『叫ぶ私』『夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場』

『叫ぶ私』 森瑶子 主婦の友社/1985.8 集英社文庫/1988.7
『夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場』 講談社/1983 講談社文庫/1986.9

納戸の本棚に、埃をかぶっていた『叫ぶ私』をやっと探し出す。
1990年の文庫版第二刷で、カバーはなくなっていた。
『夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場』は、すぐには見つからなかった。
少なくとも二回は読んでいるのに、 最後に読んだのはそれほど昔ではないのに、
どこに置いたのか記憶がなかった。
寝室の本棚などをしばらく探しまくる。
結局仕事部屋の本棚にあった(文庫版、88年8月、第5刷)。

この二冊は興味深い関係にある。 まず、初めての書き下ろしとして、『夜毎の…』の構想があった。 森瑶子が河野貴代美さんのセラピーに通い始めたのは、 まず『夜毎の…』の取材のためであった。 それから、末娘の夜尿症という形で現れていた、家族の問題もあった。 どちらが先にあったのかはわからないけれど、 森さんは二つの目的を持って、セラピストの元に通ったのだ。

1982.11月 一回目のセラピー。 12月には『夜毎の…』の書き下ろしに入る。 翌2月の半ばから2週間ほど、書き上げのためにホテルにカンヅメとなる。 4月、第一稿が上がる。 6月、セラピーを中断。

『叫ぶ私』は、セラピーの録音を構成しなおしたもので、 『夜ごとの…』を書いてから2年後の刊行である。 会話をなるべく忠実に再現しているためか、あいまいな言い方も多く、 臨場感はあるけれども、読み易くはない。

焦点がぼけているように感じるのは、 プライバシーに配慮してカットした部分があるからだろう。 実際のテープから何を拾い、何を捨てるのか、 その捨てたものが(文脈からも)本当は大事なものだった、 ということがありそうな気もする。

しかも、セラピーは中断されている。 その理由として森瑶子は、 作家は内面の葛藤、悩みや苦しみを源泉に小説を書く、 それがセラピーで解消されてしまえば、小説が書けなくなってしまう、 というようなことを言っている。 『夜ごとの…』を書くための取材は終わった。 娘も、子ども専門のカウンセラーに通い、状況は改善された。 これ以上セラピーの場で自分を明らかにしていく必要性がなくなった、 ということだろうか。

セラピストである河野貴代美は、 「こんなクライエントがやってきたら、セラピストはオタオタしますね」と、 あとがきで書いている。 何しろこのクライエントは、自分で設問をたて、それに答え、 解読までしてしまうのだ。 つまりセラピーの場で、セラピストの役割をクライエント本人が担ってしまう。 やりにくかっただろうな、と思う。

作家の仕事は、人間の内面をとことん突き詰めていくこと、 それを言葉として浮上させ、結晶化させること。 その突き詰めていく一番最初の、一番厳しい目でのぞむ対象が自分だ。 作家はまず冷徹な自己の観察者であり、 観察したものを言語化し、物語化する。 観察も言語化・物語化もセラピーに通じる。 つまり作家の中には、クライエントとセラピスト(に似たもの)がいるのだ。

まして森瑶子は、自らの女としての性と、 夫との関係性の葛藤を下敷きに小説を書いていた。 プロのセラピストがオタオタするほど鋭い、 セラピスト的な自己洞察力と表現力を持っていたとしても、 驚くにはあたらない。 セラピーの中断について、河野貴代美は、 「(セラピストからクライエントに向けられる) 関心や注目の只中にいることの居心地の悪さを 最後まで捨てられなかったようです」と述べている。

だがこれは、河野さんが受け取ったような、森瑤子の自己評価、すなわち「根本的に私みたいな人間について、他人が興味をもつわけがない」 ということなのだろうか。 いずれにしろ、ただ時間がとれないから、というような理由ではないような気がする。問題のそれ以上の探索を中断させたのは何だろう。 たとえば、書くことが自己治療でもあったとすれば、 セラピーの場ではなく、あくまで書くことによっての救済を、 目指したかったのかもしれない。

森瑶子自身が、森瑶子という作家を知るには、 『情事』に加えて、この二冊を読む必要があると述べている。 私は彼女の熱心な読者ではないけれど、 やはり『情事』と『夜ごと…』は別格だと思う。 しかも30年以上たっているにもかかわらず、まったく古びていない。 文体やストーリーにおいて、テーマやモチーフにおいて。 そして、描き出される女性像において。

たとえば『情事』は、夫との関係のなかで、 女として十全に生きられない辛さを描いた小説だ。 良き母、良き妻を演じる裏側で、 性愛に収斂する、女としての承認が夫から得られない。 女としての承認だって、母や妻と同じように、ジェンダーが規定するものだけれど、 どのみち私たちは、死ぬまで、 社会的な性別であるジェンダーから逃れられないのだ。

『情事』の美しさは、ヨーコとレインの情事の様相にではなく、 ヨーコがレインに求めたものが、愛などではないということを、 鋭い痛みと共に、ヨーコが自覚している点にある。 彼女は、レインとの関係が、自らはなにも手放さずに、 己の空洞を刹那的に埋める情事であることを熟知していた。 たとえそれが「愛に似たもの」に変化していったとしても、 真実を知ったレインの愛が、情事に転換することなどあり得ないこと、 最初から、一歩先にある破綻を見据えたものであったことを。

30年以上たっても、これほどの潔さと鋭さで、 女としての承認に対する飢餓感を書いたものは、そう多くはない。 数年前の、大胆な性描写で話題となった女性作家の小説も、 性愛の遍歴が、満足度の高い性愛を得たことが、 イコール女としての承認を手に入れたことだという (作家はその成就を「良い女」という、手垢にまみれた言葉で綴った)、 時代錯誤なものであった。

自己の承認に、常に男という他者を必要とすることへの、 あまりの無自覚さが、情けなかった。 (ジェンダーに囚われた)男との関係における女の生き難さ、辛さは、 30年以上たった今もまったく変わっていない。 この生き難さは、家族のなかの問題としても、ずっとあった。夫婦の関係は、かならず親と子の関係に影響を与えるからだ。

森瑶子がセラピーを通して(あるいはセラピーを受ける前から) 見据えていたのは、まずは母親との確執だった。 強い母から受けた抑圧と傷、 それが娘に転嫁されているのではないかという危惧、 さらには、親から愛されなかったがために、自分もまた、 夫や娘に優しい愛情を注ぐことができないのではないか、という怖れ。

今では、母と娘の確執は小説の大きなテーマになっているけれど、 森瑶子はこの問題もまた、80年代のはじめに書いていた。 「あこがれ」である恋愛の帰結の、「夢」であった結婚生活で、 母たちは幸せではなかった。 その母たちに育てられた娘もまた、 「恋愛」と「結婚」で女としての幸せを目指し、同様に裏切られる。夫婦や家族のなかに潜む飢餓と虚無と荒廃は、 ジェンダーがいくつかの矛盾した女性像/男性像を、女/男に押し付け続け、 そこから私たちが逃れられない以上、 永遠に小説のテーマであり続けるのだろう。

『夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場』を半分ほど読み進んだ。 久しぶりに、小説を読む楽しさを味わいながら。 『叫ぶ女』で語られたエピソードや夢が、 しっかりと物語に組み込まれ、関係性の問題もクリアに提示されている。 性愛に対する屈折した幻想が顕在化した、 マレー人のバーテンダーとのセックスも、 まるでセラピーで出てきた夢のようだ。場面の切り替わりや、会話と地の文が連続しているのも、 セラピーの対話の脈絡のなさを想起させて、今も新鮮だ。

翌日(1/28) 読了。

小説家であれば皆、今まで誰も書かなかったものを書きたいと思うだろう。 でも、誰もがそれを出来るわけではない。 知性と感性、テクニック、情熱、加えて作家としての矜持、 即ち勇気がなければならない。 森瑶子にはそれらがあった。

マレーシアのリゾートホテル。 作家である妻とその夫は、壊れかかった関係を修復しようとしている。 ところが、セックスをしても、話しをしても、二人の距離は縮まるどころか、 いっそう開いていくように見える。 二人の間のかみ合わなさが、むしろ歴然と顕になる。

冒頭近く、セックスの途中から言い争いになり、 妻はこれまで一度もあなたとのセックスでオーガズムを得たことがない、 ずっといくフリをしていたのよ、と口走ってしまう。 じゃあどうして自分を慰めていたのか、男がいたのかと問われ、 自分でしたわ、と答える。

このふたつのことは、どんなに大胆な性描写を書くよりも、 勇気がいることではないだろうか。 女が性の主体であろうとするとき、 避けては通れない事柄であるにもかかわらず、 これらが小説のなかできちんと書かれたことは、この小説の前も後も、 非常に少ないのではないかと思う。

沈みかかっている船に二人の船頭はいらないと、夫は言う。 当然妻は反発するけれど、 それを古臭い家長主義だと、切り込んでは行かない。 夫がこだわっているのは、男としての優位性や主導権、プライドといったもので、 一方妻は、夫が求める一貫性のない女性像にいらだちながらも、 自分自身を相手に向かって開いていけないことに、こだわっている。 開いていけないことの責任は夫にもあるけれど、 それ以前に自分のなかにも原因があることを、妻は自覚している。

『カウンセリングに何ができるか』で、信田さよ子は、 問題となっている辛い関係において、 クライエントに気づきと変化を促し、そのことによって関係する相手を変え、 関係性を変えていくことがカウンセリングの目的だ、と言っている。 『夜ごとの…』では、妻は気づき、変わりつつあるけれど、 夫は変われないままだ。

この小説では、夢や夢とまごうような出来事、 即ち、強い母と同時に弱い父に対する怒りや、 海辺で交わされる、夫以外の二人の男との対話や性的な係わりあい、 そして最後に、少女の頃に受けたレイプが、印象的に描写される。

ここにおいて、夢の元となった体験やレイプが、 彼女の男性性(ペニス)への嫌悪や、 マレー人のバーテンダーとの行為における屈折した態度に、結び付けられる。 このフロイト的な解釈については、少し不満だし、物足りない。 森瑶子には、舟に船頭などはいらない、 必要なのは右と左にオールを握る、 同じ力で漕ぐよう力を合わせることができる、二人の漕ぎ手である、 というわかり易い帰結はない。

夜の海で、父を思わせる見知らぬ男とのセックスの予感と、 陸から自分を呼ぶ夫の声を後ろに、夜光虫に囲まれながら、 「母」のような海の沖深くに向けて泳ぎ出すラストシーンは、 解放なのか、放棄なのか、それとも逃走なのか。

自らは気づいて、変わってしまったのに、 相手が気づこうとせず、変わろうとしないとき、 彼女にはもう一つの選択がある。 それでも留まること。 あきらめずに、あるいは、あきらめて。

このラストシーンは、 通常なら「精神の解放」「自立していく自己の姿」(文庫の裏表紙より) と読むのだろうけれど、私は手放しでそう断定できない。 『叫ぶ私』で中断したセラピーのように、 『夜ごとの…』のラストに至る道筋は、あまりに過程的であるからだ。 ここは目指す地点に至る過程である、ということを確認した、 一瞬の覚悟に過ぎないように、私には思える。

【参考】

・森瑶子/Wiki ・森瑶子幻想 後輩イラストレーターの追想

・カウンセリングや精神療法(心理療法)は小説になりうるか ・小さな貝殻—母・森瑶子と私  

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