体罰について。
 学校やスポーツの「指導」で、何故暴力がまかり通ってきたのか。
作家のあさのあつこさんは新聞で、自分の子育てを振り返り、
 怒ってばかり(体罰もあり)いて、叱ることができなかった、と書いていた。
 叱るというのは、力関係で上位にいるものだけができることで、
 一方怒る行為は、下位の者から上位の者に対してなされる,と。
私は、怒りに力関係は関係なく生じるものだと思うけれど、
 怒るのではなく叱るべきだ、というのは同感だ。
 ただこれは、ルール違反や人を傷つけることをしたときの場合で、
 スポーツの指導現場では違うと思う。
 負けたり、ミスをしたから「叱る」、に違和感を感じないとしたら、
 そのほうがおかしい。
今日の朝日に、日本でも活躍したというアメリカ人プロレスラーのインタビューがあった。
 彼はスポーツでは失敗はあたりまえ、負けるのもあたりまえ、
 監督やコーチは、次にミスしないようどうするかを言葉で伝えるべきだ、
 と言っていた。
 そうだよ。
 失敗したから殴るって、サーカスの動物じゃないんだから。
「指導」というのは、学業でもスポーツにおいても、
 知性によって行われるものだろう。
 知性によって何事かを伝え、人を動かし、成長を促す。
 そのときの手段が、言葉だ。
 暴力は(体罰という呼称自体に違和感を感じる)、
 言葉の放棄であり、知性の放棄以外のなにものでもない。
連日新聞に記事が載っている。
 柔道界、いや日本のスポーツ界全体の問題だ、
 教育現場全ての問題だ、と。
ならばまず、言葉の復権を挙げて欲しい。
 いや、もともとなかったものを復権とは言わないか。
 とするなら獲得、だ。
 閉ざされた場に、明らかな権力関係がある。
 これは家庭でも、職場でも同じだ。
 そこで弱者が奪われるのは言葉だ。
 一方、知性のない強者も、権力維持や増強のために、言葉を捨てて暴力を選ぶ。
そのうえで、ミスや負けを「罰する」という思想の払拭。
 「罰」もまた、権力の行使に他ならない。
行き過ぎた金メダル(勝利)志向があったと、告発された監督は弁明している。
 そうではないと、誰かもっと大きな声で言ってくれ。
 あんたはまるでサーカスの熊を調教するように、
 人間を暴力による恐怖で支配し、動かそうとした、
 つまり、人間を「指導」するべき資質も資格もないのだ、と。
女性アスリート15名が「言葉」を発した勇気を、讃えたい。
 きっとこのことは、たくさんの人が「言葉」を獲得する助けになるだろう。
 同時に、報道されて初めて、あるいは海外から注目されてようやく、
 さらには五輪招致とからんでやっと注目されたという点に、
 私たちはもっとひっかかりを持つべきだろう。
 そして、顔も名前も出さずにしか告発できなかったという点。
「言葉」に対する鈍感さが、そこに、ここに、どっかりと横たわってある。
 下手をすれば、鈍感さは「言葉狩り」に転じる。
 「言葉」を発し、届けていく障壁のなんと高いことか。
 彼女たちが今回発した「言葉」は、この国の人たちや社会のありようにも、
 向けられているのだ。
もっと言葉を!
 







その後の新聞に、日本のスポーツ教育の手法は、軍隊を引きずっている、
というものがあった。
今日はま、部活がアスリート育成を目指すのは、
スポーツ教育の理念と隔たりがある、というものもあった。
だが、一番「そうだよなあ」と思ったのはこちら。
メルマがで読んだものがサイトにもあった。
http://www.soubunshu.com/article/319466334.html
ことは限られた教育や部活やスポーツ界の問題ではない、
職場も同じだ、というもの。
同感。
だから日本は全部にこれがあるんだってば。
あと、夕べTVを見ていて気がついたんだけど、どつき漫才というのもあった。
これもまた、暴力が日常化し、麻痺している姿なんじゃないだろうか。
人を殴り、殴られるのがギャグになる。
でもなあ、とさらに思う。
これも誰も言わないけれど、きっと殴るのは快感なんだろう。
一度殴る味を覚えてしまうと、人はそれを忘れられないのだ。
そして殴り殴られることを見物するのも。
コロッセオからボクシングまで、見物の快楽の歴史も長い。
スポーツに潜む暴力=快楽装置を、
純粋にスポーツの中に閉じ込めることは出来るのだろうか。
でも確か、それが近代スポーツ精神とかいうもののはずなんだよなあ。