『カウンセリングに何ができるか』 信田さよ子/大月書店 2007.12
このところの信田さよ子三冊目。
河野貴代美の『わたしって共依存?』 に比べて、
こちらは言葉がすっと入ってくる。
刊行は『わたしって・・・』の一年半後で、状況にそう大きな違いはないはず。
私の感じ方の違いは、内容というよりも、
著者の資質の違い、あるいは私との相性の違いのような気がしている。
文体や言葉の選び方、といったような。
それはさておき、信田さんには気迫のようなものがあって、
年齢のせいかもしれないけれど、
それが文章を背骨のようにしっかりと支えている。
2003年の『家族収容所』にあった怒りにも通じるもの。
一般的に、カウンセラーは自分の意見を述べず、聞き役に徹し、
質問することでクライエントに気づきと変化を促し、
そのことによって、関係を変えることを目指す。
だが、信田さんは、これは私個人の意見だけれどもと断ったうえで、
思うところを述べることもあるという。
二人のカウンセラーから受ける印象の違いは、この点にあるのかもしれない。
つまり、ある現象として出てきている問題の原因を、
どの深度まで掘り下げていくかということ、
つまりクライエントの気づきの深度を、その目標レベルを、
どのあたりに置くかということ。
フェミニズムに依拠したカウンセラーであるはずの河野さんに、
社会的な問題意識がないはずはないとは思うんだけれど、
彼女の視座、考えというものは、あまりはっきりと見えてこない。
実際のカウンセリングにおいては、そういう資質がプラスに働くこともあるだろう。
でも、読者としては物足りない、ということ。
逆に信田さんの言説は、すっきりと整理されていてわかり易く、
読者としては読みやすい。
けれども、カウンセリングの場では少し違うのかもしれない。
整理されたわかりやすい文脈から零れ落ちてしまったり、
はみ出してしまう思いを抱える人はいるだろう。
それは現場で修正するよ、ということだとは思うけれど。
さて、この本で信田さんは、カウンセラーがコンビ二の数ぐらいあるとよい、と書く。
家族やコミュニティーの機能が失われてしまった今、
それらを補完するのがカウンセラーなのだ、という意味で。
問題は、費用だろう。
コンビ二並の料金では成り立たない職業だと思うから。
この点では、河野さんが紹介している自助グループが興味深い。
ただ、私たちの多くは、自助グループやカウンセラーの元へ赴く前に、
これまでは家族やコミュニティーが担っていた役割を、
別のところに求めているような気がする。
悩みを聞いてくれ、承認を与え、
参考となる経験を語り、アドバイスをあたえてくれる友人、
あるいは、ネット空間や本、映画などに。
そのうえで、友人やネットや本では、辛い思いをやり過ごしたり、
乗り越えたりしていけない人、問題が切迫した人は、
自分にあったカウンセラーを見つけられるといいなと思う。
そういう人たちが、費用の面で足踏みしないような行政のサポートがあって欲しいし、
加えて気軽に足を運べるような、心理的な抵抗感がなくなるといいと思う。
カウンセラーに出来ないことは歴然とあるんだけれど、
そことをとやかく言うよりも、
出来ることがあることの意味を、今は確認しておきたい。
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