『ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか』

◆ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか — 一神教の現在
森孝一/編 同志社大学一神教学際研究センター 明石書店 2008.12

とりあえず付箋部分のみメモ

トルコのスカーフ問題、多元性について

スカーフはそれが単なるファッションではなく、宗教道徳的な規範や義務として理解されて纏われることで、そうした宗教理解や道徳規範を正しいと考える層が多数を占める社会では、いかに着用者が個人の選択や権利の問題と主張しようとも、世俗的な女性たちは圧力を感じ取ってしまう。世俗化している人々の多くは、イスラーム法が反時代的だと考え、酒をたしなみ、露出度の高い服を着て、男女へだたりない生活を送っていても、ムスリムをやめたわけではない。自分たちよりも復興勢力の道徳規範のほうが社会で支配的な状況下で、「正しいイスラーム」を振りかざした道徳規範の主張を意に介さないわけにはいかないほどに社会的圧力を感じているのである。

ただし、西欧諸国とは大きく異なることがある。トルコの人口のほとんどがスンニー派のムスリムだという点である。 キリスト教社会を原点とするヨーロッパの諸国家は、啓蒙主義の影響を受けている。その結果として、まず教会権力から個人が自由になることを認めた。その結果として、無神論者になることも含めて、信仰実践の在り方、どの宗教・宗派を信仰するかは、個人の手にゆだねられ、教会はもちろん公権力の介入は許されないことになったのである。その意味では、宗教的多元主義を採用していても、教会が宗教権力を公的領域に介入して行使することはありえない。

しかし、ムスリム社会には教会組織は存在しないし、神から離れることによって人間が自由を得たという啓蒙主義の歴史もない。そもそも、いかに行動様式が世俗化したムスリムであっても、神から離れることで人間が進歩し、自由を得るという発想さえない。したがって、国家の大勢が、イスラーム的規範を国家の規範に取り入れるよう望めば、「リベラルで、民主的な国家」は、そうせざるを得ない。西欧における啓蒙主義はトルコにも持ち込まれたが、結果的に敬虔な信徒に対する侮蔑的な態度をうみだした。世俗主義派の市民や党が、ことあるごとに、女性のスカーフ着用を後進的、対抗的と批判したことにもよく表れている。

…EU諸国の今の政治は文化の多元性に否定的な方向性を示している。とりわけ、イスラームとムスリムに対する嫌悪の表明が、人権や民族に対する差別とは同列に扱われず、なかば公認されている現状は危険である。トルコとのEU加盟交渉も、公式協議の場で、国民の大半をムスリムが占めることを理由に凍結できるはずはない。だが、2004年から06年までの間、EU加盟国のうち、フランス、ドイツ、デンマーク、そしてオランダでは、イスラーム・フォビアとトルコ加盟問題とが密接に結びついていた。

この変化は、果たして、トルコとその国民にとって不幸なものだったのか、それとも幸いなものだったのか。EU諸国の冷淡で理不尽な対応の結果、反動として、トルコ国民のイスラーム志向を強めた可能性は十分にある。それは2007年の総選挙で構成・発展党の圧勝をもたらし、ムスリム世界で唯一の世俗主義国家トルコの基本構造を変える結果をも、もたらそうとしている。

 

イスラームおける共存を妨げるもの

イスラームと他宗教、多文化の共存の方向性は、共存とはそもそも別の場所を占める異なる者同士の一定の安定性を有する関係であることを考えれば、基本的に、ムスリムが権力の中心を担いながらイスラームの統治に共鳴する異教徒の庇護民と共存するイスラーム法の法治空間である「イスラームの家」と「戦争の家」が相互不干渉の協定を結び、人間の移動を自由化し、イスラーム法の統治を望むものは「イスラームの家」に移住し、「自由=無法」を望むものは「戦争の家」に無条件に移住することが出来るシステムを構築することが最善と思われる。そのためには自由、平等を唱導する国家軍は国境を完全に開放し、何よりも人間の移動の即時完全自由化を果たす必要があるのである。

 

21世紀のイスラームとキリスト教

宗教間の寛容の事例としてもっともよく知られているのが、756年から1000年ごろまでのイスラーム支配下にあったスペイン(アルアンダルス)である。この時期は宗教の垣根を越えた調和の時代としてしばしば理想化して語られてきた。このイスラーム国家がキリスト教徒とユダヤ教徒を魅了した理由は多々あるが、ヨーロッパの旧態依然とした支配階級制度から逃れてきた者の新天地となったこともその一つである。この地ではイスラームの支配にともない、貴族や聖職者階級が消滅したために、彼らが所有していた土地が再配分され、小地主という新たな階級が誕生したのだ。イスラーム支配下のスペインの農業振興がこうした小地主たちの主な仕事であった。

現在多くのムスリムが、西洋の政治、価値観、文化に過度に依存し、その支配を許してしまったことが社会の堕落につながったと考えており、長期にわたる衰退と道徳の低下を招いたとして、世俗的政府と保守的宗教機関の責任を糾弾している。イスラーム圏の多くが今再び勢いを盛り返しているのはこのためだ。

これまでは宗教的絶対主義が多くの国際紛争を煽り、その正当化を行ってきたという経緯があるが、世界が多元主義的展望を開いてこうした宗教的絶対性を打破するには、自身の優越性を誇示するのではなく、相手の宗教にも同じだけの正当性があることを認める以外に道はないのである。

最後のフレーズは、すべての宗教/宗派が肝に銘じなければいけないことだね。

 

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