Egypt 2013 ③ to the Sahara-1

エジプトは90%が砂漠だ。
緑はナイル川の両岸と、砂漠のオアシスにあるばかり。
ナイルを背に、ヤシが茂る緑地帯を離れると、
すぐに、いきなり、砂漠となる。
まるで、街路の喧騒からモスクの静寂世界にひとまたぎで入るかのように、
変化の過程にグラデーションがない。

◆オアシスまで

3月5日、朝7時、まずはバハレイヤオアシスを目指す。
渋滞は郊外に出るといっそうひどくなった。
工場地帯に通う労働者が、乗り合いバスにぎっしりと詰め込まれている。
進まない車列を指しながらアムロ君が、
この先にガソリンスタンドがあるから余計悪い、と言う。
革命(彼らは「アラブの春」とは言わない)後ガソリンが不足していて、
長時間並ばないと買えないのだ。

Egypt 2013 ③ to the Sahara-1

私とガイドをオアシスまで運ぶ9人乗りのワゴン車は、
渋滞の車列を離れ、スタンドの裏にまわった。
観光関連の車は別枠でガソリンを売ってもらえるとのこと。
バスやトラックが数台並んでいる。
公共性が高い車に優先枠があるのは確かのようだ。
だが、給油係は首をふるだけで、私たちは冷たく追い立てられた。

ドライバーもアムロ君も、必要以上に食い下がろうとはしない。
列に並び直すでもなく、そのまま進行方向の車線に戻る。
大丈夫なんだろうか。
砂漠の真ん中でガソリンがなくなったら?
けれども私は、疑問を口にしなかった。
二人があまりに涼しい顔をしていたからだ。
それに、私が心配してどうなるものでもない。

ある地点で、前を走る車のほとんど全てが右折した。
振り向くと後ろの車列も、相変わらず繋がったまま、右折していく。
本当に皆、工場地帯へ向かう通勤車両だったのだ。
私たちはいきなり、すれ違う車もない砂漠の一本道を、
疾走していた。

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途中一軒しかないドライブインで車を止めると、
ドライバーは後部座席から、
お茶のようなものが入ったペットボトルを取り出した。
ガソリンだった。見ると、ガソリンタンクも積んでいる。
彼はオアシスまでに二度、
ペットボトルでガソリンを補給した。

 

突然、ごとんと音がした。
運転席側のサイドミラーが落ちたのだ。
ユーターンして探しに行く。すぐに見つかり回収。
後続の車がいない場所でよかった。
このときも、二人とも涼しい顔をしている。
アムロ君など、拾ったミラーを手にして、微笑んでいるくらいだ。

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また沿道に、砂を盛り上げた上に、タイヤをでんと置いている塚がある。
一定距離走ると、まるで一里塚のように現れる。
この先にタイヤ修理所があるという標識だった。
それだけよく、タイヤはパンクしたり、破損したり、するのだろうか。

エジプトには、見たこともないような古い車が走っている。
アンティークと呼びたくなるようなものもあって、
ナンバープレートだけでも骨董屋に売れそうだ。
私たちのワゴンも、オアシスから先の命を預けたトヨタのランドクルーザーも、
どちらもかなり古い。たぶん20年はくだらないだろう。

彼らは皆車が古くなっても、修理しながら大事に乗っているのだ。
直前にルクソールで起きた気球の事故のことを思った。
あの気球も、古かったのではないか。
アムロ君は、あれは不幸な事故だったけれど、
点検もしっかりとしていたし、特別問題はなかった、
単なる事故なんだ、と強調した。
この言い分を聞いたのがエジプトに来る前であったなら、
私は反論していただろう。たとえ整備していたにしても、
耐用年数を越えていたのではないか、と。

でも、古い車があたりまえのこの国で、反論はできなかった。
そもそも耐用年数とは何だろう。
部品の生産は発売から5年間、などと、
メーカーが勝手に決めたものではないのか。

砂漠を二日間走り抜いたランドクルーザーは、
ダッシュボードはもこもこのフェイクファーで、
後部シートはカラフルな絨毯で、
そして天井はフチにフリンジのついた織物で、きれいに覆われていた。
それらを剥がせば、きっとプラスチックボードや、
合成ファブリックシートは、ぼろぼろなのだろう。
だがトヨタの走りには、何の問題もないのだ。

翌日砂漠キャンプから戻ると、同じドライバーとワゴン車が待っていた。
彼らは一晩をオアシスでリフレッシュしていたのだ。
根元から折れたドアミラーは、きれいに修理されていた。

もうひとつ、エジプトでどうしても目に入ってしまうものがある。
市街地のゴミである。
アレキサンドリアでもそうだったように、住宅街にはゴミが溢れている。
昨年も、バスがナイルの脇の用水路に沿って走っている間、
水路の両岸に高々とゴミが積まれているのを見た。
川底をさらったゴミのようであったが、それがもうひとつの岸部のように、
途切れることなく続いていた。
私と友人は、あまりのことに反対側の座席に移った。
観光客はこうして、見たくないものを見ないですますことができる。

ドッキ地区の道路にも、ゴミがぶちまけられていた。
すごいね、と私がつぶやくと、
アムロくんが言った。
エジプトにはゴミ回収システムがないからね。

虚を衝かれた思いだった。
ゴミ回収システムが、ない……。
じゃあ焼却場も? 尋ねると、
彼はあたりまえでしょうとばかりにと、首をよこにふる。
じゃいったいどうするの、これ。
誰もが、砂漠に捨てればいいと、思ってるんです。

オアシスに向かう道路の、アスファルトの脇はすぐ砂地である。
そこにときおり、道路工事のためなのか、土砂が積まれている。
なかに見え隠れするゴミは、
埋めるために砂に混ぜられたものだろうか。
それとも、いつのまにか街から風に乗って、運ばれてきたものか。
ゴミは、市街地から離れるに従って、
砂漠の奥に踏み込むに従って目につかなくなり、やがて消えた。
ゴミを埋める場所は、確かに広大にある。
だけど、それでいいのか!?

この国に、交差点の信号が規則正しく点灯し、
人びとがそれに従うシステムとルールが確立されるのは、いつのことだろう。
ゴミ収集車が決まった曜日に住宅街を走るのは……。

こう書きながら私は、日本の、どこにも捨て場のない、
何万年も分解されることのない、膨大なゴミのことを思っている。
汚すものを、汚れたものを、私たちもまた、
市街地から離れた砂漠(過疎の村)に、捨てようとしてきた。
捨てられると思い込んで、その愚かさから目をそむけてきた。
そして、勝手な思い込みが破綻し、愚かさが露呈しても、
この、危険なゴミの回収システムを、作れないでいる。

帰国してから知ったのだが、エジプトではある時期まで、
キリスト教徒が私的にゴミを回収してきたらしい。
ボランティアとか、そういうことではない。
残飯を豚の餌にするためである。
この「システム」は、豚インフルエンザの発生によって禁止された。

砂は清潔だからね。
砂漠の民がどこかで言っていたこともまた、思い出された。
私たちが、汚れを水に流すことを自然なことと考えるように、
彼らは、砂が浄化し、清めるものであると考えている。

道路には、砂が、水のベールように走ることがあった。
あるいは砂は波のように押し寄せ、岸辺を侵食していた。
アスファルトは砂の海に半ば飲み込まれており、
車はスピードを落とし、なるべく砂の波を踏まないように、
回り込まなければならなかった。
砂は本当に、水に似ていた。

一度、窓の外に動くものがあった。
7センチほどの大きさの、トンボだった。
トンボだよ、トンボ、こんな砂漠に……。
大騒ぎする私に、アムロ君は黙って笑っている。
どこかに小さな水の流れでもあるのかと見回したが、
見えるのは砂ばかりだった。

ドライブインを過ぎると、また砂漠の道が続いた。
砂漠は石ころ交じりの平らな砂地であったり、その向こうに、
屏風のような岩が断層を見せていたり、
水か、あるいは風に削られた筋が刻まれた岩山があったり、
色合いの異なった砂がやわらかに景色を分割していたりと、
次々に相貌を変えて私の視界三方を囲み続け、飽きなかった。

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高くなった陽射しが、
ダッシュボードに置かれたコーランの金のアラベスク模様を、
フロントガラスに映し出していた。
見とれていると、ふいに、目の前の道路の先が低く落ち込み、
今までの砂の色とはまったく異なる、淡い水色の風景が広がっていた。
オアシスだった。

Salt Lake in Bahariya Oasis, Kel Assouf

車は緩やかに下っていった。
金網のゲートがあり、ドライバーは一枚の書類を持って、
門衛の小屋に向かった。
私の砂漠キャンプについては、パスポートのコピーを添えて、
許可をとってあるはずだった。

サハラは国の境もなく広がっているけれど、
白砂漠と黒砂漠は国立公園ということもあり、
外国人が誰でも勝手に砂漠に入っていいわけではない。
観光客には入砂漠料が課されるし、キャンプをする場所も決められている。
それに、茫茫たる砂の大地の向こうはリビアで、
まっすぐ南北に引かれた国境は、たぶん千キロくらい。
だから、ところどころに軍の検問所がある。

ゲートを過ぎると、両側はナツメヤシ園だった。

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砂と岩の色ばかり見続けた目には、緑が深く、重く、頼もしい。
すぐに、オアシスの村バウィーティに着く。
埃っぽい通りに沿って商店が並び、ガラピーヤ(長衣)姿の老人や、
チャドルの夫人や、オートバイにまたがった若者とすれ違う。
村人の6割は農業、4割は観光で食べているとのこと。

小道に停めて、迎えのランドクルーザを待つ。
目の前のモスクから、昼のお祈りに誘うアザーンが流れてきた。
カイロから370キロ、5時間がたっていた。

ムハンマド邸は、塀に囲まれた平屋建てで、
高床の玄関前のテラスは、ハチミツ色に磨かれた大理石だった。
見下ろす庭に植えられているのは、果樹のようだ。

客間で待っていると、ふらりと二人のベドウィンが入ってきた。
丸顔に丸いお腹のマグディはドライバー。
トレーナーにだぼだぼジャージズボンで、頭にスカーフを巻いている。

サムハーは白の長衣にインディゴブルーのベスト、
頭は巻きスカーフで、全身正統ベドウィンスタイル。
すてきだね、と言うと、そうさ、これがベドウィンだよ、とポーズをとる。
ミュージック担当、と紹介された。

私が最初頼んでいたのは、現地ドライバーと英語アシスタントのみ。
英語ドライバーだけという手もあったのだが(割安だし)、
二人っきりは気詰まりだろうと、アシスタントもつけたのだった。
それが、手配会社のサービスでアシスタントが日本語ガイドとなり、
さらにミュージック担当までおまけされるとは!

現地手配会社とは、主に日本人向けにツアーを造成し、
売っている会社だ。
顧客は私のような個人旅行者から、大手旅行会社にまで及ぶ。
日本人観光客が減ってしまっているので、
こんなに奮発してくれたのかもしれない。

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