スカーフとイスラム

スカーフとイスラム

◆『神の法 vs 人の法』- スカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層
内藤正典 坂口正二郎[編著]日本評論社 2007.7

イスラムと政教分離で考えを整理しながら、
この本をぱらぱらと読みあさったり、
以前読んだ『ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか』の抜粋
を読み直したりしてみた。それにつけても思うのは、
スカーフ論争ひとつ解決できない西欧とイスラムの深い「断層」である。

スカーフ論争は、足を踏み入れるとつくづくやっかいな問題だとわかる。スカーフは単に宗教シンボルというだけではなく、個々の女性にとっての意味合いが様々であり、多重的でもあるからである。またその社会の宗教的(政教分離的)意味合いや度合い、道徳的規範によっても、かぶる/かぶらないの選択の意味が異なってくる。

何年か前のこと、新聞でこの問題を読んだ。フランスだったかムスリムの女性の、スカーフは女性差別だと批判されているが、私たちはイスラム圏ではかぶれと強制され、ヨーロッパでは脱げと強制される。いずれも私たち女性に着用・非着用の自由がない点で同様に(イスラム)女性差別である、とのコメントが記憶に残っている。

彼女の言によれば、着用が強制される社会では着用しないことが女性の権利の獲得になり、着用が禁止される社会では着用することが女性の権利となる。ヨーロッパ各国の着用禁止に伴い、女性の自由や権利意識の高い層からの反発や、着用の是非を争う裁判などが出てくるのにはこの流れもあろう。

今年の夏、欧州人権裁判所に提出されていたフランス人女性の訴えに判決が出た。女性は、ブルカやニカブなどの全身を覆うイスラム女性の装いを禁じる法律は、非人道的かつ尊厳を傷つけるものであり、プライバシーの権利や思想、良心、宗教、言論の自由に反し、差別的である、と訴えていた。女性は、自らの意志で着用しており、治安上必要な場合は脱ぐ、という二点で、ブルカは女性差別と治安の問題とはならないと主張していた。

フランス政府は、同法律はムスリム女性への差別を意図したものではなく、公の場でのあらゆるベールの着用を禁ずるものであり、バイクに乗る時以外のフードやヘルメットの着用も禁ずるものであるとし、裁判所は、同法律は人々が共に生きる社会を維持する上で(顔を覆うことは個人の特定を妨げるので)合法であるとした。

フランス:欧州人権裁判所が「ブルカ禁止法」を支持 (アジア女性資料センター 2014.7.9)

フランスは欧州の中でも政教分離規定の一番厳しい国であり、公共の場所での宗教的シンボルは、それが他者に宗教的おしつけがましさを与えるならば、十字架といえども禁止の対象となっている。そういう点では一見公正であるように思えるし、上記法律もニカブだけでなくヘルメットも同様の扱いとする点で、やはり、イスラムだから禁止しているわけではないという公正さを装っている。

だが、法的には公正と言えるかもしれないが、現実的にはヘルメットを常時かぶっている人はいないだろうし、実際に取り締まりの対象になるのはほぼイスラム女性だけだという。としたら、やはりこれはイスラムを標的にした法律だと言える。

公共の場所での宗教シンボルについては、厳格なムスリム男性はあごひげを生やす規範がある。トルコの政教分離では男性のあごひげも禁止しているが、欧米では女性のベールばかりが取り上げられ、男性のあごひげは誰も気にしない。

ドイツはフランスほど政教分離が厳密ではなく、ベールを理由に教員に不採用となった女性が起こした裁判では、イスラム女性が勝訴している。だが、それ以後、ドイツの各自治体が独自に制定できる法律で、多く公共の場でのベールは禁止となってしまった。

欧州各国には政教分離の程度や宗教政策、多文化主義や同化主義などの移民対策に差異があるにも関わらず、合法的な法律の解釈により(様々な言い逃れや言い訳を駆使して)、いずれの国でもベール着用禁止を強化している、という印象だ。

しかし何故、ベールはそれほど目の敵にされるのだろう。
公の理由は、以下の三点だとされる。
① 政教分離(普遍的価値)など、その国の価値基準は信仰の自由に優先する
② 女性抑圧からの解放
③ ニカブなどの全身を覆うものの治安の問題

フランス人ジャーナリストの見解を見てみよう。
フランスのブルカ禁止には大賛成(Newsweek 2010.7.28)

こちらは「ブルカ禁止法」の背景や矛盾点の考察。
「ブルカ禁止法」がフランスの理念と現実の矛盾をあぶりだす(メールマガジン「オルタ」)

これらによると、ブルカ(ベール・スカーフ)反対の本音は以下となる。いずれも9.11以降顕著となっている。
① イスラム化が進むことへの反発、イスラムに対する警戒感
② 反移民感情、移民選別
② キリスト教的、ヨーロッパ的価値基準やルールが順守されないことに対する反感

特に、ブルカやニカブに対する「顔が見えないこと」に対しては、生理的な反感があるのではないかと思う。「ニカブ禁止法」に賛同するある日本女性は、ブログで「こういう人が近くにいたら怖くて仕方ないです」と書いている。これは私自身のことを振り返ってみてもよくわかる感情で、向こうからこちらの顔は見えるのに、こちらからはまるで見えない全身真っ黒な人に相対した時、判断がまるでできない不安感が高まり、双方向性が拒否されている点で不公平さを感じたりもするのだ。

がしかし、これもある種慣れである。私も、最初のカイロではベール姿の多い少ないを気にしていたのに、二度目は肌を露出した欧米人のおばちゃまたちの、胸の谷間やひざこぞうのほうが気になった。

ベール着用には宗教的なシンボル性ばかりが強調されるが、実は道徳的な側面が強い。美しいところと陰部を覆い、男性の性欲を刺激せず、男性の視線を遮るべしというのがクルアーンに記載されていることである。だからどこまでをどのように覆うかは、社会だけでなく、個人の判断によっても異なってくる。だが、この慣習の下では、「スカーフを脱げ」は、「スカートを脱げ」と同じ意味になるのである。

というようなことと同時に思うのは、忌避嫌悪し、禁止することによって、スカーフやニカブは別の意味を獲得してしまった、ということ。彼女たちはヨーロッパキリスト教文化圏のスカーフ禁止の本音をよくわかっている。であればこそ、スカーフやニカブは反イスラムに対する抵抗のシンボルとなるのである。

また、イスラム回帰やイスラム拡大の流れで見ると、ムスリム社会に生まれたごく普通にムスリムである人たちよりも、成人後自覚的にムスリムを選択した人たちのほうが信仰に強い思い入れがあり、規範をより厳格に守ることによって信仰上の満足を得ようとする傾向も強い(移民二世・三世や改宗者)。彼らはまた、反イスラムに対する抵抗意識も高いと言える。

これらのことを考慮しない忌避嫌悪禁止では、西欧とイスラムの「断層」は、狭まるどころかさらに広がってしまうのではないかと思う。

今年の夏、フランスのニカブ禁止法の裁判のニュースの後、興味深い記事を読んだ。
ヴェールのファッション化と宗教言説の変容 ――「ヘガーブ・アラ・モーダ」の誕生 
後藤絵美 / 西アジア・中東地域研究 (SYNODOS 2014.8.19)

エジプトのヘガーブ(ヘジャブとも呼ばれるベールの一種)が、カラフルでファッショナブルになってきているという話で、イスラム女性たちがおしゃれを楽しむ様子が紹介されている。これは、人気説教師のベール解釈の影響だという。アジアのイスラム国でもヘジャブのデザイナーの話をテレビで見たことがあるが、やはりとてもファッショナブルであった。つまりイスラムのベールは、その意味合いも姿も、社会や時代によってとても流動的だ、ということである。

一方では、つい最近こんなニュースもあった。
イランで女性への酸攻撃相次ぐ、「不完全なヒジャブ」が理由か:AFPBB News (2014.10.20)

イランのイスラム法ではヒジャブ着用が義務ではあるが、近年ファンション化も進んでいたようだ。それにしても、それを神でも法でもなく、人が、このような形で裁くことはイスラム法的にも許されないはずだ。自由化や流動化だけでなく反動もまた顕わにある。だがこの反動は、ヨーロッパのベール忌避嫌悪禁止の感情的強権性とよく似ているし、その増長とパラレルのような気もする。

こんな調査があったので、最後に紹介しておこう。イスラム圏7か国の人々が公共の場で女性のベール着用でいずれのスタイルが好ましいと思うか、女性には自分の衣装の選択が可能であるべきか、を問うたもの。ただしイランは調査対象には入っていない。英文ながら図表だけで一目瞭然である。これらは、その国のイスラム色の強弱だけでなく、イスラム人口の多少にもよるのだけれど。
How people in Muslim countries prefer women to dress in public
(ミシガン大学の調査/FACTANK 2014.1.8)

 

p.s.1

中東に行ってみて気付いたことが二つある。一つは乾燥砂漠地帯の空気がごくごく微細な砂を含んでいること。それを実感するのが髪の毛である。海辺にいると潮で髪がじっとり重くなるが、それと同じようになるのだ。おまけに乾燥のため、じっとりなのにばさばさになる。防護策はスカーフである。それがためかベドウィンは男性も頭にスカーフを巻いているし、西サハラのベルベル族も同様である。

もうひとつは中東北アフリカ行の飛行機の中の風景である。ふと見ると、毛布を頭からかぶっている人が多い。乾燥よけか眠るためか知らないが、彼らはごく自然に布を頭にかぶるのだと納得した。あの人たちのスカーフの元々は、このような気候風土からくる慣習なのだ。

p.s.2

まったく不謹慎で申し訳ないけれど、全身を覆い、目の部分もメッシュになっているブルカ、車や自転車の運転は怖くてできないけれど、朝のゴミ出し用(パジャマの上にかぶる)に一着欲しいと思う女性は、日本にもいるのではないだろうか。化粧もファッションも男性の求める女性像の体現であるとしたら、案外ブルカやニカブはそれから女性を解き放つものになり得るのかもしれない(ただし強制でない限り)。

 

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