たたかいの作法

誰と名前は出さないけれど、若手の某イスラム政治学者が、しばらく前から内田さんに「たてつく」コメントを公に流している。仮にI氏とするのは、彼の感情的な攻撃の言葉がどうにもやりきれないからである。名前を出し、引用する気になれないのだ。それでもここに書くのは、ずっとひっかかってしまうのを整理しておきたい、ひとえに私の気持ちだけの問題である。

以前からI氏は、日本のイスラム学者や知識人がイスラム世界に素朴な共感をよせており、それがイスラム世界の紛争やテロの意味を見誤らせることになると、批判していた。このままでは一般的な日本人のイスラムに対する見方も誤った方向に導かれてしまうと危惧し、IS出現やその後の一連の動きに関しても、積極的に様々な媒体で発言している。

そのことは注目に値するし、異なった視点を示すことはまことに重要なことでもある。氏は一貫して、中東イスラム地域の紛争の原因を、ヨーロッパ植民地政策とその後の欧米の介入だけに非があるとするのは間違っている、イスラム世界やイスラムそのものにも紛争の原因はあるのだ、イスラムに対する共感から強権独裁やテロ行為に猶予や是をあたえるのは、利害関係のない遠国の幻想にすぎない、というようなことを主張している(と思う)。

これはこれでいいのだが、問題は、「イスラムにオルタナティブな価値を提示し、あこがれを植え付け」ようとしているイスラム学者と、それをナイーブに信奉し、「有害」で「不適切」な言説をまき散らす「ちゃらちゃらとした軽薄な」知識人や「えせ学者」に対するいらだちを隠さない(と見える)ことだ(「」で囲んだ言葉は記憶によるので正確ではないかもしれないけれど、このようなニュアンスで受け止めたということである)。

少し前の著作に名指しはない。それがここにきて、ぱらぱらと名指しでの言及が、それも内田樹にとくに甚だしいのである。数日前の東京新聞の衆院選挙の記事については、イスラムに関するものですらない。 内田さんの指摘する国の「株式会社化」(と国民のその容認)を、そんなものあんた以外の誰も望んでいないよ、思想を研究する者としては、こんな輩に思想家などと名乗って欲しくない(再度確認に行かないが、やはりニュアンスはこんなかんじ)、と「こき下ろして」いる。

「たてつく」と書き、「こき下ろしている」と書くのは、批判にすらなっていないと思うからである。だが、こういう感情の発露に、人は共感しやすい。それを見越して意図的に書いているのか、それとも、いらだちが的外れな個人攻撃に先鋭化するほど溜まってしまっているのか、それはわからない。いずれにしろ、これはたたかいの作法としては実に正しくない、と思うのである。

とんがっているのはいい。喧嘩を売るのもいい。当たり障りのない八方美人的な物言いよりよほどいいかもしれない。こういう人を、むしろ私は好きである。だからこそ、彼の子供じみた無作法が悲しい。無作法でも勝てばいい、という人であってほしくないし、この場合、無作法を通したうえに圧倒的に負ける可能性も高い。

そういえば彼の先輩には、たたかう作法にすぐれた哲学者、中島義道がいる。読みたい言葉は、I氏の専門であるイスラム政治に的を絞った、誤りならその誤りを正すような、噛み砕いた理路である。猛スピードで書き上げたという年明けに出る新書に、期待したい。

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