎて、あるいは国民をなめすぎて、このようなほころびとして顕在化したのなら、それはむしろ良かった。

ただし、これで逃げ切られてしまえば、次は、あるいは次の誰かは、国有地などではなくてどこかの土地を合法的に取得し、メディアの目に止まるような逸脱は控え(何かの折にも教育勅語唱和などはさせず)、じっくりと計画を練り、森友学園が講演に呼んでいたような人たちはことが進んでからお越しいただくことにし、寄付を募り、できれば授業料無料にできるくらいの寄付を集め、教科書はすべて自前で、思う存分「愛国」教育を実践するだろう。

自民党議員の多くが「日本会議」のメンバーであり、閣僚もそうである。もし籠池氏のような「ドジ」を踏まなければ、相当のことが出来る。憲法改正や「駆けつけ警護」には国民の目があり、なんとかつじつまの合う説明をしなければいけない。建前は民主国家であるからして。でも、目の届かないところでは、あるいは目を届かなくさせれば….。

何故安部首相も稲田大臣も、籠池氏に否定的な発言を繰り返すのか。もし籠池氏の実践しようとしている「愛国」教育が、本当に国のためになると信じており、国民の支持を得るという自信があるのなら、講演も寄付も堂々と行えばよい。籠池氏は立派な人であると、一貫して擁護すればよい。

安部首相にしろ稲田大臣にしろ、自分たちの政治的本音と民主国家日本(国民)との間にかい離があるのをよくわかっているのであろう(甘い!と小田嶋さんは言うだろうけれど。詳細は末尾にて…*)。稲田大臣はぽろぽろと本音をもらすが(だから安部首相に重用されている)、それでも抑制はしているはずだ。

国会の場で追及してほしいのは、政治家と官僚の国家財産の私物化の問題に加えて、何故彼らが「愛国」教育をそれほど優遇・応援したのか、それを民主国家日本にふさわしいものであると思っているのか。もし森友学園を否定するのなら、それは何故か。もし関与したにもかかわらずその後否定に転じたのなら、国民に肯定擁護できないものを何故優遇・応援したのか。

籠池氏は16日の参院予算委員会の調査団にこう語った。

我々がこの学園をつくり上げようとしたのは、みなさん方のご意志があってこそだと思う。そのご意思のなかには、大変恐縮ですが、安倍内閣総理大臣の寄付金も入っていることを伝達します。
【森友学園】「安倍首相から寄付金100万円」籠池理事長が発言、首相側は否定(ハフィントンポスト)他多数のメディアが報道

森友問題を最初に追及 木村真市議が語った「疑惑の端緒」(日刊ゲンダイ 2017.3.16)
安倍政権、学校・土地・ナショナリズムめぐるスキャンダルに直面(BBC 2017.3.17)

3/18

*小田嶋さんの見方は、もっと悲観的なものだ。
「教育勅語」を愛する人々(小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明/日経ビジネス 2017.3.17)

(稲田大臣の教育勅語肯定発言に対して)彼女は、どちらかといえば、誇らしいというのか晴れがましい気持ちで自分の道徳観を開陳していのだと思う。ご本人の自覚としては、断じて誰かに媚びるために過去の禁じられた徳目を称揚してみせたのではないのだろう。

松野文科相にしてもおおむね同様だ。政権の中枢への目配りがなかったとは言えないものの、彼自身、教育勅語が道徳的に優れた文書である点は疑っていない。

私が当初から感じている薄気味の悪さは、実にここのところにある。
この物語に登場する人物は、誰もがテンから教育勅語を「良いもの」だと信じ切っているのだ。

それだけではない。
観察するところでは、現状の日本人の多数派は、どうやら、教育勅語を悪いものだとは思っていない。
これは、私には受け容れにくい状況だが、事実なのだから仕方がない。

・・・教育勅語も、天皇に関する部分だけを取り除けば、十分現代にも通用する好ましい徳目だと、そう思っている日本人は少なくない。というよりも、日本人の多数派がそう思っているからこそ、文部科学大臣や防衛大臣が、公然と支持を表明したのであって、赤旗がどう言おうが、朝日新聞があきれてみせようが、実に世の趨勢は既に、教育勅語復活に傾いているのである。

われわれは、既に戦前の世界で暮らしているのだ。
なんということだろう。

・・・その「教育勅語」のキモというのか、核心に当たる根本思想は、「個」よりも「集団」を重んじ、「私」よりも「公」に高い価値を置き、個々人の自由よりも社会の秩序維持に心を砕く社会の実現ということで、・・・何より美しいとされるのは、自分以外の何かや誰かのために自分の命を捨てる人間の姿だってなことになっている。

・・・

戦前の日本の子供たちを皇軍の兵士に仕立て上げるにあたって大きな役割を果たし、そのことで一度は教育現場から追放された教育勅語が、いままた復活への道を歩みはじめている現今の状況は、私の思うに、大げさに言えば、戦後の平和教育ならびに戦後民主主義の敗北ないしは解体を意味している。

4/20

どうやら尽きつつあるのは政権の命運ではなく、戦後まがりなりにも私たちがそれによって生き、尊重され、守られてきたところの「あるもの」であるようだ。そこに働いているのは忖度などというものではなく、その「あるもの」を葬り去ろうという意思なのだと、私には思える。

小田嶋さんが着目した教育勅語は、その後、憲法に反しないような範囲であれば教育資料としての利用は問題ないという閣議決定までされてしまった。強い意志と、それに同調的な「世の趨勢」あってこそ、である。

けれども政権も完全に勝利したわけではない。いきなり私人を証人喚問するという、ある意味懲罰的な意味を帯びた図式にあって、国家に対する一個人の籠池氏は予想以上にまともで、堂々と落ち着いて見えた。言葉も、政治家の上滑りな捻じ曲げ解釈弁明言葉に比べるとまっすぐであった。可視化というのは大事である。メディアによって作られたイメージがあれで変わったという人もいたのではないか。

ということでこの件、これで終わりではないはず。と、やはり思いたい。

6/11

興味深い展開。

菅野完・緊急寄稿 森友学園に群がった“安倍人脈”の面々〈週刊朝日〉

この2カ月の間に、「教育内容やカリキュラムを今一度精査し」たことが報告され、「この検証作業の結果、『教育勅語の奉唱』『軍歌・戦時歌謡の類の斉唱』『伊勢神宮参拝旅行』『自衛隊行事への参加』などは、学校法人としては改めるべき内容であるとの結論に再度至」ったのだ…

 

ウソの上の政権  2018.3.10

ウソだらけじゃん、というのがこの間ずっと思ってきたこと。一年たって、そのことがもはやだれの目にも明らかな形で示された。いや、既に誰の目にも明らかだったのだが、証拠がないとしらを切られ、そういう政権の異常さに国民がマヒしていただけか。

森友学園土地取引契約に関して、近畿財務局の決済書類が改ざんされていたと、3月2日の朝日新聞が報じた。続報も続いたが、国会での追及は進まず。そこに9日、国税庁長官(元財務局長官)である佐川氏の辞任と、改ざんにかかわったと思われる男性職員が自殺していた、という二つのニュース。

佐川氏はいずれ辞任するだろう、それで幕引きを計るシナリオだろう、と思っていた。財務局長官と国税庁長官では退職金の額が違う。国会でウソの答弁を繰り返した褒章と、遠からずやってくる引責辞任まで見越した人事ではないか、とも言われていた。だから佐川氏は記者会見も開かなかったのだ、たぶん。この日まで、逃げ切るつもりで。

安部首相は、もし自分や夫人が森友学園の不正土地取引にかかわっていたとすれば、総理大臣も国会議員も辞める、とタンカを切った。保身のための切り替えし言葉も、一国の首相が口にしたとたん、あってはならない、決してそうなってはならない、ひとつのタガと化した。そして、それに至るあらゆる証拠が、隠滅廃棄改ざんされる運命となった。

一般人だったら冷笑に付されて終わりの空威張りと、(首相が確信犯的に関与してはいないとしても)「忖度」が、汚れた雪をまといながら肥大していったようにみえる。書類もデータも、企業に限らず、行政のあらゆるところで、隠滅廃棄改ざんが行われてきたのではないか。日常と化していれば、感覚はマヒする。超えてはいけないレベルを、超えてしまう。

南スーダンPKO自衛隊の日報問題と同じだ。まず「戦闘状態ではない」という発言があり、そのウソッパチを守るために日報は破棄された(ことになった)。

あちこちでいろんな人がこう言う。官邸が官僚の人事権を握った結果だと。結果、官僚は官邸の顔色をうかがい、意に添うようにしか動けないのだと。でもね、そればっかりじゃないでしょう。握った権力をどう生かし、どう使うのか。品も格も志も理念も矜持も、みんなひっくるめての政治家としての、もっと言えば人間としての質。

世論の反対が多い法案も、こじつけ理由と強行採決でつぎつぎに成立させ、野党の臨時国会開催は無視し続け、開いたとたんに内閣解散。消費税先送りで選挙を戦い、勝てば改憲にも支持を得たと言い放つ。「アンダー・コントロール」から吐きつづけたウソは数知れない。「朝日はフェイク」と、どの口が言うのか。

権力は必ず腐敗し、独裁を目指すもの、かもしれない。でもこの政権に関しては、最初から腐っていたのだ。だから「ナチスの手口」などという言葉がポロリと出てくる。

おかげで、「立憲主義」という言葉に光があたるようになった。これまで、政権を縛るのが憲法だ、政治は国民の定めた憲法理念に依って行われるべきだ、と声高に叫ぶ必要が無かったのは、これまでの政権がそれでも立憲的だったからだろう。

「行政が歪められてしまった」とは、前文科省事務次官の前川喜平さんの言葉である。「歪められた」行政は、犯罪に手に染めるまでにもなる。ぽろぽろと発覚する企業の隠ぺいやデータ改ざんに、国までも連なってしまったのだ、この国は。

ふと思う。ブロックチェーンの技術で、行政と政治を縛ることはできないものか。日本人がマヒして、あるいは目くらましにだまされて、あるいは監視に疲れてしまっても、世界の誰かが、次々に加えられる鎖に目をこらし、不正や腐敗や不義を弾き飛ばしてくれないか。というか、ブロックチェーンならそもそも書き換えや廃棄は不可能なはず。行政文書にこそふさわしい技術かもしれない。

追記しようと思ったのだが、(既に)長くなっているのでこの続きは別記事で。

ウソの上の国会、ウソの上の内閣 — 「森友学園」書類改ざんは自衛隊日報隠しとおなじ

  • トップへ戻る
  • カテゴリアーカイブ
  • HOME

コメント

メールアドレスが公開されることはありません。* は必須項目です。


*