民族の歴史11
『アフロアジアの民族と文化』1985.11 山川出版社
矢島文雄/編 監修・岡正雄 江上波夫 井上幸治
アフロアジアというくくり方を初めて聞いた。
本来は言語学的な呼称ということだが、
それを民族・文化・歴史・社会にまで敷衍させて用いようという試みは、
残念ながら普及しなかったようだ。
中東という呼び名は、一般的には北西アフリカからパキスタン、
アフガニスタンあたりまでを含んでいることが多いけれど、
専門家以外の人にとっては、その地理的な範囲は案外あいまいだ。
たとえば友人は、私のエジプトの話を読んで、
「エジプトも中東なんだねえ」と言った。
彼女にとって、これまでエジプトはアフリカではあるけれど、
中東ではなかったのだ。
(「そうか、イスラムなんだねえ」とも言った)。
宗教や歴史・文化において共通性を持つ地域の呼び名としては、
確かにオリエントや中東/中近東というのは適切ではない。
アフロアジアという呼称のほうがより正確である。
また、オリエントや中東、中近東というのは、
西欧を中心とした、西欧がつけた呼び名なので、
西欧中心主義からの脱却の意味でもなかなかふさわしいと思うのだが、
あまりに中近東あるいは中東が定着していて、
それを翻すことができなかったということだろう。
代わるものとしてはアラブ・イスラム世界というのがあるけれど、
これも北アフリカがイスラム社会であることを知らなければ、
アラビア半島とその北と東の地域のことだと思うかもしれない。
つまり、それほど、一般的な日本人にとって、
アフロアジア=アラブ・イスラム世界は遠いのである。
その広がり、共通性、固有性、
そして個別性を見るのに、この本はなかなか良い。
アフロアジアの頭越しに西欧を見てきた私たちに、
アジアと西欧の間にはアフロアジアがあるということ、
アフロアジアは西欧とアジアにとって、
地理的・文化的な連続性を持つ、つながった世界であることを教えてくれる。
アジアの遊牧民がたどったシルクロードは、
北アフリカとアラビア半島を遊牧する人々の砂漠の道に、
あるいはアナトリアや黒海や地中海を行き来する人々よって、
ヨーロッパへ続く交易路へとつながっていたのだ。
以下、付箋部分の引用に従って。
アフロ・アジア世界では、七世紀以後イスラム教が拡大し、この宗教の下でアラブ人、ペルシア(イラン)人、トルコ人(チュルク系諸族)らが支配者となったが、このイスラム教徒たちがイスラム以前を「シャーヒリーヤ(無知の)時代」と呼び、暗黒時代と考えていたので、古代世界が神話的伝承の対象以上のものとなることはなかった。したがって、古代アフロアジアの再発見は、当初はもっぱら近代ヨーロッパの旅行者、征服者及びそれに続く学者たちによって行われた。
この部分を読んで、疑問の一つが解けた気がした。
それは、これまで私が訪れたアフロアジアで感じていた、
なぜこれらの地域(シリア・ヨルダン・エジプト)では、
歴史の連続性が感じられないのだろう、というものだ。
パルミラやぺトラ、王家の谷といった古代遺跡と、
周囲のイスラムの町の間に感じられるのは、断絶感だけだったのだ。
西欧キリスト教世界に古代からの連続性がみられるのは、
ローマがキリスト教世界に(物理的に)征服されたわけではなくて、
自らが内部に新しい宗教を取り入れたからかもしれない。
中世は異教である古代の神々の像を破壊したけれど、
キリスト教を公認した皇帝像は残った。
ローマ皇帝も壮麗なキリスト教教会を建てた。
ビザンチンの東ローマ帝国は、東方の影響を受け続けたにしても、
1453年まで続いたのだ。
このことは、ルネッサンスの古代復興のためにも大きな意味があったと思う。
維持され、受け継がれたものがあった。
ルネッサンス期には積極的に古代遺跡の発掘も行われるようになった。
発掘されたネロの黄金宮殿から、ラファエロはグロテスク文様を学んでいるし、
ラオコーンなどのギリシャ彫刻(とローマ時代のコピー)は、
ミケランジェロをはじめ多くの芸術家たちに、計り知れない影響を与えた。
また、ローマ法王も、キリスト教の勝利を謳う為であったにしても、
積極的に古代遺物を収集し、人々の目に見える場所に設置した。
「オリエント」が西欧によって規定されたことは、
上記のことを考えてみると、仕方のない部分もあるように思う。
そこには確かに土地の者が顧みない価値の発見があったし、
レディ・アンのような、植民地主義的ではない視線もあったのだから。
西欧の砂漠へのあこがれの原点にあるもの。
旧約聖書をとおして、<砂漠>(midbar)が自然的・地理的表象以上の、独自の宗教的意味をもつこと、砂漠が<死者の国><冥界>と同義であることに、はじめて研究者の注意を喚起したのは、デンマークのヨハネス・べデルセンであるが、それによると<砂漠>は単に耕地の反対表示語であるばかりでなく、むしろ<呪詛の国>であり、悪霊の生息する使者の国であるという。<砂漠>は、「雨と豊穣のやさしい風」のとどかない乾いた荒野であり、「熱風が吹き荒れ」「火のへびやさそりがいる」「石と塩穴だらけ」の水のない荒地であるが、それ以上に、悪霊の生息する<黄泉の国>であり、死者の国、墓場なのだというのである。
砂漠への旅は、西方への旅を意味し、それは、<冥界>への垂直的下降の旅とひとつになているという。
ところが、その呪われた砂漠が、ある日、一瞬にして緑の沃野へ変貌すると主張する説がある。北欧祭儀学派のA・ハルダーがそれである。ハルダーは、古代オリエント宗教にみられる砂漠表象のなかに、すでに失われてしまった新年際の壮大な ritual drama の展開をみたのだ。そのドラマの全体の流れのなかで、砂漠は、「さふらんの花咲く丘」「乳と三つの流れる丘」に変貌する。しかも一瞬にして、である。
さて問題は、一点にしぼられる。<その日>とは、いったい、いつなのか。変貌は、いつ起こるのか。聖書によると<その日>とは、まさしく神の<時>である。それはヤㇵウェの日であり、ヤㇵウェが砂漠を更新し、敵をけちらす時である。聖書は、<その日>は、いつ来るか、わからないという。しかし、旧約聖書の預言者たちは、その未知なる<時>に参加するために、神の変貌の空間に向かって、歩みだしていったのだ。ヨルダンの荒野で悔改を叫んだバプティスマのヨハネも、そして四十日、四十夜、荒野に断食して悪魔の誘惑とたたかったイエスも同様である。そこには聖書の原風景がある。
わたしは、聖アントニウスの砂漠の苦行をこうした神聖空間への、生涯をかけた行進であったと考えている。行進は、砂漠の深部に向かって、アントニウスを誘導する。砂漠は、死者の国、砂漠には、神に敵対するもろもろの悪魔がいる。その悪魔との闘争に勝つこと、そのことのために、アントニウスは砂漠の最深部に分け入ったのだ。……しかし、その暗い洞窟の真っただ中に、未知なる神の時はついにきた。アントニウスがホスティアにおいて見出したものは、まさしく砂漠の変貌そのものであったのだ。
砂漠の巡礼者たちが、彼らの魂にこがれたものも、この<砂漠>との遭遇であったというべきだろう。
砂漠へのあこがれについては、ずっと考えている。
キリスト教発祥の精神的原風景を求めて、というのは西欧世界にはあるのだろう。
だが、それだけで説明できるものではないような気もする。
第V章 アフロアジアの民族と社会
1 激動する民族と社会 — 帰属意識の危機と緊張の構造 から
ベルベル民族は北アフリカ内陸の山岳地帯に多数の小さな集団に分散して棲息している。言葉は文字をもたず、いくつかの話し言葉にわかれ、標準的なベルベル語に統一されていない。ベルベルの小さな集団は相互にある程度の連携は保っているが、民族全体を統合した政治体としてのまとまりをもたず、早期にイスラム化されたのにひきつづいて、言語のうえでもアラビア語化が進んでいる。第二次大戦後のアルジェリアでは、独立革命の過程でベルベル民族の同化が急速に進み、モロッコ王国でも一時的に反王政クーデターに協力したこともあるが、同化の方向に向かっている。ベルベル民族はアルジェリア共和国の22%、モロッコ王国人口の34%を占めているが、ベルベル民族が政治的な分離運動を展開する可能性はなく、今後もベルベル民族問題が政治的に少数者問題として重大化することは少ないとみられている。
この予見は当たらなかった。
すくなくともマリ共和国に関しては。
また、トゥアレグ族のタマシュク語というのは、ベルベル語のなかでどうなのだろう。
4 エジプトの農村社会の体質 風土を基点にして
(エジプトの地理学者・文明費用化である)ジャーマル・ヒムダーンは、エジプトを一本の草木にたとえ、ナイル川を茎に、デルタ地帯を花に、ファイユームをつぼみに見立てた。
英国のチャーチルも……エジプトを一樹のナツメヤシと見、デルタをその葉と枝の繁りに、ナイル川を幹とした。エジプトに注がれたこと2つのまなざしの共通点は、ナイルの水脈が及んでいる緑の部分にのみ関心が向けられ、その周囲の広大な砂漠が視界の外におき去られている点である。実行をともなう雨量は絶無に等しいため、周辺の砂漠は無、あるいは死の世界として視野から外され、大いなる石の偉業としての一すじのナイルによって生命をもたらされているグリーン・ゾーンのみが一般に問題にされる。
エジプト人は、ナイルの毛管現象の及ぶグリーン・ゾーン内に身を置いて数千年来暮らしてきたが、そのさい、つねに死の世界の戦慄を背に感じていて、そのような砂漠による強迫観念はそれだけナイルへの謝恩の念を強めていた。このような広大な無のひろがりと、それを貫く生命の水脈という極めて判然とした地理的構図をもち、しかもその必然の帰結としての農事を生業として、人々は営々と暮らしてきたために、エジプト人の生活の隅々にこの風土的要因が色濃く影を落とすに至った。
エジプトは「広さ」ではなく「長さ」にその特性があるとされるが、確かにナイルが南北に貫くことによって、この国の人間の流れも、運輸や交通網もいっせいに縦に連動している。
風土の相違による宗教的土壌の色合いの違いという点は、次のような事例によってより説得的になるかもしれない。
アラブが自らの重要な倫理的規範の一つに数えている、来訪者への寛大なもてなしという行為は、砂漠の民の場合、その風土において切迫した必要(ハージャ)にもとづいてなされるのに対し、ナイル河谷の住人の場合は理念(マブダウ)もとづいているといわれる。後者は客人をもてなすことを倫理規範に照らして観念として選びとり、それを実践するという余裕のある風土でのこととして前者と異なるのである。
終章 座談会 アフロアジアの民族と文化 から
中岡 (エジプトの)古代のところで、エジプト・ヌビアを一括した一つのサブカルチャーがあるということですね。ところが、……エジプトの文化的性格では、主としてエコロジー・ベースというようなナイル川流域の農民のパーソナリティーが問題になっているわけです。
もう一つは、今先生がおっしゃったように、エジプト一つとっても、西からも東からも北からも、いろいろなところから文化が入ってきているが、そういう文化の累積がまた今のエジプト人の個性をつくっている。どうもこの二つが、なかなかかみ合わないですね。江上 かみ合わないのが事実だと思うし、そういうものだと思うんですよ。そのいい例がエジプトです。エジプトのファラオの神権政治の世界は非常に長い、三千年も続いていたのですからね。地中海世界でも三千年も一つの文明が続いたところはない。……そんなエジプトがどうして急にローマに征服され、ローマ化してしまったのか。そしてその後、数百年後にはアラブに征服されて、またすぐにイスラム化してしまったか、ということは非常に大きな問題ですが、しかしあれだけ長期間つづいたものが完全になくなってしまうはずはないので、形態は変わっても、ローマ時代の文化にも、イスラム時代のそれにも、現代のエジプトにも、ナイル文明の伝統は何らかの形で残っているだろうと思います。
……
しかし、自然まで破壊することはできないから、ナイル川の一すじに生きてきた人たちの、その生き方はそんなに変わらなかったのではないか。そういう意味で、エジプトはアフロアジアのなかで非常に独特なものであり、そのことは今日でも変わらない。同じイスラム圏の中でもですね。中岡 古代は生きているわけですね。
江上 それは生きていると思いますね。……
江上 エジプトになぜああいうファラオの文明ができ、なぜ三千年の間続いたか。
その最大の理由は、エジプトの隔離性だと思う。あそこには、その上にナイルの賜物という非常な豊かさがある。隔離性のある賜物があれば、何の不安もなく、ファラオの神権政治を信じて平和に生きてゆけた。住民がこの世の人生を謳歌したのも自然な成り行きでした。……
江上 乾燥地帯というのは文明の発生にとって非常にプラスでした。決定的といってもよいほどです。そのことは反対のジャングル地帯を考えればわかりやすい。ジャングル地帯というのは文明の発祥にも、文明の拡散にも、まことに具合が悪い。歩いて行けるところ、見通せるところがなければ交通路はできないですよ。それにジャングル地帯には、猛獣、毒蛇が多く、風土病、疫病が遊行する。一方、砂漠地帯は、徒歩には非常に具合が悪いが、幸いラクダという”船”があり、ロバという暑さに強い、女、子供でも乗れる家畜がいる。ラクダがあれば、砂漠はむしろ自然の道が四方八方に通じていることになる。もちろん砂漠ばかりで、河水の豊かなところがなければ文明ははじまらないが、ところどころに青草があり、大河にうるおされた平野---メソポタミアのような---があって、エジプトのように年中水が流れている沃野があるということになれば、かえって砂漠によって外敵から守られ、ラクダ隊商を組んでオアシスの草原や道をたどって東西に往来できるようになると、外国産の物資も到来するし、外界からの知識や情報ももたらされる一方、乾燥地帯で太陽熱に恵まれ、大河や湖水の水利で灌漑ができれば何毛作もできて、大量の穀物や果実の収穫が可能になります。そのようなわけで乾燥地帯は水利さえあれば、農耕にも、交易にも外敵の防御にも都合がよく、病気も少なく、猛獣、毒蛇もいない楽天地です。さらに額に汗して農耕することが嫌いな人は遊牧民になって草原地帯で遊牧すれば、一切の日常必需品は家畜から得られ、家畜を管理するだけで生活できる。
……
江上 ……ステップというのは遊牧民でなければ生活していけないところです。狩猟生活も農耕生活も、そこでは不可能です。しかしそこは天然の牧場にはなります。不思議でしょう。
ステップが砂漠と違うのは、そこに水がないということです。草は生えているけれども、水がない。だから都市ができないのです。ステップでは雨が降ってもみんな草に食われてしまって、地下には水がたまらないのです。ところが砂漠では地下に水があるのです。
アラビアの言葉に「砂のあるところに水あり」というのがあります。砂丘には雨が降らなくても夜と昼の温度差があって夜に露がたくさん降りるのです。それがみな砂に吸い込まれて砂の中を通って砂丘のふもとににじみ出ます。それで砂丘のふもとの水気のあるところを半メートルや一メートルぐらい掘ると水が出てくるのです。だから砂丘地帯には、ところどころ塩湖だとか、真水の湖水が見いだされます。その周囲に楡や柳やタマリスクなどの木も生えています。ところが乾燥地帯の草原には何百キロ行っても一木も見ないところが普通です。また三メートルや五メートルぐらい掘っても、水はなかなか出てこない。しかし、草は生えているから家畜を買えばいい。家畜を飼って、その乳を飲めばいい。……
中岡 ……近・現代においてアフロアジアの人々、あるいはその政府が、一般にいわれるほど頭からヨーロッパを排斥するとか、拒否するとかいうことはなかったと思うのです。十九世紀初めから、西洋モデルというか、そういうものを積極的に取り入れようという動きが盛んなわけです。また一方では、ヨーロッパに対して失望することも非常に多かった。何に一番失望したかというと、結局、僕は特に近代ヨーロッパの一つの特性だと思うのですけれども、ヨーロッパの持っている違った文化に対する攻撃性です。これは単に近代史、現代史でいうような帝国主義という言葉じゃなくて、いわゆるキリスト教ヨーロッパ文化の持っている攻撃性というのですか、それが一番の、アフロアジアの側から見て排除しなければならないものであった、一番簡単な図式はそういう風になるのではないかと思います。
近代以前の時期には、ヨーロッパとアフロアジアの関係は逆なわけですね。むしろヨーロッパがアフロアジアから学ぶという姿勢がずっと続いていた。だのに攻撃性といえば、ヨーロッパ人はトルコ人の攻撃性を今なお執念深く議論するわけです。
もうひとつ例を挙げますと、アフロアジア一帯に広がっていたキャオイチュレーション(キャピチュラシオン)という制度ですね。これは近代以前ですと、非常に力のあるアフロアジアの王者オスマン帝国がヨーロッパの商人とか旅行者を保護してやるという意味だったと思うのですけれども、そのまま近代にキャピチュレーションの制度が入ってきますと、逆転しちゃいまして、保護されなくてもいい実力のあるヨーロッパ人が保護される。そういうものが残っていると、ヨーロッパ人の攻撃性に又それがプラスアルファーして残っている。そのへんがアフロアジアの人のヨーロッパ評価ではないかな。
キリスト教はローマを経てヨーロッパに広がり、
それによって今日まで続く西欧キリスト教世界ができたわけだけれど、
その基となった初期キリスト教が生まれたのはアフロアジアだったということ。
「ヨーロッパというのが最初からこの地域に内在していた」という視点は、
特に日本人には欠落しているように思う。
中岡 ……(ヨーロッパがアフロアジアから利益を引き出そうとしたことについて)やはり一番最初は十字軍ではないでしょうか。単に商業的利益に限定しなければ。しかし十字軍はさておいて、やはりヨーロッパのルネッサンスの時期からの、特にイタリア系の商人の活動であろうと思います。もちろんイタリア系といってもバックにはヨーロッパ内陸の商人たちが絡んでいるわけです。……トルコでトルコ語に残っている……、特に通商関係にイタリア語系が多いというのです。……そういう意味では行き来は非常に盛んであったと思います。ここを通れば、さらにインドとか東方の産物も入ってくるわけだから。しかし、トルコ(オスマン帝国)も中間で相当、利益を得ていた。だからこそ、トルコがあれだけ栄えたということになり、中世末期から近世の初めごろの商業の立場から見たら、ここは非常に重要なところだったのではないでしょうか。ヨーロッパを栄えさせた一つの大きな基礎にはなっていると思いますよ。
ルネッサンスあたりで考えれば、ヨーロッパからアフロアジアにもっていく商品は大したものがないんです。だから金。銀。貴金属を持って行って、いい商品はこちらからヨーロッパへ持ち帰るということでしょうね。
それから中国の絹。すでに古代において、パルティア、シリア、エジプトが、
下っては西アジアの絹製品が、この地からヨーロッパへ運ばれた。
このようなアフロアジアとヨーロッパの歴史的関係を見ていると、
現代のアラブ・イスラム世界と欧米世界の対立の図式は、
また違ったものに見えてくる。
ただし、その過去と現在の間には、やはり大きな断絶がある。
中世においてイスラムが歴史文化を断絶したように、
近・現代にはヨーロッパキリスト教が、
アフロアジアとの歴史文化の連関を断絶した。
対談では断絶ではなく連続が語られているけれど、
それらの連続性は、にもかかわらず、人間世界には、
時と空間をつないで続いていくもの、往還するものが、
あるということなのだと思う。
ただし、この断絶感は、アジア大陸の東のはずれの、
そのまた海の先の、辺境の島国の人間の感覚ではある。
陸路や海路でつながった二つの世界の人々の感じ方は、
きっともっと違うことだろう。
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