是非見たいと思っていた映画だった。
見られて良かった。
予告編やちらしなどにちりばめられた本人の言葉から、
福島菊次郎という反骨の写真家のイメージは、
すでにある程度出来上がっていた。
「問題自体が法を犯したものであれば、
報道カメラマンは法を犯してもかまわないんだ」
「表に出ないものを引っ張り出して叩きつけてやりたい」
「根源的な意味で言えば、日本全体が嘘っぱち」
いずれもかなり強烈である。
ここで文字にしてみると、強烈さは更に増す。
映画もきっと、強烈さを前面に出しているのだろうと思っていた。
実際は少し違った。
これらの言葉も、映画のなかで90歳の本人の口から語られると、
少しも強烈ではなく、ごくあたりまえのこと、普通のことのように感じられた。
それはきっと、90年の人生のなかで、彼がこれらのことを、
ごくごく当たり前のこととして、生きてきたからだと思う。
加えて、このタイミングである。
「ヒロシマ」から「フクシマ」に繋がる「ニッポンの嘘」が、
もう、こう文字にしただけで、何の説明もいらないという「今」。
じわーっと効いてきそうなのは、
90歳にして自立している、日々の暮らしの様相だ。
「もう孤独死しかないんですよ」というようなことをつぶやいていたが、
彼はきっと孤独死しないような気がする。
”人は生きたように死ぬ”のだとしたら。
たとえ無人島で自給自足の暮らしをしようと、
福島菊次郎は、真の孤独とは無縁だったのではないかと思う。
そのことを、映画はきっちりと描き出していた。
「(東京にいると、同じように)自分も腐っていくような気がして」、
故郷に近い無人島に移り住んだ。
60歳を超えていた。写真も捨てるつもりだった。
だが、一緒に暮らす女性がいた。
無人島なのに、広島県警のテントが張られた。
彼が捨てようとしたニッポンを、ニッポンは捨てなかった、ということかもしれない。
しかし、こんな老人になりたいものだ(なれるものなら)。
もうひとつ。
これは是非若い人に見て欲しい映画だ。
日本の、ついこのあいだのことを知るために。
全学連も成田闘争も、そうそう、ウーマンリブも、
ついこのあいだのことだったのだ。
その少し前が「ヒロシマ」で、敗戦後の町には、
はだかの子どもがいたのだ。
戦争によって孤児になった子どもたちがいたのだ。
この光景は、世界では、今のことなのだ。
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