『依存症』信田さよ子 文春新書/2000.6 (2005.7 大8刷)
『夜ごとの揺り籠…』と一緒に見つかったので、再読。
どういう経緯でこの本を読もうと思ったのか、その記憶がない。考えられるのは、
上野千鶴子との対談『結婚帝国女の岐れ道』(2004年5月刊)を読んで、
著者に興味を持ったという線。
当然内容も忘れていて、おかげで興味深く読んだ。
当時読んだよりも面白く読んだのではないか。
この本では、とっかかりとなったアルコール依存症者が「面白くて」、
関連するアダルトチルドレン(AC)や、
共依存にこだわってきた著者の足跡が、描かれている。
信田さんはそれを、「(自分は)依存症者に依存してきた」と書いている。
考えてみたら依存は、こだわる、のめりこむ、ハマる、取り付かれる、
というような心的傾向や行為の地続きにある。
もっと言えば、好きになる、魅入られる、なども、
この仲間に入れてもいいかもしれない。
これらの様態は、人が日常生活や社会生活を問題もなく送れていれば、
あるいはそのことによってなんらかの利益が自他に得られる限り、
良いことと見做される。
問題はそれが過剰になり、プラスとマイナスのバランスが崩れることだろう。
信田さんが書くものが面白いのは、
著者がそれだけ「依存」しているからでもあると、今回思った。
つまり、対象に過剰に思い入れることによって、小説や研究などもそうだけれど、
他の人が到達する地点より遠いところまで、行くことができるのだ。
思い入れる能力や力というものがあり、
そのことが人間の可能性を広げてきたのではないか。
人(の心)を動かすのも、そのような過剰なものなのではないか、と。
そうしてみると、ただ単に、人は皆誰かに、あるいは何かに依存しているのだから、
それを病理と捉えることに違和感がある、と言うだけでは収まらないものが、
「依存」にはあるようにも思えてくる。
この本で注目した箇所。信田さんが問題視しているのが、関係性に対する依存であること。
それが社会性と時代性による問題であること。
ずっと心理臨床の職業についてはいるものの、なぜがこれまで私の関心は絶えず人の内面には向かず、外側に向かっていた。それは関係への注目だった。人との関係、家族関係、さらには社会との関係へと広がり、ついにはそれを総体としてとらえる視点、普遍的視座までも得たいという欲張りな気持ちがいつもどこかに渦巻いていた。でも「欲張りでいてほんとによかった」としみじみ思った。なぜなら、依存症は近代という時代をクロスさせなければ読み解けないなのだ。
ストーカー、親密な関係におけるその逆転としての残虐な事件、家族の中の暴力……このような現象を個人の病理に還元して解釈するには限界があるのではないだろうか。あらゆる関係が二者間で閉じられた時、嗜癖と化していく可能性をはらむ時代になっていると考えるべきだろう。その閉鎖的二者関係は閉鎖的であるがゆえに拘束的でもある。そのような関係を表す言葉が共依存である。あらゆる二者関係が共依存化する可能性をはらむ時代になったのだ。
アルコール依存症の家族は(共依存とAC)、近代家族のほころびをあらわしている。
らしさからの脱却ついて。
(アルコール依存症からの)男性の回復者の印象はひとことで言うと、去勢されたかのようである。…一方女性の回復者たちは、…飲んでいた頃は無批判でニコニコしていた人であったのが、自助グループに通って何年かたって久しぶりに会うと、面と向かってはっきりと自己主張をする人に変貌している。
この一見対照的な回復者像の違いはなんだろう。
現代における、~せねばならない、こうあるべきといった望ましさを徹底し、その結果が自らを危うくするようなパラドックスに陥った人たちが依存症者であるとなんども述べてきた。過剰な適応が、不適応になってしまったのだ。とすれば、回復とはそのパラドックスを解かなければならない。男らしら、女らしさの追究をやめることなのだ。
らしさからの解放の必要性は、フェミニズムの問題提起として以前からもあった。
その問題が明確なパターンとして、ACや共依存という言葉を与えられ、
目に見える形になったのだと、あらためて思っている。
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