たたかいの作法

もしその政権が真に国民のことを慮る政権であるのなら、
まずこの投票日の設定はなかっただろう。
寒く、天候不順で、かつ十分な心の準備も与えれない。
憂鬱な気持ちで新聞を手に取ったその翌朝から一週間、
怒りも絶望も、希望すらあっというまに薄れていくせわしない年の暮れ。
52%という投票率も、この、感慨や思考がフェードアウトする速度の速さも、
いずれも見事に狙いが当たったと言うべきだろう。
これが700億円を支払った対価だと思うと、いっそう背中が寒い。

選挙公約に経済しか訴えなかった安倍さんは、勝利宣言のインタビューで早くも改憲を口にした。「この道しかない」とする「道」はアベノミクス=経済の立て直しだと打ち出す中で、たとえまれに改憲に触れたとしても、それは後のアリバイ用ということだ。争点からはずしておいてあとあと平気で抱き合わせる手法は、二年前より一層露骨になっている。

自民党が得た得票数は有権者の二割にすぎない。それが6割の議席数になるからくり。もし戦いに作法というものがあるとすれば、国民目線ではない日程の設定、不誠実な口先のごまかし言葉、そしてシステムの不備の三点セットは、たたかいの作法に叶っているとはいいがたい。

だが、たたかいとは、勝てばいいのである。たたかいである以上、策を弄し、持てるものは全て利用するのが正しい。二年から四年に延命し、走りぬいて目的を達すること。あとは野となれ山となれ。政権政党至上主義である。

それに比して有権者の戦術はどうだったのかというと、52%と二割(棄権、もしくは白紙投票)。テキがあまりに老獪であるのに、なんというナイーブさであろう。
朝日のこの表がそれを可視化しているが、一見しただけで深いタメイキがもれる。
テキの勝ちは、もはや不戦勝である。

senkyo
衆院選を動くグラフに 激増する無効・棄権票

(朝日デジタル 2014.12.19)

52%がどういう数字かというと、自民党が民主党に敗れた2009年と比較するとわかりやすい。是非サイトにアクセスして、2014年を確認した後、2009年をクリックしてみてほしい。

民主党に政権を取られ119議席にとどまった09年と今回を比べると、自民党は小選挙区で184万票、比例区で115万票減らしました。小選挙区の投票率は09年に69・28%でしたが、今回は戦後最低を更新する52・66%。無効票・棄権票の合計は小選挙区、比例区ともに5千万票を超えました。

野党のふがいなさ、入れる候補者・政党がない、どうせ同じ結果だろう、政治不信等々。52%には様々な形容や解説が賦与された。だが、権利でもあり義務である一票をどう用いるかという戦術で、私たちのたたかいの作法もまた、適切であったとはいいがたい。
これを内田樹は「判断の保留」としつつ、だがそれは同時に、安倍自民党の提示する「国家の株式会社化」の容認であると批判している。東京新聞への寄稿は少し言葉足らずなので、それを補ったブログ記事がわかりやすい。
東京新聞のロングヴァージョン「選挙の総括」 (内田樹の研究室) (2014.12.20)

戦後最低の投票率が意味するのは「政権の政策の成否の結果が出るまで、もう少し待つ」という有権者の「中腰のまま、大きな変化を望まない」傾向です。有権者は「大きな変化を望む」ならば投票所に向かうし、「自分の一票で政治が変わるかもしれない」と思えば、投票所に向かう。有権者の過半にはそのど ちらの気持ちもなかった。「大きな変化を望まない」という現状維持と、「自分の一票くらいで政治は変わらない」という無力感が、この歴史的な低投票率の意味するところでしょう。

自民党は「争点はアベノミクス」と言い張りました。要は経済成長である、と。経済成長に利するような政策を展開するから見ていてくれ、と。有権者の多くも「争点は経済だ」という言い分に頷きました。それは「政治の最優先事は金だ」という考え方に同意したということです。
とにかく金がいる。官民挙げてそれが国民の総意であるならば、結論は簡単です。国家を金儲けに特化したかたちで制度改革すればいい。国のしくみを営利企業に準拠して作り替えればいい。それが「国民国家の株式会社化」ということです。

国家を株式会社化する上で民主主義はもとより無用のものです。株式会社のCEOは独断専行で即断即決する。従業員や株主の合意を得てからはじめて経 営判断を下すような鈍くさい経営者はいません。株式会社は民主的に運営されているわけではない。ワンマン経営でもトップダウンでも構わない。なぜなら、経営判断の適否はただちにマーケットが下すからです。「マーケットは間違えない」。これはすべてのビジネスマンの信仰箇条です。これに異を唱えるビジネスマ ンはいません。経営判断の適否は、タイムラグなしに、ただちに、売り上げ、シェア、株価というかたちで目に見える。どれほど非民主的で独裁的なCEOで あっても、経営判断が成功している限り経営者に反対することは誰にもできません。
安倍首相がめざしているのは、そのような「株式会社化した国家を支配する、CEOのような統治者」です。

彼らが理解していないのは、政治にはビジネスにおける「マーケット」に対応するものが存在しないということです。
国政の適否の判断は今から50年後、100年後も日本という国が存続しており、国土が保全され、国民が安らぎのうちに暮らしているという事実によって事後的にしか判定されない。新製品がどれくらい市場に好感されたか、というような「マーケットの判断」に相当するものは国政については存在しない。
政府が行っている政策の適否がわかるのが自分たちの死後かも知れないという予測の不確かさを実感しているからこそ、民主制国家は独裁を認めないのです。
民主制国家でどれほど時間をかけても合意形成が即断即決よりも優先されるのは、採択された政策が「失敗」したとわかったときに、「CEOを馘首する」というソリューションがとれないからです(たいていの場合、失政の張本人はとっくに引退するか、死んでいます)。
そのとき失政の後始末をするのは国民国家の成員たちしかいない。誰にも責任を押しつけることができない。先祖がした失敗の尻ぬぐいは自分たちがするしかない、そういうマインドを国民の多くが持つための仕組みが民主制なのです。
政策を決定したのは国民の総意であった、それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、その失政の債務を支払う義務がある。という擬制を支えるのが民主制です。

安倍政治がめざしているのは、そういうものではありません。彼らは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味もない。彼らにとって政策の成否判断の最高審級は「次の選挙」です。次の選挙が彼らにとっての「マーケット」なのです。そして、「マーケットは間違えない」以上、次の選挙で当選するということは、それまで行った政策の適否についての歴史的判断はその時点で確定したということになる。5年後、10年後にその政策判断がどういう結果をもたらしたか、そんなことは与り知らない。
彼らが「文句があれば次の選挙で落とせばいい」とか「みそぎは済んだ」というような言い回しを好むのは、そうすることによって「直近の選挙結果が政策の適否を判定する最終審級であり、歴史的な審判などというものは考慮するに及ばない」というイデオロギーを国民に刷り込むためです。

ですから、安倍政権はある政策を採用すれば、株価がどう上がるか、次年度のGDPはどうなるかということには興味があるけれど、その結果、数年後に日本がどうなるかということにはほとんど想像力を用いない。
その点で、歴代でもっとも「知性と想像力を欠いた政権」と評するしかないでしょう。
集団的自衛権を行使して、米国の海外派兵に随行して米軍の戦闘行為の下請けをするようになれば、自衛隊が殺傷した人々の同胞たちは日本を「敵国」と認定し、いずれ日本人をテロの標的にすることでしょう。それによって失われる人命や破壊される財産や失われる社会的コストを彼らはゼロ査定しています。とりあえず、そのようなコストは「次の選挙」の前には発生するはずがないので、考えない。彼らの政策の適否を判定する「マーケット」は5年後10年後に日本がこうむるリスクを勘定に入れる商習慣がないマーケットだからです。

安倍政権が進めている政策は日本の戦後七十年の平和主義と民主主義の政体を根本から変えるものです。与党はそれを隠したまま争点を「金の話」に限定した。そして、「金が欲しいんでしょう、みなさんも」と叫び続けた。
これから先も、政府は自分たちが何をしようとしているのか、それが未来の日本にどのような影響を及ぼすかについては、何も語らないでしょう。
先のことは考えなくていい。目先の銭金だけが問題なのだ。それが国民の総意だったはずだ。そういう言い訳で彼らは自分たちの政体変革の歴史的意味を隠蔽し続けることでしょう。
私たちにできるのは「国家は金儲けのためにあるわけじゃない」という常識に立ち戻ることです。株式会社なら、経営に失敗しました。倒産しますで話は済む。株式会社は有限責任体ですから。株券が紙くずになっただけで終わりです。
でも、国家はそうはゆきません。失政のツケを国民は何十年も何百年も払い続けなければならない。私たちは国家の株主なんかじゃないし、むろん従業員でもな い。私たちの90%以上はこれからもずっと日本列島に住み、日本語を話し、日本の宗教や生活文化の中で生きることを宿命づけられている。逃げる先はどこにもない。次の選挙より先のことを考えない人たちに自分たちの運命を委ねることはできません。

一部だけ引用するつもりが、気が付けばほとんどを持ってきていた。だがこれは、まとめてどんと読むべき文である。

内田さんは『下流志向』で教育が消費行為化していると指摘し、グローバル化による国家の株式会社化も併せて同じ文脈で批判し続けているけれど、今回の選挙は安倍さんの置いた争点からも、その図式が非常にクリアに出ていると思う。

さて、以下はこの内田さん(の言説)をめぐって、
選挙とは関係のないたたかいの作法について思ったこと、である。

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