Egypt 2013 ① 地中海へ

私ってば、なんでまたエジプトになんぞ行くんだろう、
出かける前にそう思っていた。
政治状態はあいかわらず不安定で、
デモは再燃していたし、死者も出てるようなのに、一人で、
しかもカイロのイスラム地区や砂漠になんて、行かなくてもいいのに、と。

最初はツアーに申し込んでいたのだ。
ホテルはリストから、タハリール広場のすぐ裏手の、
観光に便利そうなところを選んで。
すると催行会社から、デモがあるとホテルに帰れない恐れがあるので、
ここはお勧めできない、と言ってきた。
だったらリストアップするなよ、であるが、
砂漠ツアーがセットされたプランに申し込んだのが私一人だと聞き、
文句の言葉もひっこんだ。
さてどうしよう。

一人って、良いかも。
すぐにそう思った。
これで気が済むまで、ふらふら歩ける。
だが、ホテル選びやプラン変更で紆余曲折があり、
申し込んだツアー契約は頓挫してしまった。

それでも、すっかりその気になった気持ちは治まらない。
今を逃したら二度と機会は訪れないかもしれない。
旅のタイミングとはそういうものだし、何より気力が萎えてしまう気がした。
私ってば、いつまでこんなふうな旅をするんだろう、
とためいきまじりに思いながら、同時に、
いつまでできるんだろう、とも思うのだった。

もたついていたツアー頼みを断り、結局全て自分で手配した。
すると、ことはすらすらと進み、
「なんでまた」と「いつまで」の問いは問いのまま、
旅は始まってしまった。

いや、始まりは一年前の旅に、すでにあった。
2012年2月、紀元前三千年にさかのぼるエジプト文明の遺跡群を、
ルクソールからカイロまでたどった。
巨大な神殿、巨大な葬祭殿、鮮やかな神々の姿が描かれた墳墓、
ギザのピラミッド、さらに古いピラミッド郡、
そして、博物館の黄金のマスクや、棺や、王たちのひからびた遺体。

最後に、カイロのハーン・ハリーリバザールに行った。
ピラミッド型のチョコレートを売る店に案内されたあと、
みやげ物ショッピングに放り出された。
短い時間で、気持ちがもみくちゃになって、
ピラミッドやスカラベやファラオの像が溢れるイスラムの市場と、
古代エジプトの間の「断絶」の感覚だけが、胸に残った。

ホテルに戻るバスは、高い石の要塞を迂回していた。
その壁の向こうに、モスクのドームと尖塔が、夕日に映えていた。
私は五千年のエジプトの歴史の、最初の三千年には触れた。
けれども、今に続く残りはちゃんと見ていない。
すっぽりと抜けている時間が二千年もある。
市場で感じた古代と現代の「断絶」は、この、
抜け落ちている時間ゆえにだろうか。
あるいは時間の隔たりだけではない何かが、あるのだろうか。
あのとき、問いはまだ形になっていなかった。
それでも次の旅に続く小さな種が、埋め込まれたのは確かだった。

2013年3月4日、二度目の旅の初日。
朝一番に、一年前バスから眺めた要塞を訪れた。
シタデル。十字軍と戦った城。
あの日夕日に遠ざかっていった壁は目の前にあり、門は開かれていた。
城はカイロを一望する高台に建つ。
遠くに、青くかすんだピラミッドが見えた。

Egypt 2013 ① 地中海へ

 

◆アレキサンダー、クレオパトラ、聖マルコ

フリーの一人旅になったので、
アレキサンドリアまで足を伸ばしてみる気になった。
カイロに浸ることと、砂漠に浸ることの二つが目的だったのに、欲が出た。
そうすれば、紀元前332年のアレキサンダー大王のエジプト征服から、
その臣下によるプトレマイオス朝の最後の女王クレオパトラまでの300年、
そして、その後のキリスト教時代450年ほどの、
私の中の空白のいくつかのピースが埋まるはずだ。

3月8日、金曜日。
イスラムの休日とあって、車は順調にカイロを抜け、
海辺の街を目指して北上する。

埃っぽい郊外の家並みが途切れると、
やがてヤシなどの木々が目につくようになる。
葉の色が、砂漠のオアシスとは明らかに違う。
オアシスのヤシは砂の色をまとっていたが、
ここのヤシは雨に洗われたような濃い緑だ。

水の予感は、いきなりデルタ地帯に突入して現実のものとなる。
葦の茂みの合間に、ナイルが海に注ぐ、
淀みのような水の面が光っている。

アレキサンドリアはカイロと違って、とても素敵な、
まるでヨーロッパのような街です。
カイロの旧市街や砂漠を一緒にまわったガイド、アムロ君は言った。
頭の中に、地中海を望む街並みに共通のイメージが浮かんだ。
青い海と空と、白い建物の三位一体。

市街地に入り、最初に目に飛び込んできたのは、
川岸に広くぶちまけられたゴミの山だった。
その向こうに、雑然と建物が並んでいる。
市場にはたくさんのアラビア文字の旗が舞い、
白亜のモスクと、薄汚れたビルが隣り合っていた。
野犬が何匹か、ぼこぼこにへこんだ車の横を走る。

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なあんだ、と、安堵と共に私は思った。
やっぱりここもエジプトだった。
確かにヨーロッパのような建物も多い。
ルネッサンス風の窓枠に、緑に塗られた木のよろい戸。
石畳のレールを路面電車が走る。

けれども、手入れされていない建物や、
崩れかかった建物も目につく。
そんな建物の間の路地に入ると、ムルシ大統領のポスターが、
洗濯物の代わりに頭上に渡されていたりする。

荷車の果物売り、露台の絨毯売り、
歩道に古タイヤを積み上げたタイヤ修理屋、
店の前に、三等分にぶったぎった車体の、
なぜか前の部分だけを重ね、並べている車修理屋、
茶店の店先で水タバコを吸う男たち。
それら現代のエジプトに挟まれて、ぽっかりと遺跡がある。
カタコンベ(地下墓地)、古代ローマの神殿跡、円形劇場、公衆浴場。

紀元1-2世紀の墓地。地下に続く階段は、
真ん中に掘りぬかれた丸い井戸をめぐって下る。
その周囲に貴族の墓室と、カイコ棚のような庶民の墓が分かれてある。
壁画では、古代エジプトの女神に似た女性が二人、
寝台の上に、ミイラを覆う棺を乗せ、儀式を行っている。
彫像はギリシャの顔立ちだが、立ち姿はエジプトの神々や王たちと同じ、
右足を一歩前に踏み出した姿勢だ。
初めて触れる、古代エジプトと、ギリシャ・ローマの不思議な混交。

また、ポンペイの柱と呼ばれている、美しい花崗岩の柱がある。

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これはクレオパトラやカエサル、アントニウスの時代のポンペイウスではなく、それより300年も後、ディオクレティアヌス帝が建てた神殿・図書館の柱で、かつて400本あったというが、今ではたった一本が立つばかり。
その柱の両脇に、柱と同じ色の石で作られたスフィンクスが二体、
まるで神社の狛犬のように柱を守っている。
地下には広い書庫。
階段の両脇に、本を置く棚が無数に穿たれている。

 

スケジュールになかった円形劇場にも、入場券を払って入る。
ローマ帝国が街を成したところには、神殿や宮殿だけでなく、
必ず公衆浴場と、そして円形劇場がある。
アレキサンドリアに残っているのなら、はずすわけにはいかない。

円形劇場こそ、道路と並ぶローマ精神の象徴だと思う。
神殿でもなく、宮殿でもなく、劇場があること。
排他的な宗教でもなく、強権的な規律でもなく、
敵に対する結束力でもなく、ただ楽しみのために、
人びとが一体となれた時間の記憶。

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アレキサンドリアの円形劇場は、
市街地の真ん中にあった。
かつて舞台があった正面に立ち、
こじんまりとした半円形を眺める。
客席はわずか十数段、見上げるほどもない高さだ。
収容観客数600名。
エジプトに現存する唯一のローマ劇場というが、
皇帝直轄の属州であったにしては、規模が小さい。

色の異なる、石柱の一部や柱頭らしきものが三つ重ねられていて、
一番上の石にはコプト教の十字架が浮き彫られていた。
この劇場が作られた2世紀、エジプトにはキリスト教が広まっていた。
ときには激しい迫害が繰り返されていた時代、この宗教のシンボルは、
ローマ的な空間に、どのように意味を与えていたのだろう。

今ではヴェネツィアの守護聖人として有名な聖マルコは、
この町で布教を行ない、殉教した。
アレキサンドリアは、ローマやアンティオキア(トルコ)と並ぶ、
古代キリスト教の中心都市だったというけれど、
その面影をたどることは、(こんな短い時間では)なかなかに難しい。

もっとも、たどるのが難しいのは、古代ローマもギリシャも同じだった。
ディオクレティアヌスが建てたと言われる柱にしても、
まだ多くの謎が残っている。
その脇に無邪気に置かれたスフィンクスは、
写真撮影にはいいけれど、歴史的整合性としてはどうなのか。
そもそも別の場所から発掘されたものなのだ。
クレオパトラの宮殿は水の中に眠っているし、
プトレマイオスが遺骸を持ち帰り、建設したというアレキサンダーの墓は、
まだ見つかっていない。

モダンなアレキサンドリア図書館は休日で入館できず、外観のみ。
ヘレニズム時代には世界最大の図書館だったというが、
ローマ時代に灰と化した。
カエサルとの戦闘によるとも、キリスト教徒の破壊によるとも伝えられる。
その数パピルスの巻物にして70万巻あった蔵書の大半は、
失われてしまった。

海岸通りを走り、広大な公園の中にある、
19世紀の王が建てたモンタザ宮殿を眺め、また海岸通りを戻って、
15世紀のスルタンが建てたカーイトゥベーイの要塞を眺める。
どちらも青い海に白くぴかぴかと映えている。

公園の近くの遊歩道から、要塞を望む記念撮影ポイントから、
そしてレストランの窓から、地中海を眺める。
けれども、昔シチリアのエリチェという山上の町で、
晴れた日にはアフリカ(チュニジア)が見える、
と聞かされたときのようには、心が躍らない。

あのとき、ヨーロッパとアフリカは、
海に隔てられたまったく異なった大陸などではなく、
優れた道であった海によって、
行きかい、交じり合う近しい世界だということを知った。
同時に、南と北だけでなく、西や東の国々も、
海を通じて繋がっているのだと。
その地中海のこちら側に、やっとたどり着いたというのに。

アレキサンダーによって開かれたヘレニズム世界の面影や、
その後、地中海をぐるりと囲い込むことになるローマ文明圏の痕跡の、
切れ端のようなものには触れた。
いったい私は何が気に入らないのだろう。

それらの切れ端が、あまり重要視されていないようであるのは、
仕方のないことに思えた。
たくさんの掘り出された柱が、
まるで材木屋の丸太のように番号をふって転がされ、
元の形に組み上げられるのを待っていた。
古いものから順に復元の栄に与るとすれば、
この国で二千年前まで順番がまわってくるのは、だいぶ先のことだ。

私は、本当なら繋げられるはずなのに、
いくつかの破片がみつからないために、
あるいはきちんと番号をふられていないために、
繋げることが出来ないなにかを、抱えているような気がした。
ぷつんと断ち切られた断面を、途方にくれて眺めているようでもあった。
何かに近づけると思って来てみたら、その何かは一層遠いところにある、
あるいは、そんなものは元々なかったのかのようにも、感じられるのだった。

ばらばらになっているのは、むしろ自分の心と体で、
心がここにはないということかもしれなかった。
たぶん私はまだ、数日前に訪れた砂の海に、
とらわれたままだったのだ。

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つづく(予定)

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