『砂漠の文化』アラブ遊牧民の世界

・堀内勝/著 ・教育社歴史新書 1979.11

34年前か、と指を折って数えてしまった。
当時と今と、アラブ遊牧民の暮らしは、どれほど変っているのだろう。
この間に大規模な旱魃が何度もあった。
とにかく、失われてしまっているものがあるのならなおさら、
当時の砂漠の暮らしと文化は興味深いはずだ。
目次を見るだけでも期待は高まる。

著者が第二の故郷と呼ぶアラブにおいて、
心に思い描くときのイメージは都市ではなく、
一年を砂にまみれて過ごしたサウジアラビアのダウナー砂漠であり、
二年半を過ごしたエジプトの砂砂漠だという。
この前書きでうらやましさに身もだえし、期待して読み始めた。

なのに、どうにも文章が頭に入ってこなくて困った。
最近こういうことはよくあるので、文章の問題ではなく、
読む側の問題なのかもしれない。
が、ひとつだけ読みにくさの原因をあげさせてもらえば、
砂漠の民の言葉の解説についていくのが大変なこと。
でも、この本は言葉を「砂漠の文化」への入り口にした研究書なんだから、
そこに文句を言うのは筋違いなんだけれど、
耳慣れない言葉のほとんどは、お経のように眠気の影に消えてしまう。
なかには私にとって有益な知識もあるだろうに、
それがただ流れてしまうのをどうする力もない。

それでも、何かひっかかりがあるだろうと読みとばして、第7章。
最後の3-40ページに付箋三箇所。

7 砂と砂漠

アラブにとって旅とは

・旅の持つ意義
第一章で badw(砂漠=遊牧)の対立語として hadar(定住)があること、さらにこの hadarは他の対立語として safar(旅)をも持つことを指摘しておいた。「定住民 ハダリー」の中でも由緒あるアラブだと自負する者はすべて、その祖先を「砂漠民 バダウィー」にもっている。そして彼らは定住化に伴う倫理観、生活態度の変化の過程で、なお土地に縛られまいとする砂漠民の本性の断続的発露ないし回帰を無意識に行う。それが旅となって顕在化し、定住民のノスタルジアを満たすことになる。この意味でも、「旅 サファル」は、一方で「定住 ハダル」と対立し、「遊牧 バドウ」と同類とするアラブの概念の掘り起こしが可能となる。再び「遊牧 バダウ」に戻れないという意識とそれへのノスタルジアを旅という遊牧民化がその代償昇華作用しているのである。

遊牧の代償としての旅。
「旅」が彼らのDNAに埋め込まれているということ。
土地に対する執着の強い農耕民族にあって、
なおさまよい出てしまう気質を持った者には、実に刺激的で、
かつシンパシーを感じさせる指摘だ。

またイスラムにとって、五行のひとつである巡礼は、
生涯最大の重要な信仰の旅である。
諺にも、「旅はものを産み、休息は不毛」というものがあるらしい。
まさに旅とは、宗教性や精神性を高め、
また知識を得ることのできる有益なものなのだ。
もちろん、交易を行えば、実際の利益を手にすることも出来る。

イスラム教の誕生の話を読んだときも、
ムハンマドの言行やコーランに結実する啓示が、
実に商業的だと感じた。
なるほど商業の原点にはまず旅があり、
この地とあの地の不足と余剰、
需要と供給を身をもって知ること、があるのだ。
そしてこの地とあの地の交易のルール作り。

イスラムが何故、これほどまで細かく厳しく、
現実世界の規範を取り決めているのかが不思議だった。
けれども、その成り立ちに上記のような必要性があるとすれば、納得もいく。
この箇所に出会っただけでも、教科書のようなこの本を手にした価値はあった。

また、ムスリムに課せられた五行に関して、
もうひとつ不思議に思っていたことがあった。
睡眠についてである。
日に五回のお祈りに夜明け前というのがある。
また、ラマダンの時期は日中食べてはいけないので、
夜明け前に食べる。
彼らはそのまま起きているのかと思ったら、
お祈りや食事をしたあとまた眠るのだと、何かの折にわかった。

この本で、夜旅についての解説があった。
夏の日中暑いときは夜旅をする。
もちろん夜じゅう歩いているばかりではなく、
夜を三分割して休息をとったりする、とのこと。
つまり昼寝も含めて、分割して短い睡眠を重ねているのだ。
こういう夜と昼の感覚、活動と休息・睡眠の習慣は、砂漠に独特のものだ。
そういえば、スペインやイタリアにも通じるものがある。
彼らも、過ごしやすい夏の夜はよく戸外にたむろしていて、
幼い子供であってもかなり遅い時間まで起きている。
彼らも、夜の睡眠時間は短いに違いない。
そして足りない分は昼補っているのだろう。

砂漠の道

・道作り・道探し
……砂漠のアラブはまず獣類の蹄の跡ないし糞の有無およびその状態を調べ、辿る。これを追えば、獣類の水を求めるルートと重なり、少なくとも渇きで死ぬことはない。また鳥類とりわけカター qata という砂漠鳥の飛行を追えば、必ず水場に出るとされている。というのは水場とは遠隔地に住むこの鳥は、どんなに遠くとも朝夕二回水場を真直ぐに往復するといわれているからである。水場に至る道の発見と確保は以上のような方法をとるが、道を探すには、水を飲まずに何日間も歩行可能なラクダの後を辿れば、人の居住地、少なくとも「ラクダの民 アフハルーバイール」の仮営地に出くわすことができるからである。また人の足跡を見つけた場合には、歩幅の広さで疲労感を、足跡の砂のめり込み方で体力と強さを計り、ルートとして頼り得るかどうか道探しの尺度とした。

・道探し人・道案内人
道案内と道探しとは厳密にいえば異なる。……道案内人は一定地域に限り、その土地の詳かな地勢、部族状況、星の位置などに詳しい。これに対し道探し人のほうは地域が一層広く不案内な所へ出かけるわけであるから、さまざまな条件をさらに具備していなければならない。人、ラクダ、馬、羊などの跡を追うために、他人からは薄気味悪く感じられるほどの異常の動物的勘を具備している必要があった。砂中に残された足跡や臭跡から、正確な数、種類を識別する能力を持たねばならないとされる。たとえばラクダの足跡を見て、その頭数、白ラクダその他の種類、雌雄の識別などをやってのける。ベテランならば、女の足跡から、その女が既婚か未婚か妊娠しているかどうかまで見分けることができるという。アラビア語の qassa という動詞は、「物語を語り聞かせる」の意味で現今では用いられているが、元来は、こうしたおりの足跡、臭跡を「読む」が原義である。そして「物語りながら外に出る」という言い回しがあり、それは「(人の足)跡を読みながら砂漠中に出てゆく」ことを意味している。

・道しるべ
①サーヤ 小石を積み上げたもの
②スッワ ①より大きく小高いところに
③イラム ②より大きく(大人の背丈以上)、丘や山の頂に
④アマラ ➂より大きく、塔や家様の形状、丘や山の上に
⑤文者輪 自然の地形で、小型の特徴的なもの
⑥アラム 自然の地形で、大型の目安となるもの

・道探し…ラーイド
・道案内人…ダリール(あまり必要ないかもしれないけれど一応メモしておく

9 砂漠と火

・もてなしの火
……<もてなしの火> nar al-qria こそ、<火>に関連した砂漠の民の精神構造の一端を開示してくれるものなのである。先の第四章で、「寛大さ」がアラブの理想像を築く重要な徳目であること、そして中でも温厚さと物惜しみしないことが寛大さの最大の特色であったことを述べた。そして特に客へのもてなしに最大限努めることが寛大さの尺度であったことも。「客人は三日は客扱いされる」というアラブの古来からの道徳観は、荒涼とした地形と激しい温度差を伴う自然環境の中を旅する者への配慮からの所産であろう。疲れ果てた旅人が水、食料、休み場所を求め、砂漠のテントを訪れる。テントの住人は旅人を喜んで迎え、できる限りのもてなしをして旅人をなぐさめる。その際、旅人を拒んだり、客扱いを悪くしたりした場合、人徳に欠けるものとしてたちまち周囲の失笑を買うことになる。特に夜旅をする人の訪問に際しては、それを迎えもてなすのが神聖な義務とも証し得るものであった。砂漠の民が己の寛大さの美質を誇示すべく、夜旅をする者への道しるべとしたり、客人として歓迎する意思表示となっていたのがこの「もてなしの火 ナール・ル・キラー」であった。夜旅を続ける旅人が見過ごさないように、街道の近くまたは遠くからでも容易に見分けられるように砂丘の小高い所に、テントを張り、この「もてなしの火」はたかれた。

九世紀に編まれた『ハマーサの詩集』の中には、プレ・イスラムの時代、この慣行を自己の誇りと関連付けて歌った詩が何首か載せられている。「我がテントはラクダ道を占め またそれを前庭とせり。また小高き砂丘の頂に張りて、住まいとせり」。「他所の火がヴェールをかけられる(消される)時刻に 丘の上に一つ燃え続けるは彼の火ぞ。彼、豊かさの最たる者にあらねども 腕幅の広さ(寛大さ)の最たるはまぎれなし」。・・・・・・

「もてなしの火」をたく際、立ち上がる「煙」はそれが高く上がるほど寛大の高まりとして形容されるし、また、たいた後残った「灰」はその量が多いほど、もてなしの回数と時間の長さの喚喩に、また「灰を積み上げる者」ないし、「灰を多く持つ者」は寛大さを具象化した人物の喚喩となっている。

【追記】6/3

そう言えば70年代半ば、『サハラに死す』の上温湯青年も、
80年代に単独徒歩横断を成功させた前島幹雄氏も、
この「もてなしの火」精神に、ずいぶん助けられた。
文字通り命拾いをしたシーンが何度もあった。
前島氏の成功は、砂漠の民の「神聖な義務」がなければ、
成し遂げられなかったようにも思う。
ただし「もてなしの火」は、砂漠の過酷さの前に常に現れるわけではない。
「もてなしの火」に出会えなかった旅人は、上温湯青年だけでもない。

それにしても、ただ旅人の目印のためにだけ、
小高い丘に一晩中火をたき続けるだけの薪が、
かつてはそれほど充分にあったのだろうか。

【追記】06/06
前半があまりにもったいないような気がして読み返している。
なかで、砂漠の清浄さ、というのが心に残った。
プレイスラム社会でも、都市の乳幼児死亡率は砂漠より高く、ゆえに都市住民は、
二歳くらいまで子供を、砂漠の民(の乳母)に預ける習慣があったという。
モハメッドもしかり。

この本の面白さは、プレイスラム社会の風俗や習慣を描き出しているところだなあと、あらためて思う。
ジンとか。

06/07

アラブが知的遺産を膨大な書物の中に残していることは周知の事実である。言語学者に限らずすべての知的領域に書く習慣があったのは、アラビア語の高度の発達と学問の推奨のたまものである。アラビア語の高度の発達およびその維持に努めたのは、他でもないその言語の純粋性を保持し、学者達の習得の場を提供した砂漠、バーディヤであり、その担い手であり、継承者であったベドウィンであったことは特筆されなければならない。砂漠での幼児教育ともからんで、すべての知的遺産の手段となった言語が砂漠の持つ清浄観と純粋性といった特徴に彩られていることは、アラブ的特質の端的な事例として指摘されねばならない。

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